後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔181〕発見から50年、待望の『五日市憲法』(新井勝紘、岩波新書)が出版されました。

2018年06月01日 | 図書案内
 五日市憲法については私個人や清瀬・憲法九条を守る会でも関心を抱き、学習会を開いたり、五日市憲法ゆかりの地を2回訪ねたりしてきました。タイミング良く、清瀬の市民団体が新井勝紘氏の講演会を開いてくださり、数人で参加したこともありました。その顛末をこれまでのブログ〔31〕〔53〕でも触れてきました。けっこう力を入れて書きましたので興味ある方は読んでみてください。
 そして先日、『五日市憲法』(新井勝紘、岩波新書)が出版されたというので、早速購入しました。嬉しいことに、この本大変評判が良く、初刷り12000冊が売り切れ、増刷が決まったという情報もあります。
 さて、五日市憲法が「発見」されたのが、1968年8月27日のこと。私は東京学芸大学1年、バドミントンの夏合宿で熱射病に倒れ自宅で療養している頃でした。最初に五日市憲法を手にした新井勝紘さんは東京経済大学の4年生でした。東京学芸大学(小金井市)と東京経済大学(国分寺市)はほぼ1キロの至近距離です。何か因縁めいたものを感じます。
 色川大吉ゼミの学生だった新井さんが初めて五日市憲法を手にしてから50年がたち『五日市憲法』が出版されました。 一読して、とても読みやすく、憲法改憲論議が喧しい昨今、多くの人に読んでもらいたい本だと思いました。とりわけ、〔第一章 「開かずの蔵」からの発見〕の臨場感と〔第四章 千葉卓三郎探索の旅へ〕の知的興奮が伝播してきました。
 本の内容は次のようになっています。

●「開かずの蔵」と呼ばれた旧家の土蔵.そこで偶然見つけた紙綴りが,ひとりの学生を歴史家に変えた.紙背から伝わる,自由民権の息吹と民主主義への熱き思い.起草者「千葉卓三郎」とは何者なのか? 民衆憲法を生み出した歴史の水脈をたどる.(岩波書店HPより)
はじめに

第一章 「開かずの蔵」からの発見
 第一節 明治百年と色川ゼミ
  一九六八年/バラ色論との対峙/開かずの蔵
 第二節 自由民権の村・五日市
  『利光鶴松翁手記』/勧能学校/深沢家の蔵書
 第三節 憲法草案との出会い
  いよいよ土蔵の中へ/知らずに草案を手に取る/「日本帝国憲法」って何だ?/急転直下のテーマ変更
 第四節 憲法草案を読み解く
  墨書史料の状態/どれとも一致しない!/幻の草案が発見される/なぜ同じ土蔵の中に?/嚶鳴社草案との比較検討

第二章 五日市憲法とは何か
 草案の概要
 第一篇 国 帝
  帝位相続/摂政官/国帝の権利
 第二篇 公 法
  国民の権利/地方自治/教育の自由
 第三篇 立法権
  民撰議院/元老議院/国会の職権/国会の開閉/国憲の改正
 第四篇 行政権
 第五篇 司法権

第三章 憲法の時代
 第一節 憲法への道
  憲法はどう受け止められたか/ヘボクレ書生の書上の理屈
 第二節 民権結社の取り組み
  結社の時代/国会期成同盟の呼びかけ/各地での起草の動き/容易ならざる起草作業
 第三節 五日市の民権運動
  五日市学芸講談会/五日市学術討論会/討論題集

第四章 千葉卓三郎探索の旅へ
 第一節 卓三郎追跡
  やり残した課題/雑文書に目を向けよ
 第二節 戸籍を求めて
  仙台へ/志波姫町へ/転籍先をたどる
 第三節 子孫との対面がかなう
  そして,神戸/敏雄さんからの手紙/病室での対面
 第四節 履歴書の真否
  卓三郎の足跡/砂上の楼閣/履歴書の足跡をたどる

第五章 自由権下不羈郡浩然ノ気村貴重番智――千葉卓三郎の生涯
 第一節 敗者の生きざま
  生い立ち/敗北経験/故郷を出る
 第二節 ペトル千葉として
  ニコライ堂での出会い/布教活動/明らかになる来歴/突然の変心/ラテン学校/初めて教壇に立つ/広通社
 第三節 五日市へ
  村は小なりといえども精神は大きく/民権教師として
 第四節 五日市憲法の「法の精神」
  逆境のなかでの起草作業/卓三郎死す/遺品の整理/浄書綴りのゆくえ/卓三郎の「法の精神」

終 章 五日市憲法のその後
 「五日市憲法」命名のいきさつ/名称への批判/歴史の伏流にたどり着く

むすびにかえて
参考文献
付録 五日市憲法草案


 この本をいち早く取り上げた新聞記事を紹介しましょう。 

■<訪問>「五日市憲法」を書いた 新井勝紘(あらい・かつひろ)さん〔北海道新聞2018/05/27〕
●新たな憲法草案 探索の記録
 「その出合いは、私の人生を決めてしまうほど大きなものでした」
 1968年8月、東京西部の五日市町(現あきる野市)。東京経済大学の学生だった著者は、ゼミの指導教授だった色川(いろかわ)大吉さんらと屋敷跡に残る土蔵の調査に入った。
 朽ちかけた「開かずの蔵」。著者が担当した一角から「日本帝国憲法」と表紙に書かれた24枚綴(つづ)りの文書が出てきた。「最初に目にした時は明治政府の大日本帝国憲法を写したもので、『大』という文字は虫に食われたんだろうと思ったんです」
 だが、推測は外れる。それならば1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が定められる前、民間の人たちが作った私案の憲法か。これも照合したがどれとも一致せず、新たな憲法草案の発見だと分かった。81年(同14年)に作られ、204の条文から成る。色川教授によって「五日市憲法」と命名された。
 「基本的人権の保障に多くの条文をさき、今の日本国憲法と比べても遜色のない民主的なものでした」
 本書は「五日市憲法」をめぐる著者の50年にわたる探索の記録だ。
 憲法草案を起草した千葉卓三郎(たくさぶろう)という人物は何者なのか。
 時間を費やしてようやくたどり着いた時、意外な素顔を知る。

 仙台藩士の子として生まれ、17歳で戊辰戦争に参戦し、敗北により「賊軍(ぞくぐん)」の汚名を負う。学問を修め、はい上がろうと懸命に生きた。29歳で五日市の勧能(かんのう)学校(五日市小学校の前身)の教師として着任し、自由民権運動が盛んだった地域で青年らと交わる。結核を患いながら憲法草案を書き上げ、31歳で他界した。
 卓三郎は医学、国学、キリスト教、漢学など幅広く学び、自身にとっての「法の精神」を身につけた。人生の集大成といえる五日市憲法は発見後、評価され歴史に刻まれた。
 著者は歴史研究の道を歩んだ。東京・町田市の自由民権資料館の開設に力を注ぎ、国立歴史民俗博物館助教授、専修大文学部教授を務めた。五日市憲法に導かれ半世紀、73歳になった。「それでもまだまだ調べ切れていないことがあって」と話す。
 今年は明治に改元されて150年の節目を迎える。改憲に向けた動きも急だ。五日市の歴史から学ぶべきものを、取材の最後に聞いた。
 「明治10年代、この地域では民主的な新しい社会を生み出そうとする機運があり、卓三郎を支えた。憲法とは生活に則したもので、国から与えられるものではないという強い思いがあった。そこに時代を超え、普遍的な意味を感じています」〔編集委員 伴野昭人〕


 昨日、パスポート更新ということで池袋に行った帰り、ブックオフで『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』を手に入れることができました。作者のお一人のサイン入りでした。2014年出版で、解説が新井さんでした。子ども向けの本ですが、大人の読書にも充分耐えうるものです。
 あきる野市立五日市小学校の校長室に掲示されている千葉卓三郎の肖像画が掲載されていて懐かしくなりました。教育実習指導で訪ねたことを思い出しました。

■『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』伊藤始・杉田秀子・望月武人、くもん出版 1,400円(税込1,512円)
[扉]
一九六八年八月二十七日。夏の日差しを浴びながら、曲がりくねった山道を進む、十数名の集団がありました。東京経済大学の色川大吉教授(当時)と、その教え子の大学生たちでした。やがて、一行の目の前に、古めかしい土蔵があらわれました。明治時代の初め、この地域の青年たちが、議論を重ねてつくりあげた憲法草案が、八十年余りもの長い眠りから、ついに目覚めるときが来たのです。「五日市憲法草案」をめぐる物語は、ここから始まります―。


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