『果てなき路』 ~だから映画はやめられない!

2012-02-12 02:22:22 | 映画&ドラマ

 

 孤高のロードムービー『断絶』(71)、そして愛してやまない『コックファイター』(74)を世に送り出したモンテ・ヘルマンの新作!(21年ぶりだそうだ)と聞けば観ずにはいられない。試験が終わった週末の土曜日に、渋谷のイメージフォーラムまで駆け参じた。今年最初の映画だった。

 男が「ROAD TO NOWHERE」とマジックで書かれたDVDをノートパソコンのスロットボードに入れ、パソコンの画面に映像が映し出される。アメリカンニューシネマに代表される粒子が荒いけれども非常に生々しい画面や、ハリウッド映画の黄金時代に象徴される目も覚めるようなテクニカラー画面に、光と影の演出が芸術的な域に達していた魅惑のモノクロ画面、はたまた70mmの巨大カメラで撮影されたダイナミックな画面こそが映画だと信じる者には、まことに拍子外れのオープニングだ。これが映画なのだろうか、それもモンテ・ヘルマンの?

 その問いは、パソコンの画面が徐々に大写しになってヴィスタサイズのスクリーンと合致した瞬間に消滅した。これこそが自分の見たい映画だった。これだから映画はやめられない。とりわけ冒頭の十数分は驚嘆に値する。
 ジョナス・メカスは、16mmカメラで撮影した映画フィルムから数コマを取り出し印画紙に焼き付け、これをフローズンフィルムと名付けたが、メカスがしたように、今見ている映画のどこでもいいから数コマを取り出し印画紙に焼き付けたくなった。カメラは固定されているか、極めてゆっくり動くので、見ている映像が実に写真的だ。一コマを取り出せば、構図も露出も色合いも完璧な写真になると思った。
 録音されている音も素晴らしい。音楽や人の声に艶があって、一音一音に緊張感が漲っている。静けさ(空気感というべきか)までが録音されているのだ。これが映画なのだと思った。
 撮影には、フィルムカメラでもデジタルビデオカメラでもなく、登場人物たちが映画の撮影に使っていたように、デジタル一眼レフカメラの EOS-5D MARK2 が使用されたそうだ。映画を見ている最中は、実際の撮影にもこのカメラが使われていたとは思いもしなかったが、一眼レフカメラで撮影したから写真を思わせるような質感の動画になったのだろうか。だとすれば若干話が脇道にそれるが、デジタル一眼レフカメラで撮影する動画を見直さなければならない。自分はそれを付録としか考えていなかったからだ。
 モンテ・ヘルマンは、EOS-5D MARK2 の発色が三色式テクニカラーの映像にとても近い、と絶賛している。実を言うと、呪われた映画になってしまった『断絶』も、(ニュープリント版を見えてもそうだと信じられないが)三色式のテクニカラーで撮影された最後の数本の映画だった。EOS-5D MARK2 が「写真」だけではなく「映画」や「フローズンフィルム」も撮れる夢のような機械ならば、これはもう「事件」と言ってもよい。

 『果てなき路』は映画作りの過程を描いた映画でもある。21年間の空白に対する恨み辛みがあってもよさそうだが、微塵も見られない。口にした途端に嘘っぽくなってしまうが、デビューしたての新人監督のように映画への想いがこめられていた。
 「映画への想い」といっても、「映画とは何か」と深刻に考えるより「映画で遊ぶ」程度にしておいた方が賢そうだ。意味を考えるのではなくて、サミュエル・フラーが俳優に言った有名な一言や、『カサブランカ』でハンフリー・ボガートが酔っ払いながら呟いた台詞など、ところどころ登場する「映画の引用」にニヤッとするだけでいい。劇中挿入されるプレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』(41)、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』(73)、イングマル・ベルイマンの『第七の封印』(57)のクライマックスシーンについても同じである。未見だったら何かの機会に見てほしい。それだけの甲斐はある映画だ。そう言う自分も、スタージェスとベルイマンを久しく見ていない。
 『果てなき路』は、成功したかしないかは微妙なところだが、今は絶滅品種となったフィルム・ノワールでもある。フィルム・ノワールに登場するヒロイン(大半が悪女だが)はファム・ファタール(運命の女)とも呼ばれる。最初に銀幕に登場したファム・ファタールは、『パンドラの箱』(29)のヒロイン、ルイズ・ブルックスとしておく。
 彼女たちは二面性を持っているのが常だが、『果てなき路』のヒロインは、ある事件の主人公と彼女を演じる女優という形で一人の人物が、しかもどちらの彼女を演じているのか観客にわからないように演じている。そしてその点が、同じように一人二役が鍵となっているオットー・プレミンジャーの『ローラ殺人事件』(44)におけるジーン・ティアニーや、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(58)におけるキム・ノヴァク、そしてブライアン・デ・パルマの『愛のメモリー』(76)におけるジュヌヴィエーヴ・ビジョルドとは決定的に異なっているのである。
 というのも、彼女たちの二面性ははっきり「区別」されていたからだ。『めまい』の場合は、ブロンドの彼女はある計画のためにブルネットの彼女が演じた虚構の女性だった。けれども現実には存在しないブロンドの彼女を愛してしまった主人公は、ブルネットの彼女が死んだ筈のブロンドの恋人にそっくりだという理由から、彼女の髪をブロンドに染めさせ死者と同じ服を着させる。『ローラ殺人事件』だとローラという名の女性はすでに死んでいて、物語の前半はローラの肖像画しか出てこない。中盤以降に満を持して姿を現わすジーン・ティアニーは死んだ筈のローラその人なのだ。『愛のメモリー』になると、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが確かに一人二役を演じているが「母と娘」を一人で演じているのであって、両者は赤の他人ではないけれど全くの別人だ。こうしたことから、観客はヒロインがどちらの女性を演じているのか間違えようがない。
 『果てなき路』のヒロインは、一人二役の境界線が実に曖昧だ。実際に起きた事件のヒロインたるヴェルマと、ヴェルマを演じる女優ローレルを同じ女優が演じているだけでなく二人の違いが観客にわからないので、今目の前で起きているシーンが撮影している映画の中の出来事なのか、過去に起こったであろう事実なのかもよくわからないのだ。それどころか、映画のモデルとなったヴェルマという女性がどこで死んだのかも明らかにされないし、そもそもヴェルマを演じた女優ローレルが何者だったのかも明かされない。ちなみにヴェルマという名前は、レイモンド・チャンドラーの小説『さらば愛しき女よ』のヒロインと同じ名前だ。チャンドラーのヴェルマは死んではいなかったが、となると、ヴェルマがヴェルマ自身を演じていた可能性も否定できない。映画の中の事実の部分で、ヴェルマはキューバで死んだと言っていたが・・・。『さらば愛しき女よ』は二度映画化されているが、自分はロバート・ミッチャムがフィリップ・マーロウを演じた75年の『さらな愛しき女よ』が好きだ。
 現実と虚構の境界線がなくなるという点ではデヴィット・リンチの『マルホロランド・ドライブ』(01)が印象的だったが(リンチは、1950年のハリウッド映画『サンセット大通り』のオマージュだと言っている)、モンテ・ヘルマンは、それをいいことに映像をエスカレートさせていったリンチとは異なり、あっさり淡泊に通過している。いかにも彼らしいのだが、ファム・ファタールが必ず持っている性的魅力をあえて描かなかったことから、本作を映画監督が主演女優に恋する軽い物語だと考える人も出るだろう。そして中途半端でわけのわからない駄作だと・・・。
 重要なのは本作のヒロインが物語とは全く離れた場所で、実はある女性とつながっていることである。その女性とは言うまでもない、26歳で他界してしまった『断絶』のヒロイン、ローリー・バードだ。その一点でのみ、『果てなき路』(正確に言えば「どこにも続いていない道」。ノースカロライナ州に実在する未完の道。トンネルと墓地が撮影に使われた。トンネルの先から墓地に至る26マイルの道が未完のまま40年以上放置され現在に至っている)は、『断絶』(原題は「二車線のアスファルト舗装道路」。題名だけでコケそうな予感。興行は惨敗した)と結ばれている。

 映画ポスターにもなっている主演女優のクローズアップ・・・この顔に魅せられて前売券を購入したと言ってもよい。どこかで見た顔だとずっと思っていたが、それが誰なのか映画を見るまではわからなかった。
 冒頭のパソコンに映し出された女性は、やはりどこかで見たことがある顔だった。それが確かになるまで何秒かかっただろう。やっぱりそうだ、彼女は『ロック・ユー』(00)や『ルールズ・オブ・アトラクション』(01)に出演していたシャニン・ソサモンだった。翌年にはバカコメディの『恋する40デイズ』(02)が公開され、次世代を担うスターとして順風満帆だった筈の彼女だが、その後は全くと言っていいほど出演作が公開されなかったこともあって、自分も完全に彼女のことを忘れてしまっていた(そう言えば、レイチェル・リー・クックやソーラ・バーチはどこ行っちゃったの?)。個人的には『ルールズ・オブ・アトラクション』の彼女が特に好きだった。
 本作の脚本家であるスティーヴン・ゲイドスは、彼女のことを女優とは気づかず、レストランで偶然見かけて声をかけたらしい。彼女が本国でも作品に恵まれていなかったことを物語るエピソードではあるが、ローリー・バードが似たような経緯で『断絶』のヒロインに抜擢されたことを考えると、歴史は繰り返すというか、これもまた映画ならではのエピソードなのだろう。それに答えて、本作のシャニン・ソサモンはさりげなく素晴らしかった。繊細さは『ルールズ・オブ・アトラクション』の頃と全く変わっていない。これを機に、良い作品に出会ってほしい。

 最後に、映画作りの映画と言えば、先の『サンセット大通り』もそうだが、フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』(73)はやはり素晴らしい。大好きなジャクリーン・ビセットが最も美しい映画でもある。近作だとロマン・コッポラの『CQ』(01)がお気に入りだ。妹のソフィアと比べればボンクラだけれど、『CQ』はボンクラにしか作れない素晴らしい作品で、自分はこの映画と監督役を演じたジェレミー・デイヴィスが好きでたまらない。そして去年公開された『SUPER 8』も、自分には映画作りの映画と言える。
 『果てなき路』は、キャノンにとっても良い宣伝になってくれたのではないだろうか? この映画を見れば、どうにも EOS-5D MARK2 が欲しくなってしまう。 オリンパスが起死回生を狙って?登場させた OM-D にも心惹かれるけれど・・・。

 『果てなき路』の公式HPは、 → ここをクリック