Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カーチュン・ウォン/読響

2021年04月07日 | 音楽
 カンブルランの代役に立ったカーチュン・ウォン。プログラムは一部変更になったが、変更後のプログラムがメッセージ性に富み、しかもそのメッセージ性は、実際に演奏会を聴くと、思いがけないほどの手ごたえをもって感じられた。

 1曲目と2曲目はカンブルランのプログラムを引き継いだが、曲順が変更になった。1曲目は細川俊夫の「瞑想―3月11日の津波の犠牲者に捧げるー」。カーチュン・ウォンの指揮する読響は、集中力があり、気合の入った演奏だった。カーチュン・ウォンは比較的小柄な人だと思うが、その音楽は巨大だ。腹の座ったフォルテが叩きこまれる。微小な音の動きは繊細だ。しかも(これがポイントだと思うが)全体に無理のない呼吸感がある。

 2曲目はデュティユーのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。デュティユーは好きな作曲家だが(そしてこの曲も好きなのだが)、当夜の演奏はなぜか印象が薄かった。諏訪内晶子の演奏は音がくっきり聴こえ、またオーケストラの演奏も部分的には美しいと思ったが、全体として訴求力が弱かった。

 3曲目のマーラーの交響詩「葬礼」と4曲目の同じくマーラーの交響曲第10番から「アダージョ」は、カンブルランのプログラムにはなかったものだ。カーチュン・ウォンはその2曲をつなげて演奏した。その効果は想像以上だった。つなぎが自然なだけではなく、2曲がつながることで、言外の意味のようなものを生んだ。

 「葬礼」が作曲されたのは、交響曲第1番「巨人」の初演の前年だった(江藤光紀氏のプログラムノーツによる)。「巨人」の成立史は紆余曲折をへているが、その最初の初演(という表現も変な気がするが)の前年なので、「葬礼」はマーラー最初期の作品ということになる。実際に聴くと、交響曲第2番「復活」の第1楽章の初稿のように感じる。

 その「葬礼」を交響曲第10番の「アダージョ」とつなげると、一人の作曲家のスタート地点と終着地点とを一挙に見る思いがする。モノクロームの色彩とストレートな表現から、カラフルで艶のある色彩と、自由自在で襞の多い表現への変貌。それを思ったのは、カーチュン・ウォン指揮する読響が、「アダージョ」でクリアーな音像を結んだからだろう。

 もうひとついうと、わたしは1曲目の「瞑想」を想起せざるを得なかった。津波で流された人々への想い(「瞑想」)、それらの人々の弔い(「葬礼」)、そしてそれらの人々の浄化(「アダージョ」)という物語がわたしのなかで鮮やかに浮かび上がった。その物語は東日本大震災の発生から10年のいま聴くにふさわしいものに思えた。
(2021.4.6.サントリーホール)

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