なかよし緑地?のどかでいい名前だねえ。
でも、ひょっとしてこういう名前をつけなきゃいけないほど、世の中は殺伐としているのかもしれないわよ。
まだ、まだ、いじめのニュースとか多いしな。
いじめをテーマにすえたテレビドラマや映画も多いしね。
そんな中で、重松清の小説を映画化したのが「青い鳥」。
これも、中学校で起きたいじめのその後を描く映画。ある意味、手垢のついたような題材なんだけど、予想外に端正な映画で感動しちゃった。
なんといっても、担任の教師が吃音だっていう着想に感心する。
何も、吃音なのに国語教師になることはないと思うんだけどね。
いやいや、俺は手が不自由なグラフィックデザイナーを知ってるぜ。
うん、そうね。何だって本人次第なんだから、まわりが可能性を閉ざすことはないのよね。
この教師、吃音だから、肝腎なことしか喋らない。余計なことはいっさい喋らない。その設定が素晴らしい。
うん、金八先生みたいにグダグダ、グダグダ、人生訓を垂れるようなことがなくて、いっそストイック。
演じるのが、阿部寛。
意外な配役。
テレビの「ドラゴン桜」の熱血教師から一転して寡黙な教師を演じているんだけど、これがまた結構はまってる。
いまにも饒舌になるんじゃないかと、ドキドキしながら観てたけどね。
いやいや、背が高いのに背中を丸め、颯爽としたところの微塵もない歩き方が、なんとも印象的だ。
大きな背中が、彼自身にもいろいろな人生があったんだろうなあと感じさせる。
でも、彼自身のバックストーリーは一言も語られず、教室を中心としたいじめ事件の後遺症だけに話はしぼられる。
先生が生徒の家まで追いかけていったり、先生と生徒が川原で語り合ったりする、ありがちな場面も皆無。
ああ、担任の阿部寛と生徒の本郷奏多が心情を吐露するクライマックスシーンも、教室の窓側と廊下側に離れた位置を保ったまま、決してそれ以上近づこうとしない。
その距離感!
先生と生徒だろうと、別々の人格なんだ、一個の人間同士なんだ、踏み込んじゃいけない領域があるんだ、という意思が見えて、鳥肌が立った。
「教師は見守ることしかできない」とか言いながら見守る以上のおせっかいを焼く学園ドラマがよくあるんだけど、この教師は、たしかに見守るということを実践している。
だから、教師と生徒たちの物語っていうと、どうしても人情べたべたの話になっちゃうんだけど、この映画にはそういうところがまったくない。
先生と生徒が心を通わせてめでたし、めでたし、って話じゃないんだ。
生徒は自分で自立し、先生はそれを見守るだけ。できるのは、背中を押すくらいだっていう、凛とした自覚がある。
最後の授業で先生が指示したことも、生徒全員がそれに従うわけじゃない。従う子もいれば、従わない子もいる。
生徒がひとりひとり自分で考えれば、結果はそうなってあたりまえだ。全員が従うなんて現実にはあり得ない。
先生が学校を辞めて去るシーンも、ふつうならクラスの子どもたちが泣きながら追ってくるなんていうクサい演出になりそうなのに、そういう展開にはならない。
そもそも別れのシーンがない。
阿部寛は、動き出したバスの中でひとり静かに石川啄木の詩集を読むだけ。なんてクール!
大林宣彦なら、そこで石川啄木のイメージをぐっと膨らませて、原作:重松清+石川啄木みたいな映画をつくるところだろうけどな。
原作:重松清+宮沢賢治になっていた「その日のまえに」みたいにね。
新人の中西健二監督はそこまでハッタリを効かせる気はなく、全編、実にオーソドックスに撮っている。
作家の個性が出た映画が大好きなあなたにはちょっと物足りないんじゃないの?
そのはずなのに、今回ばかりは、どういうわけか、この地味な映画が俺のツボにはまってしまった。
やっぱり原作がいいんじゃない?
もちろんそれもあるが、その原作のエキスを生かしたのは、映画の演出だからな。声高に叫ぶのはやめることに徹した製作者たちの姿勢にグラッときたのかもしれない。
あるいは、他人ごととは思えない何かがあったとか?
そういうことがあっても、阿部寛と一緒で、自分の過去は語らないのが俺の信条さ。
本当は、語るべき過去もないくせに。
グサッ。
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