新国立劇場の地域招聘オペラ公演、びわ湖ホール制作の「ミカド」を観た。出演歌手たちの大部分はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー。専属歌手だけでオペラを作る意気込みがいい。皆さんしっかり歌っていた。演技もがんばった。指揮の園田隆一郎と演出・訳詩の中村敬一は、びわ湖ホールと縁が深いようだ。オーケストラは日本センチュリー交響楽団。
演目の選定で「ミカド」に目をつけたことは慧眼だと思う。底抜けに楽しい抱腹絶倒のオペレッタ。日本では上演機会が少ない。わたしは2007年3月に「東京シアター」という団体が東京芸術劇場中劇場で上演したのを観たのが初めて。そのときは面白さに仰天した。今は「東京シアター」の名前を聞かないが、その後どうなったか。
今思えば、そのときの公演は、ほのぼのとした、素朴なものだった。ヤムヤムを歌った羽山弘子の可愛らしさが記憶に残っている。それに比べると今回の公演は、演出・訳詩の中村敬一の視点が明確に打ち出されていた。
中村敬一は「演出ノート」に次のように書いている。「今回『ミカド』を「外国人の見た日本~ジャポニズム」として、笑いと軽やかな展開で再現しようと思います。舞台(増田寿子)は、日本を訪れた外国人のためのツアーガイドのサイトのように次々と変わる日本の見所、観光地を背景にドラマを進め、(以下略)」。
たしかに舞台はインターネットのサイトのようになっていた。そこに金閣寺や清水寺、あるいは浅草の雷門などの観光写真が次々に現れた。我々日本人にはちょっと居心地の悪い‘日本’のイメージ。
もちろんこれはギルバート(台本)&サリヴァン(作曲)の日本理解(当時のジャポニズム)を異化し、それを笑う試みだ。だがその笑いには、反発とか皮肉とか、そんなものは含まれず、もっと単純な笑い。それはそれでよいが、全体的にもっと弾けた切れ味があったらなおよかった。
「ミカド」の音楽は、マドリガルのパロディーやオペラの大仰なアリアのパロディーが出てくる点で、‘ひねり’の効いた面がある。また全曲中で一番甘く美しい歌が、正統派のカップルのナンキプーとヤムヤムにではなく、コミカルなカップルのココとカティーシャの、そのココに与えられている。胸が締め付けられるような愛の訴え。
なお園田隆一郎の指揮にはもっと積極性がほしかった。
(2017.8.27.新国立劇場中劇場)
演目の選定で「ミカド」に目をつけたことは慧眼だと思う。底抜けに楽しい抱腹絶倒のオペレッタ。日本では上演機会が少ない。わたしは2007年3月に「東京シアター」という団体が東京芸術劇場中劇場で上演したのを観たのが初めて。そのときは面白さに仰天した。今は「東京シアター」の名前を聞かないが、その後どうなったか。
今思えば、そのときの公演は、ほのぼのとした、素朴なものだった。ヤムヤムを歌った羽山弘子の可愛らしさが記憶に残っている。それに比べると今回の公演は、演出・訳詩の中村敬一の視点が明確に打ち出されていた。
中村敬一は「演出ノート」に次のように書いている。「今回『ミカド』を「外国人の見た日本~ジャポニズム」として、笑いと軽やかな展開で再現しようと思います。舞台(増田寿子)は、日本を訪れた外国人のためのツアーガイドのサイトのように次々と変わる日本の見所、観光地を背景にドラマを進め、(以下略)」。
たしかに舞台はインターネットのサイトのようになっていた。そこに金閣寺や清水寺、あるいは浅草の雷門などの観光写真が次々に現れた。我々日本人にはちょっと居心地の悪い‘日本’のイメージ。
もちろんこれはギルバート(台本)&サリヴァン(作曲)の日本理解(当時のジャポニズム)を異化し、それを笑う試みだ。だがその笑いには、反発とか皮肉とか、そんなものは含まれず、もっと単純な笑い。それはそれでよいが、全体的にもっと弾けた切れ味があったらなおよかった。
「ミカド」の音楽は、マドリガルのパロディーやオペラの大仰なアリアのパロディーが出てくる点で、‘ひねり’の効いた面がある。また全曲中で一番甘く美しい歌が、正統派のカップルのナンキプーとヤムヤムにではなく、コミカルなカップルのココとカティーシャの、そのココに与えられている。胸が締め付けられるような愛の訴え。
なお園田隆一郎の指揮にはもっと積極性がほしかった。
(2017.8.27.新国立劇場中劇場)