高野山で壇上伽藍、金剛峯寺の次は奥の院まで参道です。
一の橋の入口から、空海が今も瞑想を続ける御廟(ごびょう)まで続く参道は約1.9km。
参道の両脇には20万もの墓や供養塔が立ち並んでいます。
戦国大名の6割以上の墓がここにあるとのことです。
戦国時代に敵味方だった武将もここでは近くで仲良くしているのでしょうか。
観光ツアーでは一の橋からではなく、途中の中の橋から出発になります。
一の橋からの合流地点までは、企業などの供養塔が並んでいるところを歩きます。
この画像は帰り道からです。
いよいよ多くの供養塔が並ぶ参道に入ってきました。
古いお墓や供養塔がたくさんあります。
ブラタモリ情報では、お釈迦様が入滅されて56億7千万年後に弥勒菩薩が現れることを期待して、ベストポジションの場所取りをしているそうです。
ブラタモリに登場した一般庶民の五輪塔を見つけました。
庶民も空海のそばで過ごしたい願望の現れです。
御廟橋まで有名な武将やその奥さんなどの供養塔があり、ガイドさんから説明を受けながら歩きましたが、写真を撮りメモをしたものの、どの写真が誰のものかイマイチよくわからず、かろうじて分かったものだけを載せておきます。
もしかしたら間違っているかもしれません。
1688年(元禄元年)、芭蕉が45歳の時に詠んだ句「父母の しきりにこいし 雉の声」と刻まれています。
奥の院で3番目に大きな五輪塔は、加賀百万石前田家のもの。
浄土宗の開祖、法然上人円光大師供養塔。
安芸浅野家3代 浅野幸長 供養塔。
ひときわ目立つのが、霊廟の規模が大きい結城秀康の石廟です。
結城秀康は徳川家康の正室・築山殿の奥女中を務めていた女性との間に生まれた子でした。
五輪塔は下方より,地輪,水輪,火輪,風輪,空輪を積み上げ大日如来を意味していますが、普通梵字でかかれていますが、めずらしい漢字の五輪塔です。
下から2番目の丸い石に「水」という文字が見えます。
子どもの幸せを願ってか、ひときわ目立つ赤い着物を着たお地蔵さん。
御廟橋の下を流れるのは玉川で、流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で亡くなった人を供養しています。
いよいよここからは高野山の中でも最大の聖地、高野山を開いた弘法大師空海が入定した御廟があります。
神聖な場所とされ、脱帽、撮影禁止です。
2回目のお参りになりましたが、前回うる覚えだった記憶を今回は再確認して脳裏に焼き付けました。
御廟の前では住職さんの先導で般若心経をお唱えでしたが、うっかり経本を忘れ心の中でお唱えしました。
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