炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

訳の分からぬ日本語

2009-08-13 16:22:31 | Weblog
 最近の政治家の不真面目さに、腹立たしさと失望を感じる。特に、訳の分からない日本語(?)をひねり出し、それを振りかざす事で、訳の分からないままごまかしているのではないか。新聞まで疑問を呈するどころか、それに悪乗りしているのは情けない。政治家は言葉が命であり、分かりやすい明瞭な言葉で、それなりの重みを持って国民に語りかけるのが第一義ではないか。
 おかしな日本語の例を示せば、「政治の責任力」。新聞一面にでかでかと出ていた。「政治を確実に実行する力というならわかるが、わざわざ「責任力」と断る意味が分からない。いったい何の「力(能力)」というのであろうか。政治の結果に対して責任を取る能力があるとでもいう積もりなのであろうか。しかし、責任を取るのは当たり前であって、能力の有りなしには関係が無いのではないか。あるいは責任を取るいろいろな方法があって、それを適宜うまい具合に選択(策を弄して)してうやむやにしてしまう能力があるというのであろうか。
 もうひとつ、「政権担当能力」。能力が有るか無いかは国民が判断することで、失政の反省がないまま、自画自賛すべきことではない。国民から政権を付託されているという意識が欠如しているのではないか。むしろ、ここでいう「政権担当能力」とは、恥も外聞も無く政権しがみつく能力ではないのと、皮肉りたくもなる。
 もう少し真面目に政治を語ってもらいたいものだ。
 妙な感じといえば、衆院解散宣言のときにほとんど全員の議員諸公が万歳をしていたが、万歳を叫ぶ気心が知れないし、どういうことなのか理解できない。いよいよ国民の審判を受ける時なのであるから、もっと真剣で厳粛な瞬間なのではないか。
 こういう話はしたくないかったが、我慢しきれなくなった。(Robert・Nielsen)