「けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。」(ヨブ記13:3新改訳)
神はなぜ、罪なき者に激しい苦難を下されるのか、この解を得るまで自分は絶対に退かない。たとえ神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神のみ前に主張する(15)。▼このヨブの言葉を、彼の心が持つ頑固とか傲慢のせいにすべきではない。その心にあるのは、真理に対する焼けるような渇望である。神の御心を知りたい。ヨブという人間に対して持っておられる神の御思いとは何なのか。その実相はどんな姿をしているのか。神に迫るとは、神の心に迫ること意味する。外面的な栄光とか、力に満ちた御稜威(みいつ)とか、それはあくまでも外側でしかない。▼いったい神たるお方の心の中心は何なのか。私を創造されたお方が、私に抱いておられる御心の真っただ中には何があるのか。それを知らされないで、私に生きている意味があるのか。ヨブが抱く神への思いは崇高でさえある。人が神の像に造られたとは、御心に対する無限の渇きを抱いている、ということかもしれない。▼ヨブの渇きに答えるように、父なる神のふところ、み心の奥深くに住まいしておられた方が人となって地上に来られた。主イエスこそ、万人の目に見えるように天の父の心そのものをかたちとして現わされたお方である。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14同)▼ヨブが灼熱の砂漠のように慕いあえいで求めた神のお心、それがかたちを取り、完全な啓示として現れた。筆舌に尽くしがたいヨハネのおどろきと感動、私たちはそれに揺さぶられてキリスト者になったであろうか。そこにもしヨブが居たら驚愕のあまり倒れ伏し、全身が賛美と感謝の固まりとなったにちがいない。私たちの主日礼拝は、毎週この霊潮の再現のはずである。少なくとも、昔のメソジスト初期はこの霊潮が洪水であった。18世紀のチャールズ・ウェスレーが歌っている。「ああことばのかぎり歌わまほし、主イエスの栄えと愛とめぐみ、御名のかしこさを伝えまほし、四方の民草に四方の島に、憂いも恐れも消え去るなり、いのちを与うる潔き御名に」(インマヌエル讃美歌30)▼ヨブからも、ヨハネやウェスレーからも遠く離れてしまった現代の私たちキリスト者、御霊の代わりに電子音響で賛美を高揚する生き方、それらに決別する渇きを持てないまま、時は過ぎ去っていく。