「王にお知らせいたします。私たちはユダ州に行き、あの大いなる神の宮に行ってみましたが、それは大きな石で建てられていて、壁には木材が組まれていました。その工事は彼らの手で着々と進められ、順調に行われています。」(エズラ記5:8新改訳)
キュロス王の解放令により帰還したユダヤ人たちは、まもなく神殿を建て始めたが、礎石を据えたところで現地人たちの反対と讒訴(ざんそ)に会い、工事中止のやむなきに至った。▼たぶんそれから二〇年近く経った頃、ハガイとゼカリヤが立ち上がり、神殿工事を再開するように神の名をもって預言した。そのときの緊迫した様子や神による激励のことばは、特にハガイ書に生々しく出て来る。周囲の敵による悪意に満ちた反対は人々を萎縮(いしゅく)させ、消極的な態度を産み出していたが、それを打ち破ったのが神からのことばであった。特にユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアは主によって奮い立ち、工事に取りかかった。するとさっそく地方総督たちがやってきてあわよくば止めさせようとした。その訴状が冒頭の報告文である。戦いも再開されたのだ。◆ハガイ書にはわずか2章に、「万軍の主はこう言われる」とか「万軍の主のことば」という語がたくさん出て来る(1:2、5、7、9、14、2:4、6、7、8、9〔2回〕、23〔2回〕)。これは不信仰で弱きになっていたユダヤ人たちへの叱責であり激励であることはいうまでもない。しかし無理もない、とは思う。帰還民は少数派であり、現地人が結束して攻撃してくればひとたまりもなかったであろう。だからおとなしくしていたほうが安全だ、と考えたことは十分想像できる。そして自分たちなりの理屈を考えた。「今、主の宮を建てるのはまずいし、神の時がまだ来ていないのだ」と。◆私たち現代の信仰者もよく似ている。あれこれと理屈を考え、周囲の状況に合わせて、おだやかにことを済ませようとし、主のみこころはどこにあるかと真剣に問うことをしないのである。このようなとき、事態を打ち破るのは「神のことばを聞き、それをそのまま伝える」本当の預言者である。まさにハガイとゼカリヤがそうであった。◆使徒パウロたちの乗った船が嵐に翻弄され、もはやこれまでという状況になったとき、船長や船員たち、ローマの兵士たち、その他270人以上の人々はどうすることもできなくなった。だが、たったひとり、神のことばを聞く預言者が乗っていた。パウロである。そして盤石のような平安と信仰を持つ彼のことばに励まされ、全員が助かったのであった。いざというとき、この世の専門家や識者、勇気と戦いの人々、各種の専門家も役に立たない。ほんとうの危機を前にしたとき、それらは無用の長物となる。ただ、神のお声を聞くことができる器(にせの預言者でなく)が危機を救うのである。どんな時代になろうと、この原則は変わらぬことを知らなければならない。