後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔391〕「白い灰の記憶~大石又七が歩んだ道」で高橋しのぶさんと「再会」しました。

2021年08月14日 | テレビ・ラジオ・新聞
 オリンピックを強行しコロナ禍が深刻で危機的な状況を呈している日々、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
 私は、白梅学園大学での教育実習指導がなんとか1学期に終了して、2学期後半の新たな学年のスタートを待っているところです。残念ながらそこでは対面やリモートを織り交ぜての授業になるのでしょうか。
 外に出歩くのは買い物程度、地域の仲間との市民運動もリモートに逆戻りです。
 そんななか、録りためたビデオを見たり、ストックしていた本を読んだりの毎日です。

 今回紹介するのはテレビ番組「白い灰の記憶~大石又七が歩んだ道」です。
 大石さんは第五福竜丸の元乗組員で「ビキニ事件」で被爆した人です。他の乗組員が続々亡くなる中、「ビキニ事件」は何だったのか最期まで問い続け、様々な場所で語り続けた人でした。
 番組の概要は次の通りです。

■「白い灰の記憶~大石又七が歩んだ道」(NHK,HPより)

アメリカの水爆実験による「死の灰」で被ばくした第五福竜丸の元乗組員・大石又七さんが3月に亡くなった(享年87)。1954年に起きたこの「ビキニ事件」は、アメリカが日本に「見舞金」を支払うことで政治決着したが、乗組員の多くは事件後口を閉ざしたまま、若くしてがんや肝機能障害などで次々に命を落とした。ただひとり事件について語り続けた大石さんが抱え続けた怒りとは何だったか。家族や関係者の証言を交えて描く。


 大石さんが「ビキニ事件」について重い口を開いた切っ掛けは、ある学校の働きかけでした。子どもたちに「ビキニ事件」を語って欲しいというお願いがあったのです。番組では学校名は出されていなかったのですが、私は和光中学校ではないかと直感したのです。そして大石さんが語った本人が出演したのです。まさかの高橋しのぶさんの登場でした。大石さんはしのぶさんが全盲のため第五竜丸の模型をつくったということです。これ以降、何体もの模型をつくることになるのです。
  しのぶさんは全盲で、普通学級の和光小に入学したのです。担任は平林浩さん、次のような教育実践記録が出版され、懐かしく本棚から取り出しました。

■『しのぶちゃん日記-目が見えなくても、みんなといっしょ』平林浩、太郎次郎社、1981
■(ブックライブより)
障害をのりこえて学んでいくしのぶちゃんを囲んで、クラスの子どもたちもまた、ゆたかに育つ。彼ら三八名の二年間にわたる、授業を中心とした記録。朝日「天声人語」……教育の現場で日々、こういう心のこもった、ていねいな実践が続けられていることに敬意を表したい。
■平林浩(太郎次郎社エディタスHPより)
1934年、長野県・諏訪地方生まれ。子ども時代から野山を遊び場とする。1988年まで小学校教諭。退職後は「出前教師」として、地域の子ども・大人といっしょに科学を楽しむ教室を開いている。仮説実験授業研究会、障害者の教育権を実現する会会員。
著書に『仮説実験授業と障害児統合教育』(現代ジャーナリズム出版会)、『作って遊んで大発見! 不思議おもちゃ工作』『キミにも作れる! 伝承おも ちゃ&おしゃれ手工芸』『しのぶちゃん日記』(以上、太郎次郎社エディタス刊)など、津田道夫との共著に『イメージと科学教育』(績文堂出版)がある。


  1970年代前半のこと、新卒時に日本生活教育連盟に所属していた私は、板橋の火曜会という研究会で平林さんを講師にお招きしたことがありました。彼のことは「ひと塾」で知り合ったのでした。それからしばらくした1977年、彼はしのぶちゃんを2年間担任し実践記録を書いたのでした。
 しのぶさんは現在特別支援学校の英語教師として活躍していました。失礼ながら昔の教え子に再会したような気分でした。もちろん『しのぶちゃん日記』も再読し始めました。この本の凄さについてはいずれ本ブログで触れたいと思っています。

  大石さんの話に戻します。
 彼は残念ながら今年亡くなられました。でも「ビキニ事件」を語り継ぐ人がいるのです。第五福竜丸の展示館の学芸員の方です。小学校教師の時、数回、第五福竜丸の展示館を社会科見学で訪れたことがありましたが、今度は孫でも連れて行って彼女の話を聴いてみたいと思っています。行くとは言わないかな。

 蛇足ながら、NHKスペシャルではこんな放送もしていたのですね。

■NHKスペシャル 又七の海 ~死の灰をあびた男の38年~
放送日 : 1992年4月19日 (59分)

1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行った。その威力は広島の原爆の1000倍、実験場近くにいた第五福竜丸の乗組員23名が被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。一般市民を巻き込んだこの実験は、世界中に大きな衝撃を与えた。死の灰を浴びた乗組員たちは、被ばくの健康への不安を抱えながらその後の人生を生きてきた。事件から37年たって乗組員の一人・大石又七さんは、自らの体験を後世に残すため、手記にして出版した。番組の中で、又七さんは、自分たち乗組員の犠牲に対するアメリカ側の責任が明確にされないまま、福竜丸の事件が忘れ去られようとしていることに不満を感じる、と語る。