龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大震災の後で(18)

2011年07月21日 22時53分09秒 | 大震災の中で
オーギュスタン・ベルクの講演を聴いていて、印象的なフレーズがいくつかあった。
同時通訳のレジュメなしだから、勘違いも多いかも知れないけれど、和辻哲郎の『風土』は環境決定論ではない、という指摘した上でドイツ哲学の影響に触れつつ、ハイデガーが死から「生」を逆照射して存在論を考えたことを、ハイデガーの誤りだとさらっと言ってのけたところに今は注目してみたい。

和辻は決して環境決定論を述べたわけではなく、「人間存在の構造契機」として、主体と環境の相互的な関係を追求したのだ、とベルグ氏は言う。
このとき、主体というのはむしろ外に出て行く働きとして捉え得る。
生態的な環境に向かって外に出て行く主体。
自分が自分でなくなる「間」を生きること、といってもいいのかもしれない。

この環境と主体の関わりにおいては、動物的・生物的次元と、文化的・言語的・象徴的次元とを区別しつつ論じていくんですけどね。
そちらについてはメディア日記を参照のこと。

存在/存在者、死/生という絶対的な「差異」に根ざして存在を突き詰めていく行為は、むしろ縮減した「郷土」や「共同体論」に統合・還元されてしまうのではないか。
主体から「外へ」出て環境との間に「生」を見いだすエコロジカルな相互横断性を見失ってしまうのではないか、というベルク氏の視点は、じっくり検討するに値するものだと感じる。

和辻哲郎の『風土』が本当に、ベルク氏のいうメディエンスという中間的存在を明確に指し示しているのかどうか、はもう一度『風土』を読み直さないとなんとも言えませんが。

それはそれとして、ベルグ氏の言いたいことは腑に落ちます。

だって、この庭は、どこを掬おうにも、どこをとってもセシウム137で一杯なのだ、から。

そういう「環境」の中で「生」を考えていくと、人間の営みは実にベルク氏のいうメディエンスという概念で考えなければ十全に捉えられないことが見えてくる。

セシウム137は、ある意味では福島県の環境における「負」の絶対性を指し示している。

それはぎりぎりまで人為を無理に推し進めていった結果、自然がその人為の裂け目に顔を出した、その事象の直接的結果だ。そういう意味で、セシウム137は人為が破けた裂け目としての「自然」=絶対=「神の痕跡」ということもできるかもしれない。

まさか放射能を神様とあがめるわけにもいかないけどさ(苦笑)。

それでも、私達は目に見えない、触れないその「人為=自然」の結果と、これから少なくても30年以上付き合っていかねばならないのだ。技術的には除染とか、部分的に対応はできるにしても、私達は単なる科学的主体としてそのセシウム137の影響を完全に排除しきるわけにはいかない。

かといって、それをなかったことにして3/11以前の生活をすることもできないだろう。

私達は、宿命的にメディエンスという中間性=関係性、つまり「構造契機」を生きる存在だ、ということか。



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