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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <神殿工事再開>

2021-01-18 | エズラ記

「王にお知らせいたします。私たちはユダ州に行き、あの大いなる神の宮に行ってみましたが、それは大きな石で建てられていて、壁には木材が組まれていました。その工事は彼らの手で着々と進められ、順調に行われています。」(エズラ記5:8新改訳)

キュロス王の解放令により帰還したユダヤ人たちは、まもなく神殿を建て始めたが、礎石を据えたところで現地人たちの反対と讒訴(ざんそ)に会い、工事中止のやむなきに至った。▼たぶんそれから二〇年近く経った頃、ハガイとゼカリヤが立ち上がり、神殿工事を再開するように神の名をもって預言した。そのときの緊迫した様子や神による激励のことばは、特にハガイ書に生々しく出て来る。周囲の敵による悪意に満ちた反対は人々を萎縮(いしゅく)させ、消極的な態度を産み出していたが、それを打ち破ったのが神からのことばであった。特にユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアは主によって奮い立ち、工事に取りかかった。するとさっそく地方総督たちがやってきてあわよくば止めさせようとした。その訴状が冒頭の報告文である。戦いも再開されたのだ。◆ハガイ書にはわずか2章に、「万軍の主はこう言われる」とか「万軍の主のことば」という語がたくさん出て来る(1:2、5、7、9、14、2:4、6、7、8、9〔2回〕、23〔2回〕)。これは不信仰で弱きになっていたユダヤ人たちへの叱責であり激励であることはいうまでもない。しかし無理もない、とは思う。帰還民は少数派であり、現地人が結束して攻撃してくればひとたまりもなかったであろう。だからおとなしくしていたほうが安全だ、と考えたことは十分想像できる。そして自分たちなりの理屈を考えた。「今、主の宮を建てるのはまずいし、神の時がまだ来ていないのだ」と。◆私たち現代の信仰者もよく似ている。あれこれと理屈を考え、周囲の状況に合わせて、おだやかにことを済ませようとし、主のみこころはどこにあるかと真剣に問うことをしないのである。このようなとき、事態を打ち破るのは「神のことばを聞き、それをそのまま伝える」本当の預言者である。まさにハガイとゼカリヤがそうであった。◆使徒パウロたちの乗った船が嵐に翻弄され、もはやこれまでという状況になったとき、船長や船員たち、ローマの兵士たち、その他270人以上の人々はどうすることもできなくなった。だが、たったひとり、神のことばを聞く預言者が乗っていた。パウロである。そして盤石のような平安と信仰を持つ彼のことばに励まされ、全員が助かったのであった。いざというとき、この世の専門家や識者、勇気と戦いの人々、各種の専門家も役に立たない。ほんとうの危機を前にしたとき、それらは無用の長物となる。ただ、神のお声を聞くことができる器(にせの預言者でなく)が危機を救うのである。どんな時代になろうと、この原則は変わらぬことを知らなければならない。

 


朝の露 <妨害活動>

2021-01-14 | エズラ記

「こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシア王ダレイオスの治世の第二年まで中止されたままになった。」(エズラ記4:24新改訳) 

工事が始まると、周囲の諸国民たちは早速参加協力を申し込んできたが、断られると敵意をあらわにし、中央つまりペルシア王アルタクセルクセスに書簡を送り、力を持って止めさせるべく讒訴(ざんそ)した。こうして工事は中止させられたのである。▼この事件は、現在の教会が直面している霊的、信仰的戦いのひな型と見ることができる。ここでいう教会とは地上にある特定の教会でなく、過去・現在・未来の信仰者たちからなる目に見えない公同の教会、やがて神とキリストの前に立つ真のキリスト者たちの集まり、こひつじのはなよめとよばれる存在のことである。▼この世の暗黒を支配する悪魔は、教会が完成に至るのを何よりも憎み反対し、全力をあげて阻止すべく働く。なぜなら教会の完成は新しい御国の出現と悪魔滅亡を意味するからだ。逆に教会が未完成のままでどこまでもいくなら、彼の滅びは伸ばされ、滅びに落ちる者たちが際限なく生じ、神の御名が辱められることになるであろう。すなわち、かつてのユダヤ民族の戦いにもまさり、教会の霊的戦いは熾烈(しれつ)なのである。だが、御霊の力強い働きにより二千年間私たちは守られ、反対に、この世に対して宣教を挑んでいるとは感謝だ。主の憐れみを受けながら、信仰の良き戦いを続けて行きたい。▼「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:10~18同)

 


朝の露 <感激の定礎式>

2021-01-13 | エズラ記

「彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、そのほかの同僚の祭司とレビ人たち、および捕囚から帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて、工事を始めた。」(エズラ記3:8新改訳)

ユダの帰還民たちが神殿を建てようと工事を始めたとき、周囲には多くの異邦人たちが住んでいた。彼らはバビロンやアッシリア帝国の支配者たちによって移された人々である。いうまでもなく、その敵意に囲まれながらイスラエルの神殿を再建することは、大きな信仰と勇気を必要とし、指導者ゼルバベルと大祭司ヨシュアの苦労は並大抵ではなかった。▼最初の帰還から二年目の二月、工事は始められ、まず礎石が据えられた。そのとき人々は喜び、七十年前にソロモン神殿を見たことのある老人たちは、感激のあまりであろうか、大声で泣いた。その感激が伝わってくるようだ。70年間、焼け焦げた石や荒れた土塊のままだったエルサレム神殿の跡地、雨に打たれ、炎熱に焼け、現地人たちが相手にしなかった荒廃の丘、しかしその丘は世界に散らされたユダヤ人たちに祈られ続けていた場所であった。そして神の約束のみことばがその地をおおっていたのだ。▼そこに神の時が満ち、人々が帰って来たのである。そして神殿再建工事が始まったのであった。ふしぎなことにそれから2500年、21世紀の今も、世界中の心あるキリスト者たちはエルサレムのために祈り続けている。なぜか?イエス・キリストが王の王、主の主として天からそこに帰って来られるからである。「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」(ゼカリヤ14:4同)。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11同)▼ユダヤ人たちは、廃墟の石を掘り起こし、再建神殿の礎石とした。しかしイエス・キリストは再臨し、ご自身が新しい神の国の礎石となられるであろう。千年王国の開始である。私たちはその日を待ち焦がれて「主よ、速やかにおいでください」と祈っている。アナテマ、マラナタ。

 


朝の露 <バルジライ族>

2021-01-12 | エズラ記

「祭司の子孫の中では、ホバヤ族、ハ・コツ族、バルジライ族。このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘の一人を妻にしたので、その名で呼ばれていた。」(エズラ記2:61新改訳)

ここに出て来るギルアデ人バルジライは、ヨルダン川東に住んだマナセ族の有力者である。 彼はダビデが息子アブシャロムの反逆によってヨルダン川を渡って避難したとき、これを助け守り、エルサレムに帰るまで養った。ダビデは感謝し、その息子キムハムを連れて都に帰り、側近の一人に登用したと思われる。ベツレヘムのそばにキムハムの住居(エレミヤ41:17)という場所があるので、そこから広がった人々がバルジライ族とよばれたのかもしれない。▼ともあれ、彼らが五百年後も存続し、先祖バルジライの名を名乗ってエズラ記に現れていることに、主の導きの確かさを思う。「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。」(エズラ記1:5同)◆私たちキリスト者はユダヤ人のような「系図書き」を持っているわけではない。だが、目に見えない系図をたしかに持っている。私自身についていえば、T師に洗礼を受け、T師はS師から洗礼を受け、そのS師は・・・というように二千年前の教会にたしかにつながっているのである。もちろんその実体は神だけがご存じだが・・・。やがて天に行った時、それらの「先祖たち」ひとりひとりに会えるであろう。そんなことを想像すると嬉しくなる。なにしろこれは世の人々が自慢する掛け軸にしるされた〇〇家系図といったようなものではなく、神の御心に刻みつけられた永遠の系図なのだから。◆そして、それよりもすばらしい事実は、今私の内に御聖霊(御霊)が住み給うという現実である。このお方こそ、人の子イエスとともにおられた第三位の神、キリストを死者のなかからよみがえらせ、天の御位に座せしめたもうたお方、さらにペンテコステのとき地に降り、キリスト教会を産み出し、全世界に福音を広げ、教会を造り、そこに御臨在しておられる方なのである。私のような小さな、小さな者でさえもこの御霊によって十字架につながり、天に大祭司として着座しておられるキリストにつながり、永遠の父なる神に(おそれ多くも)つながらせられているのだ。これこそが永遠の愛による系図にほかならない。そこで誇る者はキリストを誇り、そのいのちと愛の系図を頂いていることを誇りとすべきである。

 


朝の露 <エルサレム帰還>

2021-01-11 | エズラ記

「ペルシアの王キュロスは財務長官ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を確かめさせ、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。」(エズラ記1:8新改訳)

ユダヤ民族がバビロンに移されて七十年、ペルシア王キュロスによって解放令が出された。 もともとユダヤ人たちは捕虜で奴隷の身分であったから、帰国などはあり得なかった。その悲しみが詩篇一三六篇に歌われている。しかしそれがとつぜん帰国を許されたのだ。まさに降ってわいたような知らせで、これも詩篇にある。「私たちは夢を見ている者のようであった。」(詩篇126:1同)▼だがほんとうの解放は、イエス・キリストによる罪からの解放である。これほど喜びあふれる解放はこの世に存在しない。世界のいかなる国、偉大な人物も、私たちを罪とその力から救い出し、御国に入れることはできないからだ。この事実を思えば、贖い主イエス(もともと贖いという語は奴隷を買い戻すとの意味)のすばらしさが心に迫って来る。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(ヨハネ8:36同)▼ところで、捕囚の期間は70年で終るであろうとは、バビロンにいたユダヤ人たちが予想していたことであった。それは70年前、エレミヤが預言し、記録に残していたからだ。「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる』」(エレミヤ29:10同)。このエレミヤ書を70年後に読んだダニエルは、今がそれであると悟り、神に心からの願いをささげたのであった。「すなわち、その治世の第一年(これはペルシャのダレイオス治世のこと)に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」(ダニエル9:2同)▼聖書の預言は、一度語られると、必ず成就するおどろくべきものである。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと問題ではなく、神のみこころどおりに動き、預言を成就するように神にうながされるのである。そのことは、これからの世界でもそうである。すべての歴史が神の御計画どおりに運ばれ、ついにキリストの御再臨となるであろう。