Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

東京二期会「ルル」

2021年09月01日 | 音楽
 東京二期会の「ルル」。カロリーネ・グルーバー演出の当プロダクションのポイントは、中村蓉のダンスだろう。ダンスの起用は最近のオペラ上演の流行だが、多くの場合はダンスが前面に出すぎて、煩わしく感じることもあるのだが、当プロダクションの場合は、第1幕と第2幕ではひじょうに控えめだった。第2幕の後に「ルル組曲」から「間奏曲」と「アダージョ・ソステヌート」が演奏されたが、そこで初めてダンスが前面に出た。そしてダンスの終了とともに上演は終わった。

 ダンサーはルルと同じ衣装をつけている。ルルの分身だ。ルルが男たちの欲望を浴びながら、明るく陽気にふるまうとき、ダンサーは舞台の隅にうずくまり、じっと耐えている。その姿はルルの内面的な怯えと傷を表すようだ。見方によっては、孤児だったころの幼いルルがいまのルルを見ているようでもある。どちらにしても同じだろう。

 第2幕が終わり、切れ目なく「ルル組曲」に移行するとき、ダンサーは舞台の前面に出て、ルルに語りかけるように踊る。ルルと一体化する。やがてダンサーは舞台を去る。そのとき「アダージョ・ソステヌート」の「ルル!私の天使!」の歌声がPAから流れる。本来なら第3幕(未完)で瀕死のゲシュヴィッツ伯爵令嬢がルルの遺体に歌いかける歌だが、ルルの分身がルルに歌いかける。ルルの引き裂かれた内面が克服されたのだろう。

 「ルル!私の天使!」のようなコンテクストの転換は、ほかの場面にもあった。第1幕第1場で画家がルルの衣装の裾を持ち上げる場面では、ルルの衣装を着た(女装をした)画家が自分の裾を持ち上げる。また第2幕第1場で瀕死のシェーン博士がゲシュヴィッツ伯爵令嬢を見て「悪魔が!」という場面は、ルルにむかってその言葉をいう。どちらも演出コンセプトの帰結としての転換だろう。

 2幕版での上演なので、結末は開かれている。どう想像しようと観客の自由だ。わたしは思った。ルルは未完の第3幕では街娼に身を落とし、切り裂きジャックに殺されるかもしれないが、ともかく自分を肯定し、自分の意思で生きることを覚えたのだ、と。

 マキシム・パスカル指揮の東京フィルは、全編にわたって、しなやかでニュアンス豊かな演奏を繰り広げた。わたしは国内・国外で何度かこのオペラを観ているが、細かいニュアンスの点では屈指の演奏だった。

 ルルを歌った森谷真理は、7月に新国立劇場で「カルメン」のフラスキータを聴いたばかりだが、そのときには想像もできなかったすばらしさだ。高音が頻出する難役をよく歌った。またシェーン博士を歌った加耒徹(かく・とおる)は、代役とは思えない出来だった。
(2021.8.31.新宿文化センター)

コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

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Unknown (猫またぎなリスナー)
2021-09-02 07:36:49
画家がルルの衣装を身につける場面、精神分析で言うところの転移なのか、と思いながらモヤモヤとした気持ちでおりました。大兄の文章を読んで、なるほどと思いましたが、スッキリ腹に落ちたとまではいきません。演出家のメッセージは饒舌で一度観たくらいでは受け止めきれないような気がしていますが、過剰な解釈を嫌っていたはずの私も大変面白く観たのは事実です。
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猫またぎなリスナー様 (Eno)
2021-09-02 09:08:52
私も御ブログを読ませていただきました。ご指摘の通り、2幕版でやる場合は、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の登場場面が少ないので、描き方がどうしても浅くなりますね。どうしたらいいのか。細かい演技で補うのか、それとも放っておくのか。一方、2幕版でやる場合は、結末が開かれているので、今後どうなるのか、観客の想像に任せることができる利点も感じました。
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Unknown (猫またぎなリスナー)
2021-09-02 17:56:26
「やくぺん先生うわの空」に、今回のルル演出に関して驚愕の事実が書かれておりました(私のブログにも追記しました)。今更どうしようもありませんが、もう一度観てみたい、もっと演出家のメッセージを感受したい、という思いに駆られています。
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