ラター→バッハ→フィンジ→ハイドン→バターワースと、イギリス音楽、しかも比較的マイナーな作曲家の小品3曲でドイツ音楽の神髄、バッハとハイドンをはさむという、だれも考えなかったようなプログラム。いったいどんな演奏会になるのか。
1曲目はジョン・ラター(1945‐)の「弦楽のための組曲」。わたしはこの作曲家の名前を知らなかったが、合唱作品で有名な人らしい。本作は4曲の小品からなる。どれも楽しい曲。どこかで聴いたことがあるような曲も出てくる。当日は中国(?)の小学生くらいの子どもたちが大勢来ていたが、2階席のわたしの後方の子どもたちが、曲が進むにつれて、どんどん惹き込まれていく気配が伝わってきた。
演奏も雰囲気十分。フワッと柔らかい音で、丁寧な仕上がりだった。粗いところは皆無だった。
2曲目はバッハのピアノ協奏曲第3番。原曲はヴァイオリン協奏曲第2番だが(バッハの名作の中でもとくに有名な曲の一つだ)、それをバッハがチェンバロ用に編曲したもの。それをピアノで弾くのが今回の試み。ピアノ独奏は小山実稚恵。チェンバロと同様に弦楽5部のオーケストラに浮き沈みしながら進む。だが、さすがにピアノだけあって、音のつながりが滑らかで、豊かな流れが生まれる。
演奏終了後、指揮者とピアニストが客席の拍手に応え、しかし舞台のそでには引っ込まず、すぐに3曲目のジェラルド・フィンジ(1901‐56)の「エクローグ」が始まった。楽器編成が同じなのでできたことだが、もう一つの理由は、バッハからフィンジへの流れの自然さを重視したからでもあるだろう。事実、冒頭のピアノ・ソロのパッセージはバッハのように聴こえた。
小山実稚恵の演奏には集中力があり、この知られざる曲の魅力を十分に伝えた。小山実稚恵は現代の日本でもっとも信頼に足るピアニストの一人だ。
休憩後の4曲目はハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。第1楽章から第3楽章までは柔らかい音で、ゆったりした演奏だったが、第4楽章ではギアを入れ替えて、エッジの立った音で音楽を追い込んだ。随所にもっとウィットがあったらよかったが。
5曲目はジョージ・バターワース(1885‐1916)の「2つのイギリス田園詩曲」。バターワースはヴォーン=ウィリアムズ(1872‐1958)と親交があったそうだが、本作はヴォーン=ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」に通じるところがあった。
(2019.7.12.サントリーホール)
1曲目はジョン・ラター(1945‐)の「弦楽のための組曲」。わたしはこの作曲家の名前を知らなかったが、合唱作品で有名な人らしい。本作は4曲の小品からなる。どれも楽しい曲。どこかで聴いたことがあるような曲も出てくる。当日は中国(?)の小学生くらいの子どもたちが大勢来ていたが、2階席のわたしの後方の子どもたちが、曲が進むにつれて、どんどん惹き込まれていく気配が伝わってきた。
演奏も雰囲気十分。フワッと柔らかい音で、丁寧な仕上がりだった。粗いところは皆無だった。
2曲目はバッハのピアノ協奏曲第3番。原曲はヴァイオリン協奏曲第2番だが(バッハの名作の中でもとくに有名な曲の一つだ)、それをバッハがチェンバロ用に編曲したもの。それをピアノで弾くのが今回の試み。ピアノ独奏は小山実稚恵。チェンバロと同様に弦楽5部のオーケストラに浮き沈みしながら進む。だが、さすがにピアノだけあって、音のつながりが滑らかで、豊かな流れが生まれる。
演奏終了後、指揮者とピアニストが客席の拍手に応え、しかし舞台のそでには引っ込まず、すぐに3曲目のジェラルド・フィンジ(1901‐56)の「エクローグ」が始まった。楽器編成が同じなのでできたことだが、もう一つの理由は、バッハからフィンジへの流れの自然さを重視したからでもあるだろう。事実、冒頭のピアノ・ソロのパッセージはバッハのように聴こえた。
小山実稚恵の演奏には集中力があり、この知られざる曲の魅力を十分に伝えた。小山実稚恵は現代の日本でもっとも信頼に足るピアニストの一人だ。
休憩後の4曲目はハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。第1楽章から第3楽章までは柔らかい音で、ゆったりした演奏だったが、第4楽章ではギアを入れ替えて、エッジの立った音で音楽を追い込んだ。随所にもっとウィットがあったらよかったが。
5曲目はジョージ・バターワース(1885‐1916)の「2つのイギリス田園詩曲」。バターワースはヴォーン=ウィリアムズ(1872‐1958)と親交があったそうだが、本作はヴォーン=ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」に通じるところがあった。
(2019.7.12.サントリーホール)