Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ゼッダ&東京フィル

2010年03月12日 | 音楽
 アルベルト・ゼッダ指揮の東京フィル。会場の東京オペラシティ・コンサートホールはほぼ満席だった。ゼッダ人気は本物だ。
 当日のプログラムは次のとおりだった。
(1)ロッシーニ:カンタータ「ディドーネの死」
(2)ロッシーニ:スターバト・マーテル

 「ディドーネの死」の作曲年代はよくわかっていないようだが、プログラムに載っているゼッダの文章によれば、「学生時代に作曲した作品」とのこと。カンタータと銘うっているが、実質はオペラ・セリアの一場面だ。これをまだ十代の学生時代にかいたというのだから、変な言い方だが、ロッシーニは最初からロッシーニだった‥。こういうタイプの天才は珍しいのではないか。あのモーツァルトだって、こうではなかった。

 ソプラノ独唱はイアーノ・タマー。強く大きな感情表現。急病のマリーナ・レベカの代役なので、おそらく来日直前に初めてみた譜面だろうが、このクラスになると難なくこなす。

 スターバト・マーテルは、ロッシーニがオペラ業界を引退した後に、おそらく懇願されて断りきれずにかいた曲。この曲をロッシーニにかかせた人に、私たちは感謝しなければならないと思う。眠っていたロッシーニの音楽的な技量は、少しも衰えていないばかりか、一種、純化されていた。それがこの曲と、もっと後年になるが、「小荘厳ミサ曲」のなかに滲み出ている。

 ゼッダの指揮はきちっとした様式感をもったもの――正しくいうなら、ロッシーニの様式感はゼッダなどが中心になって作ってきたもの――。微妙な伸縮のなかに、職人技のような構築感と自然な呼吸感がある。
 4人の独唱者たちは歌唱スタイルがばらばら。新国立劇場合唱団は相変わらず見事だった。第9曲(最後から2番目の曲)のア・カペラの合唱から終曲のオーケストラをともなったアーメン合唱にかけては、大きな音楽的感興があった。

 多分、20世紀後半からのロッシーニの再評価は、将来の人々にとっては、音楽史的な出来事とみえるのではないか。今その渦中にいる私たちは、幸運な時代に生きているわけだ。

 余談になるが、私は2007年にペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルに行くことができた。あのときにみた「泥棒かささぎ」と「オテッロ」の舞台、そして暑い日射し、光を反射したアドリア海の水の色、近傍の古都ウルビーノでみたピエロ・デッラ・フランチェスカの板絵2枚、これらは生涯忘れられない思い出になっている。
(2010.3.11.東京オペラシティ)

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