アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

875  あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑱

2021-08-30 09:31:37 | 日記

その3 宇多天皇への継承へ

 しかし、光孝天皇は在位3年で崩御する。つなぎの天皇だったので、即位後自らの親王たちをすべて臣籍降下させていたのは、あくまでも前天皇の文徳・清和天皇の系統が正統とみなされていたので、自ら権力に邪心がない事の証だった。すなわち、藤原基経は自分の娘佳珠子所生の清和天皇の第七皇子で、貞辰親王(さだときしんのう)に継がせるつもりだった。基経の野望と言うよりは、世間の見方も、光孝天皇の子に天皇を継がせる意見はなかった。しかし、予定より早く光孝が崩御したので、仕方なく臣籍(皇室の配下である公家)にいた源定省(みなもとさだみ)を急遽親王の身分に戻し、皇太子とした。異例中の異例で誕生した宇多天皇である。

第一回定例会資料 菅原道真「宮滝御幸記略」をめぐって

 ただ、新天皇に基経は強烈な「恫喝」で臨む。それは※阿衡の紛議という。しかし、基経は事件後、別の娘温子を宇多天皇の正妃として入内させ自ら和解している。「恫喝」と言ったのは、正に挨拶代わりの「先制攻撃」だったと言うことだ。しかし、正統と自認する陽成上皇の鬱憤はおさまらず、暴発的奇行はこの時期にも多く見られる。また、宇多天皇の行列を見た陽成上皇は、「当代は家人にあらずや。」と、怒りを表わした。事実、宇多天皇は、定省王時代陽成天皇の侍従として仕えていた。世間的にも、光孝・宇多天皇は決して正当な系統から出たのではないという考え方が主流であった。通常、天皇になる可能性のある皇子には早くからその日の為に、諸芸や帝王学を教え込んでおくのが当たり前なのだが、このお二人はその準備期間もないままに天皇になってしまったのだった。もしかしたら陽成上皇の再登場を画策する動きもあったのではないか。

 しかし、大きな存在感のあった基経が生きている間は、そのバランスが取れていたが、基経の死を境に徐々に、文徳・清和そして陽成の系統から、光孝・宇多の系統が当たり前になって行く。基経は宇多天皇の31歳も年上だったが、次世代の藤原時平は天皇より4歳若かった。一方、宇多は菅原道真を登用し天皇親政の姿勢を強めて行く。しかも摂関家の血を引いていない皇太子(醍醐天皇)を立てて、自らの皇統を正統とすべく先手を打っていた。

 因みに、その時平が醍醐天皇の時代になって、政敵道真を排除し権力を独占しても、清和・陽成の系統に戻すことは考えもせず、むしろ自らの娘穏子所生の朱雀・村上を支持し摂関家の全盛期を目指す。従って、今なお長生きしていた陽成上皇の復活はもはやありえない状況にまでなっていた。すでに退位後30年近くの時を経て、世間の皇統の正統が清和・陽成から宇多・醍醐の方が当たり前となるまで変化していた。

 

  • 阿衡の紛議

天皇に即位した宇多天皇が、基経を関白に任じる詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。基経は、阿衡は中国の殷代の官であるが、阿衡は位貴く地位は高いが職務を持たないとして大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。結局天皇は先の詔勅を取り消した。


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