【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「12人の怒れる男」:押上バス停付近の会話

2008-09-03 | ★門33系統(豊海水産埠頭~亀戸駅)

ダンス教室かあ。チェチェンのダンスを教えてくれるダンス教室を探しているんだけどなあ。
チェチェン?
ああ、チェチェン。かつてはソビエト連邦の一部だったけど、いまはロシアと紛争が続いている国。
たしかに、ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールドとか見ると、世界にはいろんな民族があってそれぞれに独自のダンスがあるんだなあ、って驚くけど、チェチェンのダンスなんてあったかしら?
いや、俺はディズニーランドの話をしているんじゃなくて、二キータ・ミハルコフ監督のロシア映画「12人の怒れる男」を観たからそう思ったんだ。
12人の陪審員が裁くチェチェン出身の青年が見せる、あの華麗なダンスね。
民族の歴史や文化を感じさせる、どこまでも哀愁を帯びたエキゾチックなダンス。
祖国への思いと現状への憤りを無言のうちに感じさせる、圧倒的に素晴らしいダンスだったわ。でも、そういう背景のないあなたが踊っても、ただのタコ踊りになっちゃうと思うけど。
こら、茶化すな。こんな真摯で格調の高い映画、ざらにはないんだから。
12人の陪審員が真実を求めて討論していくシドニー・ルメット監督のアメリカ映画「12人の怒れる男」のリメイクだって言うから、真実を求める男たちの理性的な映画かと思ったら、むしろ、ロシアの現実を憂える人間的な映画になっていたのに意表をつかれたわ。
事件とは直接関係がないんだけど、被告の青年がロシアとチェチェンの紛争をどう生き延びてきたのかが基調をなしているから、真実を求めるだけでは終わらず、オリジナルより器の大きい映画になった。
「彼にとって、有罪で牢獄に残ることが幸福なのか、無罪になって町に出て酷い人生を歩むのが幸福なのか」なんて、陪審員がそんなところまで考えなきゃいけないのか、と思ったけど。
世界は、そういう判断まで我々に求めているっていうことなんだよ。
シドニー・ルメット版「12人の怒れる男」も相当力のこもった名作だったけど、こんどの映画はまた違ったアプローチで心臓にグイグイ迫る映画だったのは事実ね。
ある意味、リメイクのお手本のような秀作だった。オリジナルの核となる設定とテーマはきちんと生かしながら、アメリカとロシアという土壌の違いをくっきりとしみ込ませ、そこにいまという時代に対するメッセージを血肉にした新たな展開を注ぎ込む。結果、みごとに21世紀の映画となって甦った。
昔は、真実を明らかにすることで正義が保たれたのに、いまや、それだけでは正義は保たれないんじゃないかという、大いなる苦悩。
陪審員が中年の男ばかりで、いまどき女性も若者もいないのは不自然な気もするが、この男たちの演技がまた堂々として風格を感じさせる。
こんな名優たちがかの地ロシアにいたんだ、という驚き。名作文学の香りさえ漂う。
アメリカ映画が重厚なロシア文学に変わった。
重厚、重厚、また重厚。
そういう息苦しいほどの緊張感の中、チェチェンの風景や青年の母親を回想する、いかにもロシア映画らしいみずみずしい映像がはさみこまれる。一瞬、いまは亡き、アンドレイ・タルコフスキーの映画かと思ったぜ。
渋い色合いの幻想的な映像ね。そこに独特の宗教的な音楽が重なると、もう、やられたあ、って感じ。
さすが、二キータ・ミハルコフだから、数多い登場人物たちもしっかり個性を整理して見せて、文句のつけようがない。
一羽のすずめさえ、いとおしい。
運動嫌いの俺にチェチェンのダンスを習いたいと思わせるくらいだから、相当なレベルの映画だ。
だからあなたの場合は、タコ踊りにしかならないって。
というより、ロシアだけにクマ踊りだろ?
あるいは酔っぱらったチェブラーシカ!
って、こういう話になると、なーんか会話のレベルが一気に下がるんだよなあ。



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