新国立劇場の「ヴォツェック」。2009年プレミエの舞台の再演だ。初演のときに感心したので、今回も期待して出かけた。期待どおりの結果だった。細かい部分も覚えていた。唯一、あっ、そうだったのかと思ったのは、第2幕第1場。ヴォツェックはマリーの耳飾りを見て、不倫――ヴォツェックはマリーと正式には結婚していないので、不倫という言葉は妥当ではないかもしれない。浮気というべきか――に気付く。でも、素知らぬふりをして、いつものようにマリーに稼ぎを渡す。そのとき、背中を向けて、マリーを見ずに渡す。ひじょうに納得のいく演出だった。
あとは初演のときの記憶が蘇ってきた。今回主要な歌手が一新したので、どうしてもその比較になるが、今回のほうがこの演出に相応しいのではないかと思った。
ヴォツェックはゲオルク・ニグル。狂気が進むにつれて、ますます冴えわたっていく点が異色だ。けっして混濁しない。自分の狂気に――きりで穴を穿つように――鋭敏に沈潜していく。そういうヴォツェックを、わたしたち観客は、なすすべもなく見ている。そういう自分の、なんというか、客観性が、妙に気になる。それが演出の意図なのだろう。
マリーはエレナ・ツィトコーワ。官能に溺れるマリーではなく、覚醒したマリーだ。ヴォツェックと拮抗するマリー。情事などにはなんの意味も見出していない。一言でいうと、クールなマリー。
マリーの子どもの取り扱いも同様だ。終始舞台に出ていて、ヴォツェックの、そしてマリーの一部始終を見ている。同情するでもなく、怯えるでもなく、クールに見ている。感情の動きは一切ない。そういう描き方だからこそ、幕切れの場面――竹馬にのって遊んでいる場面。ただし、この演出では竹馬は出てこない。もっと衝撃的な演出が用意されている――が活きてくるわけだ。
初演のときと比べると、オーケストラは――初演のときと同じオーケストラだが――かなり見劣りがした。もったりした演奏だ。やるべきことはやっているのだが――たとえばスケルツォ楽章に相当する第2幕第4場(酒場の場面)では、細かい動きも明瞭に聴こえた――、全体としては鈍重な演奏だった。
これは指揮者のせいだろう。初演のときのハルトムート・ヘンヒェンは、繊細で鋭角的な演奏だった。今回のギュンター・ノイホルトは音の粒立ちが鈍い。せっかくのベルクの音楽が、ベルクらしく聴こえなかった。
(2014.4.8.新国立劇場)
あとは初演のときの記憶が蘇ってきた。今回主要な歌手が一新したので、どうしてもその比較になるが、今回のほうがこの演出に相応しいのではないかと思った。
ヴォツェックはゲオルク・ニグル。狂気が進むにつれて、ますます冴えわたっていく点が異色だ。けっして混濁しない。自分の狂気に――きりで穴を穿つように――鋭敏に沈潜していく。そういうヴォツェックを、わたしたち観客は、なすすべもなく見ている。そういう自分の、なんというか、客観性が、妙に気になる。それが演出の意図なのだろう。
マリーはエレナ・ツィトコーワ。官能に溺れるマリーではなく、覚醒したマリーだ。ヴォツェックと拮抗するマリー。情事などにはなんの意味も見出していない。一言でいうと、クールなマリー。
マリーの子どもの取り扱いも同様だ。終始舞台に出ていて、ヴォツェックの、そしてマリーの一部始終を見ている。同情するでもなく、怯えるでもなく、クールに見ている。感情の動きは一切ない。そういう描き方だからこそ、幕切れの場面――竹馬にのって遊んでいる場面。ただし、この演出では竹馬は出てこない。もっと衝撃的な演出が用意されている――が活きてくるわけだ。
初演のときと比べると、オーケストラは――初演のときと同じオーケストラだが――かなり見劣りがした。もったりした演奏だ。やるべきことはやっているのだが――たとえばスケルツォ楽章に相当する第2幕第4場(酒場の場面)では、細かい動きも明瞭に聴こえた――、全体としては鈍重な演奏だった。
これは指揮者のせいだろう。初演のときのハルトムート・ヘンヒェンは、繊細で鋭角的な演奏だった。今回のギュンター・ノイホルトは音の粒立ちが鈍い。せっかくのベルクの音楽が、ベルクらしく聴こえなかった。
(2014.4.8.新国立劇場)