後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔278〕矢部顕さんからのハンセン病問題のドキュメンタリー製作についてのお知らせとお願いです。

2020年06月25日 | 映画鑑賞
 このブログでお馴染みの矢部顕さんから久しぶりにメールがありました。彼は私より少し年上ですが、岡山の地で元気に米と葡萄作りに精を出していたようです。そうした近況報告と共に送られてきたのが、ハンセン病問題のドキュメンタリー製作についての情報と、支援の依頼です。その詳細については次の矢部さんのメールをお読みください。少し長いのですが「ドキュメンタリー製作企画書」と「協賛金募集について」も読んでみてください。
 私にできることは知人友人にこうした運動を知らせることとカンパすることぐらいです。
 完成は来年秋を予定しているようです。楽しみですね。


●福田 三津夫 様

4月の下旬ころから、この頃まで、米つくりとブドウつくりにとっては、
非常に忙しい季節が重なります。

ブドウは、芽が出てきて、枝が伸び、花が咲いて、実を付けてくると、
枝の管理、満開3日以内にホルモン処理、粒が大きくなるまえに房の
整形、粒間引きなどなど、ブドウの成長に人間の仕事が追いつきません。、

米つくりは、4月下旬に、苗を育てる苗代づくり。5月になると、苗箱に
種を蒔いて、苗代でビニールでカバーして、種が発芽し、苗が大きくなる
まで育てます。

その間に、田んぼの耕うん、肥料撒き、水張り、代かき、薬撒きをして
田植えを待ちます。

作業にあわせての、用水路の水位の調節は数㎝単位でコントロールする
のですが、個々の要望を聞きながらの樋門の管理の役もやっています。

そんなわけで、先日、やっと田植え作業が終わりました。
年に1回の田植機の運転操作も思い出すのに時間がかかります。

ミスがあって、やり直しをしたりしました。
なんとか、やっと終わりました。

杖が無いと歩けないので、作業も今までよりも、多くの時間がかかって、
自分でも嫌になります。

昨日まで、猛暑のような日々でしたが、今日は雨になり、作業は一休みといった
ところです。

話は変わりますが、岡山に来て知り合った友人に報道カメラマンの宮崎賢さんという
方がいます。
彼が取材撮影してくれた放映のニュース特集のDVDを何回かお送りしたことが
ありますが、いま彼は定年退職して、ハンセン病問題の最後になるであろう
ドキュメンタリー製作に取り組んでいます。

その製作実行委員会が立ち上がり、小生も加わっています。
その趣意書・企画書を添付します。

お知り合いの方々に紹介していただければ幸いです。

矢部 顕


●ドキュメンタリー製作企画書

             2020年(令和2年)5月1日
ドキュメンタリー製作企画書
1 タイトル(仮題)
 「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」

2 ドキュメンタリー製作の目的
我が国では、ハンセン病患者を隔離する人権侵害の法律が89年にわたり存在し、その法律のもとで、国による人権無視の終生絶対隔離政策が続けられてきました。この政策により、長年にわたり、ハンセン病病歴者は、多大な苦難と屈辱を被り、人間の尊厳を奪われてきました。そして、1996年(平成8年)に「らい予防法」が廃止されて24年を経過した現在においても、ハンセン病病歴者とその家族は、国の誤った強制隔離政策の結果として生み出された社会構造としての偏見差別の中で生きることを余儀なくされています。
そして今、ハンセン病国賠訴訟やハンセン病家族訴訟を通じて、国の人権教育や啓発のあり方が問い直されています。
  我が国のハンセン病強制隔離政策の負の歴史とその中で生き抜いて闘ってきたハンセン病病歴者とその家族の姿を、次の世代に継承するとともに、改めて、人権とはなにか、人間の尊厳とはなにかを一緒に考えるため、入所者の証言と島の四季の表情を映像で綴り、隔離の記憶を映像で記録したドキュメンタリーを製作します。

3 撮影・取材・編集・構成担当者プロフィール
宮崎賢は、ハンセン病問題に関する取材歴は40年に及び、その間、岡山県の長島愛生園・邑久光明園をはじめ10か所の国立ハンセン病療養所や、「らい菌」の発見者であるアルマウエル・ハンセン医師が生まれたノルウェーのベルゲンやインドを訪れ、内外のハンセン病政策や現状を取材してきた。
これまでにハンセン病ドキュメンタリー13番組、TBS 報道特集、筑紫哲也のニュース23などで全国に発信。ニュース特集は150本を数える。
この間、1983年「地方の時代」映像祭で大賞2014放送グランプリ特別賞。第43回放送文化基金賞・個人賞。民間放送連盟賞優秀賞4度受賞。2019年報道活動部門(ハンセン病)でギャラクシー大賞などの放送賞多数受賞。

4 ドキュメンタリーのあらまし
  「島流しと思った。もう人生は終わったと・・・・」
「収容されたのは小学校5年生。ひらかなで『かくり』と書いて背中に貼って歩いて来た90年の人生でした」「戦争中、食料がないので、島を開墾し鍬で大きな根っこを掘り起こし、芋を作りました。強制労働でした。手足に傷を負って、敗血症で多くの人が死にました」
  入所者が沈黙を破り、隔絶の島での過酷な体験をカメラの前で初めて証言した。

  岡山県瀬戸内市邑久町虫明にある長島には、長島愛生園と邑久光明園の二つの国立療養所がある。入所者の平均年齢は86歳を超え、入所者は超高齢化しており、入所者の急激な減少により、やがて療養所としての役割は終焉を迎える。

 長島愛生園は、1930年(昭和5年)、初めての国立療養所として開園した。1931年(昭和6年)3月、全生園などから「開拓患者」84名が、長島愛生園園長光田健輔と共に島に降り立った。4月「癩予防法」が公布され、全てのハンセン病患者を収容する絶対隔離政策が始まった。9月には満州事変が勃発し、日本の戦時体制が強化されていく。
  愛生園では、開園当初から、「無らい県運動」に呼応して、定員をはるかに超える患者を収容し、開園4か月で、入所者は定員400人を超過した。
戦前隔離された入所者は、「警察が来るんです。家に何回も入所を勧奨に来ました。父親は嫌な顔をしていました」と証言。
国の増床計画の実現を待てない絶対隔離論者である園長光田健輔は、定員超過の解決策として、フィリピンのクリオン療養所で見たニッパ葺き小屋をヒントに、「十(と)十(と)坪(つぼ)坪(つぼ)住宅運動」を開始した。10坪住宅は、建設資金を国民の寄付に求め、患者作業で建設するというものであった。
患者は園に500円(現在の価値で約85万円)を寄付しなければ入居できなかった。1935年(昭和10年)には、定員890人に対して1163人を収容。273人が定員超過となり、患者関係費は実質3割の低下となり、入所者の生活は窮乏を極めた。10坪住宅は、1932年(昭和7年)から1944年(昭和19年)末までに149棟が建てられ、患者の3分の2にあたる約1000人が暮らしていた。定員5名の12畳半に8人。夫婦の居室も6畳に2組というような非人道的な状態が続いた。
1946年(昭和21年)に結婚した夫婦は、「私たちは新婚当初10畳の部屋に夫婦3組が押し込められました。カーテンもなかった。プライバシーというものはないです。人間扱いじゃない、粗末に扱われました」と証言する。

  苛酷な人権侵害の歴史を象徴する建造物が監禁室である。1916(大正5)年に療養所長に懲戒検束権が与えられ、1931年(昭和6年)には「国立らい療養所患者懲戒検束規定」が制定され、療養所から逃走した患者や、職員に反抗的な態度をとった患者などが、園長の権限で監房に収容された。食事は一日一回握り飯2個と沢庵一切れ、梅干し一個と水のみだった。  
  
入所者の録音テープが愛生園歴史館にある。テープには、40人分約70時間の証言が残されている。証言の聞き手は、入所者の「島田等」さん(1995年(平成7年)死亡)。島田さんは、園内では理論派として知られ、入所者からの人望も篤く、戦前に入所した患者の証言をテープに残していた。1932年(昭和7年)に収容された女性の貴重な証言。
  「職員は監房で死なせたということで近寄せなかったが、私は、監房の近くに住んでいたので、監房で亡くなった人を見ました。死体はひどい状態でした。監房での自殺者もありました」

  邑久光明園の前身である外島保養院は、2府10県(第三区)による大阪府主管の公立ハンセン病療養所。1909年(明治42年)に大阪湾に注ぐ神崎川河口(現大坂市西淀川)の海抜ゼロメートル地帯の、近くに民家のない僻地に設立された。1934年(昭和9年)近畿地方を襲った室戸台風による高潮の被害で療養所は壊滅し、入所者173人職員とその家族など23人、あわせて196人の尊い命が奪われた。外島保養院は、住民の反対運動で現地復興が叶わず、長島愛生園がある長島の西端部に設置された。1938年(昭和13年)に「光明園」として再興され、その後1941年(昭和16年)に国立移管され、邑久光明園となり現在に至っている。

1997年(平成9年)、邑久光明園入所者自治会が、「外島保養院」跡地付近に「外島保養院記念碑」を建立し、室戸台風で犠牲となった入所者を追悼している。入所者自治会副会長の山本英郎さんは、「海抜ゼロメートルの土地で患者は生活させられた。一番住民が嫌うような場所で。室戸台風で犠牲になった人は気の毒だと思う。後世に伝えていかなければいけない」と話す。

  1945年(昭和20年)、愛生園入所者の死亡者数332人、死亡率は22.5%に達した。食料不足による栄養失調と強制労働が、患者を死に追いやった。島の山の中では、患者が島の木を切り倒し、大きな根っこを鍬で掘り起こし、およそ230人の患者が一人20坪の畑を割り与えられ、芋などを作り園に供出した。塩も不足し、トタン板を曲げて作った釜で昼夜をかけて海水を焚いて作った。子どもたちも、少年寮の裏山50アールを開墾し畑にしてさつまいもを植えた。患者は、この苛酷な労働により病状を悪化させた。
戦時中は、職員から「非国民」「穀つぶし」と言われ、患者は人間扱いをされなかった(故・阿部はじめ氏などの証言)。

  1943年(昭和18年)、アメリカで、プロミンがハンセン病に有効であることが発表され、我が国でも、1946年(昭和21年)東大薬学部の石館守三教授がプロミンの化学的合成に成功。多磨全生園と長島愛生園で試験治療が開始されてその効果が確認された。1949年(昭和24年)から全国の療養所の入所者対象にプロミンの本格的な治療を実施。ハンセン病は治癒する病気となり、療養所の中は明るい雰囲気に包まれていく。愛生園でプロミン治療を受けた北島かね子さんは、「犀川先生に道を歩いていたら呼び止められて『プロミンを打つと結節(皮膚のしこり)はすぐ引くよ』と言われ、プロミンをしてもらったら本当にきれいに治りました。嬉しかったです」と明るく話す。

  それでも「癩予防法」は廃止されなかった。1953年(昭和28年)、全国ハンセン氏病患者協議会(現・全療協)は「癩予防法改悪反対」のハンストや座り込みなどの抗議活動を行い、抜本的な改正を求めて闘った。しかし参議院では、患者の反対闘争に応える形で、9項目の付帯決議がなされたものの、同年8月、政府原案のまま「らい予防法」が成立。患者の人権闘争は、国民の支援やメデイアの支援が得られず挫折した。

 しかし、予防法改正闘争の結果として、1955年(昭和30年)9月、長島愛生園に患者のための唯一の高校「岡山県立邑久高等学校新良田教室」が開校した。生徒は第一期生として、希望に燃え、高い意識を持って高校生活を送っていたが、高校生活は、同時に偏見と差別との戦いの場でもあった。
  一期生は、「生徒にとって異邦人である先生たち。白ずくめの予防着・予防ズボン・予防帽。そこには厚い白衣の壁が厳然と存在する」と、卒業記念誌に投稿した。 
  卒業生である田村保男さんは、「我々高校生の見えるところでお金を消毒するのを見るのは嫌だった。見えないところで消毒してほしかった」と話す一方で、「全国の仲間と勉強するのは楽しかった」と希望に満ちた学校生活も話した。
  この教室で学んだ生徒は397人。307人が卒業し、225人が社会復帰した。専門学校や大学などに進学して社会で活躍した生徒も多くいる。新良田教室は、患者にとって“力の泉”だったのかも知れない。

  プロミンで治る時代になった1950年代後半から、ハンセン病療養所は文芸ルネッスサンスがあった。絵画・写真・陶芸・詩・川柳・音楽活動など幅広い活動が展開された。戦後の飢餓状況を抜け出し、療養所の中にも少し光がさしだした。その中でもハーモニカバンド「青い鳥楽団」(楽長 近藤宏一さん)の活躍は入園者を驚かすものだった。
  社会のハンセン病にたいする偏見差別が強かったこの時期に支援者の理解を得て、1967年(昭和42年)から毎年、園外演奏に出かけ、9年間に13回の演奏会をおこなった(『愛生』第58巻 平成16年)。生前の、近藤さんは、「ハーモニカを通じて社会の交流ができた。ハンセン病の啓発にも繋がった。すばらしい仲間に支えられて演奏する喜びが味わえた」と話した。

 「人間回復の橋早期実現」
  島の対岸のフェリー乗り場に、立て看板が掲げられた。
  1982年(昭和57年)、台風の余波で白波が起つ長島の桟橋に、架橋現場の視察のため、森下元晴厚生大臣が降り立った。愛生園入所者自治会の会議室で架橋促進委員長の加川一郎さんが、「島流しの生活を一日でも早く終わらせて欲しい」と声を振り絞って大臣へ要望した。愛生園が開園して半世紀が過ぎていた。
1988年(昭和63年)に長島に元患者の悲願であった「人間回復の橋」邑久長島大橋が開通した。長島で架橋運動が始まって17年の歳月が過ぎていた。橋を渡った入所者は、「これでやっと人間に帰れる」「生きている内に橋を渡れるとは思わなかった」と声を弾ませた。

  しかし、橋が開通しても、患者を島に閉じ込めた「らい予防法」は厳然と生きていた。世界各国では、1950年代から1960年代にかけて、ハンセン病は治る病気として次々に隔離法が廃止されていた。
我が国が「らい予防法」を廃止し、厚労大臣が法廃止の遅れを謝罪したのは、「癩予防ニ関スル件」制定から89年が経過した1996年(平成8年)。余りにも遅すぎた法廃止であった。

  1998年(平成10年)、九州の国立ハンセン病療養所入所者13人が、「らい予防法」を憲法違反だと訴え、国を提訴した。原告らは、長年、人間の尊厳を踏みにじられてきた。病気になったという理由だけで隔離され、断種(優生手術)させられ、妊娠すれば堕胎された。人間の尊厳を取り戻す人間回復裁判だと原告らは宣言した。

  2001年(平成13年)、熊本地裁は「らい予防法」は憲法違反と国の責任を断罪した。その後、国は控訴を断念し判決が確定した。原告らは、市民が裁判支援に加わったことに感謝した。

  愛生園で暮らす三重県出身の夫妻がいる。川北為俊さん(85歳)と幸子さん(81歳)は、連れ添って60年になる。3年前に高齢と病気の後遺症で体が不自由になり最後となるだろう帰郷。長年支援してきた小学校教諭の草分京子さんら3人が迎えた。為俊さんは不自由な体で両親が眠るお墓に手を合わせ、最後の墓参りを報告した。
  「故郷の空気はおいしい」と為俊さん。支援する草分先生が教える小学校に招かれ、6年生の児童と給食を初めて食べ、「おいしい」と為俊さん。「胸がぱくぱくする」と幸子さん。初めての給食に嬉しさで胸が詰った。給食の後、為俊さんは、「子どもたちは夕方になると、お母ちゃんお母ちゃんと泣いとった」と13歳で強制隔離された体験を児童に話した。
静かに聞きいっていた児童たちは、為俊さんの話が終わると、活発に質問を投げかけた。
  最後に児童たちは「カントリーロード」の歌をプレゼント。北川さん夫妻は目に涙を浮かべた。幸子さんは「胸がピンク色に染まりました」と笑顔を浮かべた。

  2018年(平成30年)4月、愛生園で人権闘争に長年尽力した宇佐美治さんに死が近づいていた。生前、宇佐美さんは、「人間らしく生きたかった。最期は家族に見守られて死んで逝きたい」と話していたが、横には家族はいない。カメラマンの宮﨑賢が宇佐美さんに声をかける。
  宇佐美さんに光田健輔初代園長の話を向けると、意識が薄れる中で大きな声で反応し呻いた。最期まで光田健輔園長の終生絶対隔離を非人道的だと糾弾してきた宇佐美さんの伝言に聞こえた。                                        (完)


●私たちは製作に賛同いたします            賛同者 (敬称略・順不同)

市村 元(「地方の時代」映像祭プロデューサー)、井上英夫(金沢大学名誉教授)、関 隆晴(大阪教育大学名誉教授)、鈴木 静(愛媛大学教授)、阪井ひとみ(阪井土地開発)、室山昭彦(倉敷商業高校野球部元監督)、金平茂紀(TBS報道特集キャスター)、臼井敏夫(岡山南高校野球部元監督)、斎藤貞三郎(毎日新聞大阪本社制作技術局長)、笠井直美(信越放送編成部)、門屋和子(主婦)、湯浅 進(NPO法人むすびの家理事長)、魚森洋史(RSKプロビジョン元社長)、影山正興(RSK元制作部長)、田中睦郎(RSK元報道制作局次長)、藤原敏久(キョウエイ藤原保険事務所代表取締役)、片岡郁男(農事組合法人佐伯営農組合代表)、中山節夫(映画監督)、宮崎信恵(映画監督)、草分京子(三重県小学校教諭)、篠埜 護(岡山県元中学校校長)、谷岡美穂(医療ソーシャルワーカー)、谷岡聖史(東京新聞記者)、江刺正嘉(毎日新聞記者)、阿部光希(山陽新聞記者)、角南和治(岡山協立病院副院長)、八重樫信之(日本写真家協会会員)、村上絢子(IDEAジャパン事務局長)、杉原尚示(郷土史家)、酒井光雄(香川ハンセン病問題を考える市民の会)、増田聡子(精神保健福祉士)、平川 忠(備前焼作家)、徳田 靖之(ハンセン病国家賠償請求訴訟弁護団共同代表)、角南元司(JXジュンテック社長)、藤原 茂(藤原企画)、増田 尚(弁護士)、佐渡裟智子(ハンセン病朗読ボランティア50年)、浅野 弘(マスカット農家日本一)、曽根英二(RSK元報道ディレクター・菊池寛賞受賞)、内田真澄(鳥取県看護協会会長)、横谷照夫(赤磐市詮量寺代表役員)、近藤真紀子(香川県立保健医療大学教授)、岩脇 彰(三重県小学校教諭)、小川秀幸(テレビディレクター)、三宅美千子・三宅洋介(ハンセン病を考えるネットワーク泉北)、訓覇 浩(ハンセン病市民学会事務局長)、虫賀宗博(論楽社)、徳永 進(野の花診療所・医師)、隈元信一(朝日新聞元論説委員)、青谷善雄(NPO法人むすびの家理事)、林 力(ハンセン病家族訴訟原告団団長)、黄 光男(ハンセン病家族訴訟原告団副団長)、山田 晴海(ハンセン病家族訴訟原告)、原田信子(ハンセン病家族訴訟原告)、松田通男(RSK初代イブニングニュースキャスター)、岩脇宏二(ハンセン病問題を共に考える会三重共同代表)、藤原明文(岡山県警元刑事)、伊波敏男(作家)、金 勝男(フリーカメラマン)、新保庄三(花さき保育園理事長)、原田恵子(福祉運動みどりの風)、松本 伸(三菱自動車水島製作所元所長)、高橋公正(民放連山陽放送労働組合元委員長)、中尾監一(年金生活者)、丹羽弘子(盲学校教諭)、富田美代子(無職)、土屋和代(会社員)、山下 徹(RSKプロビジョン元報道チーフカメラマン)、林 慎一(フリーカメラマン)、林 由子(パート職員)、正躰晃子(主婦・日本百名山走破)、正躰照師(銀行元支店長)、横谷祐二(横谷工務店代表取締役)、山田信和(フリーアナウンサー)、酒井義一(ハンセン病首都圏市民の会事務局長)、横田廣太郎(元新良田教室教諭)、木村哲也、杉野政代(会社員)、小崎敏章(無職)、赤田裕支(会社員)、石田由美子(主婦)、城之内庸仁(一般社団法人岡山に夜間中学校をつくる会理事長)、遠藤美穂(テレビせとうち編成局次長CM部長)、大黒澄枝(元中学校教諭)、愛須勝也(弁護士)、有馬紫朗(テレビ報道カメラマン)、神谷健太郎(フリーテレビカメラマン)、岡崎久美子(クレイアート作家)、岸上昭子(主婦)、田中キャサリン(大手前大学講師)、大和豊子(医師)、大槻倫子(弁護士)、福田きよこ(NPO法人むすびの家理事)、船橋美和子(自営業)、アカリトバリ(ミュージシャン)、山口カズコ(無職)、村田和也(元プロボクサー)、内藤雅義(弁護士)、片野恵子(主婦)、渡辺 文(ビデオエディター)、立花明彦(静岡県立大学教授)、立花礼子(主婦)、小林数義(漁業)、妻井令三(認知症の人と家族の会岡山県支部元代表)、船田 努(民放労連山陽放送労働組合元委員長)、小池正一(RSK元制作技術部長)、石井 尚(毎日新聞記者)、遠藤寛子(フリーアナウンサー)、石川寛昭(会社員)、柚本哲男(会社員)、市川敏史(テレビカメラマン)、市川剛士(桃農家)、森幸 健(沖縄愛楽園入所者)、米倉豊正(沖縄愛楽園入所者)、池内未有希(中学校教諭)、小野未鈴(中学校教諭)、小野智慶(中学校教諭)、池内亮介(中学校教諭)、赤田裕支(会社員)、宮崎完一(農業)、宮崎みや子(介護職員)、小林浩人(会社員)、小林恭子(学校職員)、角南茂夫(無職)、角南牧子(MahaloMahaloHula Studio主催)、木川佳子(夕焼け子ども食堂)、恒本重男・崇子(無職)、小林新一郎・とし子(無職)、江口元利・友紀(会社員)、坪井伸一(会社員)、妹尾恵美(フリーアナウンサー)、榎崎朱子(会社員)、河原祥子(フリーアナウンサー)、迫田登紀子(弁護士)、坂手洋二(劇作家)、稲本ヒロエ(美容師)、久木田照子(毎日新聞記者)、吉江真理子(エディター&ライター)、岡本佳彦(会社員)、蔵座江美(ヒューマンライツふくおか理事)、水谷 賢(弁護士)、篠埜智子(主婦)、森元美代治(NGO IDEAジャパン理事長)、森元美恵子(NGO IDEAジャパン理事)、大前有光(RSKプロビジョン元総務部長)、河原 大(テレビディレクター)、山田伸二(RSKプロビジョン元社長)、茅原 淳(会社員)、波佐間崇晃(テレビアナウンサー)、藤原準三(無職)、小尾渚沙(フリーアナウンサー)、北川拓治(岡山県川柳協会副会長)、山口典子(テレビ報道記者)、西浦直子、加藤めぐみ(社会福祉法人大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター職員)、田口温美(社会保険労務士)、迫田 学(弁護士)、藤川智子(弁護士)、立岡修二(元瀬戸内市長)、古川克行(RSK報道部元記者)、高田栄子(主婦)、小松裕子(真宗大谷派僧侶)、久保井 摂(弁護士)、坂 俊介(会社員)、江草聡美(シニア野菜ソムリエ)、佐々木美穂(会社員)、仲野尚代(会社員)、長谷川昌也(東映アニメーション企画部室長代理)、横井香苗(広告業)、日原和美(キレイの習慣主催)、神谷誠人(弁護士)、柄澤恵子(ピアノ講師)、角南滋夫(無職)、瀬川至朗(早稲田大学政治経済学術院教授)、黒尾和久(重監房資料館部長)、和泉眞蔵(アイルランガ大学熱帯研究所ハンセン病研究グループ顧問)、塩田 恵(ハンセン病首都圏市民の会)、福岡安則(埼玉大学名誉教授)、雨宮 徹(朝日新聞記者)、岸本康之(農業)、森山一隆(奄美ハンセン病文庫友の会代表)、有吉正春(元高校教師)、西岡良治(農業)、西岡昌磨(無職)、原田健男(放送ジャーナリスト)、南 幸男(カメラマンDirector of Photography)、高山雅之(郷原漆器生産振興会会長)、高橋邦彰(団体役員)、窪田 聡(音楽家)、篠田澄江(純工房)(2020年6月4日現在)


●協賛金募集について

                            2020年(令和2年)5月1日
関係各位

ドキュメンタリー「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
協賛金募集について(趣意書)
謹啓 時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、この度、ドキュメンタリー「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作実行委員会を立ち上げました。
 我が国では、人権侵害の法律が89年にわたり存在し、その法律のもとで、国による人権無視の終生絶対隔離政策が続けられてきました。この政策により、長年にわたり、ハンセン病病歴者は、多大な苦難と屈辱を被り、人間の尊厳を奪われてきました。そして、1996年に「らい予防法」が廃止されて24年を経過した現在においても、ハンセン病病歴者及びその家族は、国の誤った強制隔離政策の結果として生み出された社会構造としての偏見差別の中で生きることを余儀なくされています。今、ハンセン病国賠訴訟やハンセン病家族訴訟を通じて、国の人権教育や人権啓発の在り方が問い直されています。
 「“かくり”の証言」は、我が国のハンセン病隔離政策の「負の歴史」及びその中で生き抜いて闘ったハンセン病病歴者及びその家族の姿を、次の世代に継承すると共に、改めて人権とはなにか、人間の尊厳とはなにかを一緒に考えるため、入所者の証言と島の四季の表情を映像で綴り、隔離の記憶を映像で記録したドキュメンタリーです。
 「“かくり”の証言」の撮影・取材・編集・構成を担当する宮崎賢は、これまで、40年に及ぶハンセン病問題取材歴があり、この間、長島愛生園や邑久光明園をはじめ10か所の国立ハンセン病療養所や「らい菌」の発見者であるアルマウエル・ハンセン医師の生まれたノルウェーのベルゲンやインド等、国内外のハンセン病政策や現状を取材。これまでにハンセン病ドキュメンタリー13番組、TBS報道特集、筑紫哲也のニュース23などで全国に発信。ニュース特集は150本を数えます。
 つきましては、上記ドキュメンタリー製作の趣旨をご理解いただき、皆様の格別のご芳情をお寄せいただきたく、略儀ながら書面をもってお願い申し上げる次第です。  謹白                                                 

1 内 容:「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作費支援
  完成年月 2021年秋(予定)
  完成時間 1時間30分(予定)
  完成した作品は人権教育や人権啓発に役立てていただきたいと考えています。
2 協賛申込:企業・団体:一口10,000円
個人:一口2,000円(できれば3口以上でお願いします) 
別紙の「協賛金申込書」にてお申し込みください。
3 入金方法:現金または別紙指定口座へのお振込
4 募集期間:令和3年5月末日まで。目標額:700万円 
5 特  典:別紙協賛申込書をご参照ください。         
  「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作実行委員会
                         製作実行委員会委員長 近藤 剛

●製作実行委員会 近藤 剛(ハンセン病国家賠償訴訟瀬戸内弁護団事務局長)、難波幸矢(元瀬戸内ハンセン病人間回復裁判を支える会代表)、宮崎 賢(報道カメラマン)、有吉和生(RSK元記者)、亀池弘二(RSK元編成部参事)、矢部 顕(NPO法人むすびの家理事)

「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
製作協賛申込書


「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
 製作実行委員会事務局(近藤剛法律事務所内)行
  FAX:086-463-6673 E-mail: go23372@topaz.plala.or.jp 

企業・団体様 一口10,000円(何口でも結構です)
個人の方 一口2,000円(できれば、3口以上でお願いします)
※申し込み期日:令和3年5月31日

【特典】・・10,000円以上協賛していただいた企業名・団体名、個人の方の氏名を、完成作品のエンドロールに表示させていだきます。
※申込書送付・お問い合わせ
      「“かくり”の証言」製作実行委員会事務局(近藤剛法律事務所内)
FAX: 086-463-6673  E-mail:  go23372@topaz.plala.or.jp

※振込先 株式会社ゆうちょ銀行  店名:五四八(読み ゴヨンハチ) 店番:548
預金種目:普通預金 口座番号:3985311 
名義人 「“かくり”の証言」製作実行委員会                         


〔223〕映画「沖縄スパイ戦史」は、軍隊が国民を守らないことを「証言」してくれました。

2019年07月03日 | 映画鑑賞
 2019年6月27日、東村山市立中央公民館で映画「沖縄スパイ戦史」を鑑賞しました。5,600人は入るであろうホールはほぼ満席でした。ひたひたと戦争の空気が漂い始めている今日この頃、「戦争はいやだ」「戦争はさせない」という想いが集結していたように思えてなりません。
 いろいろな意味ですごい映画でした。考えさせられる映画でした。見なければいけない映画でした。
 それはこんな映画です…。

■映画「沖縄スパイ戦史」(HPより)

 戦後70年以上語られなかった陸軍中野学校の「秘密戦」、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない―。戦後70年以上語られなかった陸軍中野学校の「秘密戦」、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない―。

 第二次世界大戦末期、米軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。第32軍・牛島満司令官が自決する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など「裏の戦争」が続いた。作戦に動員され、故郷の山に籠って米兵たちを翻弄したのは、まだ10代半ばの少年たち。彼らを「護郷隊」として組織し、「秘密戦」のスキルを仕込んだのが日本軍の特務機関、あの「陸軍中野学校」出身のエリート青年将校たちだった。
 1944年の晩夏、42名の「陸軍中野学校」出身者が沖縄に渡った。ある者は偽名を使い、学校の教員として離島に配置された。身分を隠し、沖縄の各地に潜伏していた彼らの真の狙いとは。そして彼らがもたらした惨劇とは……。

「散れ」と囁くソメイヨシノ「生きろ」と叫ぶカンヒザクラ「散れ」と囁くソメイヨシノ「生きろ」と叫ぶカンヒザクラ

 長期かつ緻密な取材で本作を作り上げたのは、二人のジャーナリスト。映画『標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』で現代の闘いを描き続ける三上智恵と、学生時代から八重山諸島の戦争被害の取材を続けてきた若き俊英、大矢英代。
少年ゲリラ兵、軍命による強制移住とマラリア地獄、やがて始まるスパイ虐殺……。戦後70年以上語られることのなかった「秘密戦」の数々が一本の線で繋がるとき、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない。
  映画は、まさに今、南西諸島で進められている自衛隊増強とミサイル基地配備、さらに日本軍の残滓を孕んだままの「自衛隊法」や「野外令」「特定秘密保護法」の危険性へと深く斬り込んでいく。


 日本で唯一地上戦が展開されたのが沖縄でした。20万人、沖縄の4人に1人が亡くなりました。沖縄の少年たちもゲリラ戦にかり出されました。強制移住させられた島はマラリアの巣窟でした。日本軍は国民を守らなかった。日本軍が守ろうとしたのは国体でした。…そんなことがじわりと伝わってくる映画でした。
 目を背けてはいけない映画です。本当の戦争はもっとむごいものだからです。

 最近、1冊の本を読みました。『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』。戦争を兵士の目線で客観的に描き出しています。その一部を〔内容点描〕として取り出しました。映画とは全く異なる視点で戦争の矛盾を活写しています。
  今日購入した『沈黙の子どもたち-軍はなぜ市民を大量殺害したか』(山崎雅弘、晶文社)も戦争を鋭く問いかける本です。
 最後に、鎌田慧さんの新聞コラム「沖縄の問いかけ」を読んでください。
 映画、本、コラムが一直線に繋がりました。


■『日本軍兵士』吉田裕、中公新書、2017年
〔ソデ〕310万人に及ぶ犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高率の餓死、30万人を超えた海没死、戦場での自殺・「処置」、特攻、劣悪化していく補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験をせざるを得なかった現実を描く。
●吉田裕著『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』が、第12回新書大賞を受賞しました。
 本書は、兵士の目線・立ち位置から、過酷さを増した1944年以降の戦争の実態を描いた作品です。戦闘で斃れたと思われがちな兵士たちが、実際には餓死や海没死などの亡くなり方も多かったこと、歯や軍服、軍靴の劣化、過重な装備で悩まされたことなど、兵士たちの現実を描いています。
 発売以来、朝日・毎日・読売・日経・産経のほか地方紙などにも書評や紹介が掲載されて多くの反響がありました。また、第30回アジア・太平洋賞特別賞を受賞し、学術面での高い評価も得ています。

〔内容点描〕
・第1期 開戦(1941年12月8日)~1942年5月 日本軍の戦略的攻勢期
・第2期 1942年6月~1943年2月 戦略的対峙の時期
・第3期 1943年3月~1944年7月 戦略的守勢期
・第4期 1944年8月~敗戦(1945年8月) 絶望的抗戦期

*アジア・太平洋戦争の死者
・日本人 軍人・軍属230万人(朝鮮人、台湾人5万人) 外地一般邦人30万人 国内50万人 合計約310万人
・米軍 9万2000~10万人、ソビエト連邦 2万2694人 、英軍 2万9968人、オランダ軍 2万7600人
・中国軍 中国民衆 1000万人以上、挑戦20万人、フィリピン111万人、台湾3万人、マレーシア・シンガポール10万人、その他、ベトナム、インドネシアなど総計で1900万人以上
・1944年以降の戦没者91%
・異質な軍事思想…短期決戦、速戦即決、作戦至上主義、極端な精神主義、「肉薄攻撃」、「特攻」
・日本軍の根本的欠陥…「統帥権の独立」、ミッドウェー島攻略は天皇が指示、「皇軍」、「軍人精神注入棒」、



 ◆沖縄の問いかけ   鎌田 慧(ルポライター)

「青くきれいな海 この海は どんな景色を見たのだろうか」
 沖縄「慰霊の日」に問いかけた糸満市の小学6年・山内玲奈さんの詩(
本紙24日掲載)は胸を衝く。

 沖縄の青い海と空と緑の大地を誇りに思いつつ自然に恵まれた島を
襲った74年前の「鉄の暴風」。その戦争の残虐さを昨年亡くなった祖父
に聞くことはできなかった。「悲しい記憶を思い出させるのはかわい
そう」と思ったからだ。
 本土に住む首相や大臣そしてわたしたちも、戦争の悲惨は沖縄だけで
はない。本土も同じ苦難だった。原爆もあったといいがちだ。

 しかし、米国の軍政から念願の日本復帰をはたして47年。それでも
日本国土の0.6%に70.3%もの米軍基地が集中配備されている。差別的
すぎる。
 辺野古のジュゴンが来る青い海に、今日も遠慮会釈なく大量の土砂が
投入されている。東村の「やんばるの森」は刈り倒され、コンクリート
のオスプレイ発着場にされた。

 県民の大多数がどれだけ嫌だといっても、首相は「基地負担の軽減
だ」と嘯(うそぶ)く。この暴政の傍観者でいるのは心苦しい。
 「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎さんは、住んでいる国立市
議会へ陳情書を提出した。辺野古新基地建設中止と普天間飛行場の運用
停止を求める意見書を国に提出させる要請運動だ。各地でやろう。

〔204〕映画「熊野から イントゥ・ザ・新宮」(田中千世子監督)、大逆事件は今日起こりうる話ですよ。

2018年12月29日 | 映画鑑賞
 大逆事件って知っていますか。幸徳秋水はじめ26人が「大逆罪」として逮捕され、そのうち12人が処刑されたという事件が1911年(明治44年)にありました。そんな昔のこと知らないよ、と簡単にすますことはできません。なぜなら当時と現在は社会状況がかなり類似していると指摘する学者は多いからです。何が秘密なのかも知らされない特定秘密保護法、話し合っただけで罪になる可能性を秘める「共謀罪」はすでに自公政権によって強行採決されたのですから。現代版大逆事件はいつ起こってもおかしくないし、だからこそ起こしてはいけないと思うのです。
 こんな状況に抗うように警鐘を鳴らし、かつての大逆事件を掘り起こす映画ができあがりました。しかも三部作です。私は最後の作品だけですが先月見ることができました。例の練馬区・江古田のギャラリー古藤でのことでした。

 古藤店主のブログを覗いてみましょう。

■古藤店主(ブログ)
○田中千世子監督映画作品「熊野から三部作一挙上映」
「熊野から」「熊野から ロマネスク」「熊野から イントゥ・ザ・新宮」
明治の闇「大逆事件」を乗り越えてー
*期間 2018年11月23日(金)~11月25日(日)の三日間
*会場 ギャラリー古藤 

  『熊野から』シリーズ三部作は、世界遺産の地・和歌山県熊野地方を舞台に手がけるそれぞれが独立した3本の映画である。
 最初の『熊野から』(14年)は、熊野三山を旅する主人公・海部剛史(かいべつよし)を軸に熊野の自然や祭りや人々を紹介するセミ・ドキュメンタリーだが、続く『熊野から ロマネスク』(16年)は、物語性のある劇映画となった。舞台は熊野から吉野へ、三輪へ、難波へ、二上山へと自在に飛び移る。
 そして、今、新作『熊野から イントゥ・ザ・新宮』が新宮へと再び戻っていく。
 2018年1月、和歌山県新宮市は、「大逆事件」の犠牲となった医師で文筆家の大石誠之助を名誉市民に決定した。           

①「熊野から」2014年  90分
 2013年、早春の東京を発ち、俳優の海部剛史(かいべつよし)は熊野に向かう。海部の行程は新宮市の神倉(かみくら)神社に始まり、そこから熊野川沿いに本宮大社を経由して十津川村へ。翌朝玉置(たまき)神社を訪れ、村に戻って資料館で郷土史家から話を聞く。そのあと、果無(はてなし)集落の入り口まで登る。繰り返し出てくるのが、新宮駅前の「志を継ぐ」と刻まれた石碑であり、古代から近代へと急速に時間が巻き戻される瞬間だ。新宮出身の大石誠之助を含む大逆事件の被告たちである。
➁「熊野から ロマネスク」2016年 83分
 新宮を起点に、場所をさらに広げ、吉野↓熊野↓難波↓三輪↓二上山へとめぐる。海部が吉野で出会った、自称“コードネームはクローディーヌ”という若い女性の記事を旅行雑誌に寄稿すると、自分がクローディーヌであるとしたためた手紙が編集部に届く。俳優としても活動する彼は、間もなく狂言を取り入れた不条理劇の練習を始める。海部は慌ただしい日々を送りながらも、二人のクローディーヌのことが心に引っ掛かっていた。
③「熊野から イントゥ・ザ・新宮」2017年 83分
 明治時代に熊野に刺さった三つのトゲがある。トゲのひとつは「大逆事件」、国家の仕組んだ残酷な思想弾圧。その犠牲者がこの地から六人も出た。彼らの名誉回復は新宮市が決定し、今では白い碑が駅のそばに建つ。お燈祭りの神倉神社には神武上陸を記念した顕彰碑がある。古代と現代が交わる不思議な町、新宮。時空のはざまから佐藤春夫がひょっこり顔を出し、大石誠之助を歌った詩「愚者の死」を口ずさむ。ちなみに1911年に刑死した大石は2018年1月、名誉市民の決定が発表された。


 大逆事件に連座した26人のうち新宮からは6人が死刑判決を受けます。なぜ革新的で社会主義的な進歩思想が新宮から芽生えたのか、新宮の土地柄、地域性ということにも映画は肉薄していきます。
 事件後、6人の親戚縁者は一様に村八分になり、居住もままならず、就職など様々な差別を受けることになります。そしてようやく今年になって、大石誠之助を名誉市民として議会で認定され、高木顕明についても顕彰がなされているようです。 

 この映画について実に丁寧に書き記しているサイトが見つかりました。感謝して、採録させていただきます。

●「Muvie Warker」より
〔作品情報〕
 「熊野から」シリーズ三部作完結編。俳優兼旅行エッセイストの海部剛史と旅雑誌の女性編集者サキが熊野地方の中心的な都市、新宮市に取材旅行に出かけるという設定で、大逆事件の犠牲となった大石誠之助や高木顕明らの足跡を紹介するセミ・ドキュメンタリー。監督・脚本・製作は、「海と自転車と天橋立」の田中千世子。出演は、ドラマ『やんちゃくれ』の海部剛史、「浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人」の雨蘭咲木子、「まいっちんぐマチコ! ビギンズ」の鈴木弥生、「千年の愉楽」の佐野史郎。
〔映画のストーリー〕
 新宮の取材に行った俳優で旅のエッセイストの海部剛史と編集者サキ(雨蘭咲木子)は、雨の中でツール・ド・熊野2016初日のタイム・トライアルを観戦する。レース後、2人はくまの茶房を訪れる。江戸時代から経済力のあった新宮だが、明治になると、廃藩置県で熊野が和歌山県と三重県に分けられ生活文化が分断されたこと、神仏分離令と修験道禁止により熊野特有の神仏習合が打撃を受けたこと、大逆事件により6名の死刑判決が出たことに苦しんだ。翌日、2人は駅のそばの白い碑を訪れる。サキは、大逆事件の犠牲となった大石誠之助ら6人について、その進取の気性に富んだ精神を継ごうという言葉に感動する。2人は淨泉寺の住職だった高木顕明を偲ぶ遠松忌法要に出席する。速玉大社の境内に建つ佐藤春夫記念館を見学する2人。新宮と大石の物語を架空の森宮という町に置き換えて小説『許されざる者』を書いた辻原登は、子供の頃初めて新宮に来たときの感動を語る。2月6日のお燈祭り。『熊野の歴史をよむ会』講師の山本殖生さんは神倉神社に伝わる古文書を読み解き、神倉神社のごとびき岩のところに昔は懸けづくりの大きな建物があったことを確認する。数週間後、単独で新宮を訪れたサキは、海部に紹介されたアコーディオン弾きのアランと合流し、観光とは違う新宮のスポットを案内される。大石誠之助を名誉市民に推薦する動きもあり、高木顕明についても顕彰がなされている。“『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会”の人々は、成石平四郎、勘三郎兄弟の墓参りに行く。海部は助手ケントの叔母の銀婚式のイヴェントの演出をすることになり、ダンスのリハーサルの相手を務める。新宮から帰った海部は、佐藤春夫が大石の処刑を『愚者の死』として発表した真意について考えている。西村伊作はなぜ、東京に連行された叔父の大石を見舞いに、新宮からモーターバイクで旅したのか。海部は鎌倉からロードバイクで新宮に向かう。


〔203〕映画「獄友」(金聖雄監督)を見てから、日本の死刑制度は存続すべきか否かを考えませんか。

2018年12月29日 | 映画鑑賞
●11月09日(金)
多摩地域巡回上映ツアー 東久留米市<成美教育会館>
2018年11月9日(金) 上映時間:14:00
会場:成美教育会館(西部池袋線東久留米駅北口4分)

 清瀬の市民運動仲間に勧められて映画「獄友」を見に行ったのは11月のことでした。
 この映画は金聖雄監督のドキュメンタリー作品です。金聖雄監督はこれまで「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」「袴田巖 夢の間の世の中」という冤罪事件映画も世に問うています。従って「獄友は」冤罪ドキュメント三部作の一つということになります。「袴田巖 夢の間の世の中」は以前このブログでも取り上げましたので興味ある方は探してみてください。
 さて、この映画に登場する冤罪被害者は5人です。「狭山事件」の石川一雄さん、「袴田巖 夢の間の世の中」に登場する「袴田事件」の袴田巌さん、「布川事件」の桜井昌司さんと杉山卓男さん、「足利事件」の菅家利和さんです。
 この5人は横のつながりはなかったということですが、「足利事件」の菅家さんの釈放をきっかけ集まるようになったということです。それぞれの事件の時代や状況も様々な中で、5人が見せる冤罪に対する考え方や思いを知ることにより、現在日本に現存する死刑制度などについて深く考えさせられるのです。
  なお、「獄友」の主題歌は谷川俊太郎作詞、小室等作曲です。歌は獄友イノセンス オールスターズということで、小室等、うじきつよし、伊藤多喜雄、李政美、坂田明、金聖雄、谷川賢作、中川五郎、及川恒平など27人が参加しています。サウンドトラックにはこのメンバーが協力参加していて、音に厚みを加えています。CD「獄友」は、これらのメンバーのオリジナルが収録されていてその個性が際立っています。

 金監督のこの映画に賭ける思いを読んでいただきましょう。

■映画「獄友」(HPより)
映画のこと
シリーズ3作目だからこそ、できることがあるはずだ!
金聖雄 監督

「なぜ再審が始らないのだろう」
「なぜ彼らはあんなにまっすぐに生きているんだろう」

 2本の映画をつくって、今考えることは、様々な「なぜ!?」だった。いつも言うが、私はジャーナリストでもなく冤罪専門の映画監督でもない。何か使命感に駆られて映画をつくっているわけではない。それでも映画づくりの中で嫌と言うほど権力の非道を思い知らされた。同時にそれらを引き受けて生きる人たちの魅力に引きつけられて映画をつくってきた。
 「また冤罪映画!?」と思う人もいるだろう。しかしどうしても描かなければならないものがある。
 彼らは人生のほとんどを獄中で過ごした。いわれの無い罪を着させられ、嘘の自白を強要され、獄中で親の死を知らされた。奪われた尊い時間は決して取り戻すことができない。しかし、絶望の縁にいたはずの彼らは声を揃えて言うのだ。「"不運"だったけど、"不幸"ではない、我が人生に悔いなし」と。
 冤罪など、許されるはずがない。
 しかし、彼らにとって"獄中"は生活の場であり、学びの場であり、仕事場であった。まさに青春を過ごした場所なのだ。「冤罪被害」という理不尽きわまりない仕打ちを受けながら、5人は無実が証明されることを信じ懸命に生きたのだ。時に涙し、怒り、絶望し、狂い、そして笑いながら...。
 冤罪被害者の横のつながりはほとんどなかったが、「足利事件」の菅家さんの釈放をきっかけに、彼らは同じ痛みを抱えるものとして、お互いを支え合うようになった。はじめて彼らの話を聞いた時、どんなに重い話をされるだろうかと緊張し身構えていたが、会った瞬間、笑いをこらえることができなかった。自分たちのことを「獄友(ごくとも)」と呼び、獄中での野球や毎日の食事や仕事のことを懐かしそうに語り、笑い飛ばす。そこには同じ「冤罪被害者」という立場だからこそわかり合える特別な時間があった。そしてなぜ自白したのか、獄中で何があったのか、娑婆に出てからのそれぞれの人生を自ら語ってくれた。
 奪われた時間の中で、彼らは何を失い、何を得たのかを描き出す。
そこからあぶり出されるものは、司法の闇であり、人間の尊厳であり、命の重さだ。
 今"ごくとも"たちは、"青春"のまっただ中にいる。
 ぜひ、一緒に作品づくりに参加していただけるならば、うれしい限りである。


  戦争と死刑制度に通底するのは、国家の名による殺人です。なによりも人の命を大切にすること、反戦非戦を推し進めることが、基本的人権の尊重と平和主義、国民主権を柱とする日本憲法を抱く日本国民が目指すことではないでしょうか。そして、世界的に見ても死刑制度は減少傾向にあるのです。
 最後に、先日出された死刑執行に関する札幌弁護士会会長声明を読んでいただきましょう。

■死刑執行に関する会長声明(札幌弁護士会)

 2018年(平成30年)12月27日、大阪拘置所において2名の死刑が執行されました。本年7月に計13名の死刑が執行されて以来の執行であり、本年の執行人数は合計15名となりました。また、第2次安倍内閣以降、死刑が執行されたのは15回目、合計36名に対して死刑が執行されたことになります。
 死刑は生命を奪う刑罰であり、誤判の場合、事後的な回復が不可能です。そして誤判・えん罪の危険が現実のものであって、誤った死刑が執行されるおそれが否定できないことは、これまでの複数の再審開始決定が明らかにしています。なお、本日死刑が執行された2名のうち1名は再審請求中でした。
 国際連合の自由権規約委員会は、日本の第6回定期報告に対する最終見解(2014年7月23日採択)において、死刑判決に対する必要的な上訴制度がないこと、再審請求に死刑の執行停止効がないことなど、日本の死刑制度には国際人権基準の観点から問題があると指摘しています。
 そもそも国際社会においては、死刑廃止に向かう潮流が主流です。2016年(平成28年)12月19日には、国連総会において「死刑の廃止を視野に入れた死刑執行の停止」を求める決議が、2014年(平成26年)12月に引き続き117か国の賛成により採択されています。
 また、2017年(平成29年)12月末日現在、死刑を廃止又は停止している国(10年以上死刑が執行されていない国を含む。)は142か国に及び、世界の3分の2以上の国において死刑の執行がなされていません。
 このような死刑制度が抱える重大な問題性や国際的な死刑廃止への潮流に鑑み、日本弁護士連合会は、2016年(平成28年)10月7日、第59回人権擁護大会において、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」を採択し、日本で国連犯罪防止刑事司法会議が開催される2020年までに、死刑制度の廃止を目指すべきであることを宣言しました。
同宣言は、犯罪被害者や遺族への支援の拡充を求める一方、人権を尊重する民主主義社会における刑罰制度は、犯罪への応報にとどまらず、社会復帰の達成に資するものでなければならないとの観点から、死刑制度を含む刑罰制度全体の抜本的見直しを求めるものです。
 今回の死刑執行は、このような死刑制度を巡る国内外の情勢の変化及び人権擁護大会における上記の宣言を無視するものであって、極めて遺憾です。
 当会は、政府に対し、直ちに死刑の執行を停止し、2020年までに死刑制度を廃止することを求め、今回の死刑執行に対し強く抗議します。

 2018年(平成30年)12月 札幌弁護士会 会長 八木宏樹

〔114〕ドキュメンタリー映画「袴田巖 夢の間の世の中」、淡々とした日常の映像の中に冤罪のむごさを感じました。

2016年10月03日 | 映画鑑賞
  元死刑囚・袴田巌さんの冤罪事件の再審が決定し即日釈放されました。2014年3月27日のことでした。その翌月から2015年8月まで200時間分の映像が残されました。そして出来上がったのが、ドキュメンタリー映画「袴田巖 夢の間の世の中」です。
  その経過を新聞が伝えています。

●袴田巌さん 釈放の翌月からカメラで追跡 ドキュ映画完成(毎日新聞2016年1月12日)
 静岡地裁で2014年3月、死刑判決の再審開始決定で約半世紀ぶりに釈放された袴田巌元被告(79)と姉秀子さん(82)の日常を追ったドキュメンタリー映画「袴田巌 夢の間の世の中」が完成し、2月から一般公開される。メガホンをとったのは「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」などの作品で知られる金聖雄監督(52)。「2人の前を向く強さを通して、時間の重さを感じ事件そのものの残酷さを考えてほしい」と話している。
 再審開始決定に検察側が即時抗告し、今も東京高裁で審理が続く中、きょうだいは浜松市で静かに暮らす。金監督は釈放された翌月から2人にカメラを向けた。「全てを否定され、死刑におびえ続けた重さは想像を絶する。どう伝えるべきか」。悩みながら昨年8月まで撮影を続け、記録した映像は200時間分を超えた。

  この映画会が先日清瀬市で開かれました。

■ドキュメンタリー映画「袴田巖 夢の間の世の中」清瀬上映会
・お話
   袴田秀子(お姉さん)
   平岡秀夫弁護士(元法務大臣)
   金 聖雄 監督
・主 催 無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会
・共 催 カトリック東京教区 正義と平和委員会
・2016年9月25日 (日)
・会 場 清瀬市生涯学習センター「アミューホール」

  上映時間119分はお姉さんの家に帰った巌さんの淡々とした日常の映像です。一日数時間家の中を歩き回り、私には意味不明のことをつぶやき続け、無表情にみえた巌さんが、秀子さんや、親戚や支援者との会話やつながりの中で徐々に変化していきます。家の外にも出られるようになっていきます。
 彼の行動に戸惑い目が離せなくなりながら、時折挿入される律儀に書き綴られた日記の文章とのギャップを考えさせさせられます。48年間死を意識しながら過ごした留置場生活は、他者や外界を遮断して自分だけの世界を創りあげるしかなかったのです。
  明るく振る舞う秀子さんの存在が巌さんの「社会復帰」に貢献していることはいうまでもありません。当日の秀子さんの話に、前日巌さんが地域を数時間歩き回り、警察から連絡があって、家まで送ってもらったということでした。
 今後、国家や地域、私たちは彼に何ができるのでしょうか。 重い問いを突きつけられたドキュメンタリー映画でした。

  ところで当日、優しさに溢れた金聖雄監督の話を聞くことができました。「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」の監督として有名ですが、なんと「空想劇場~若竹ミュージカル物語」も作られていたのですね。若竹ミュージカルは東京学芸大付属養護学校(現在、特別支援学校)の卒業生や父母たち、教師たちが創りあげた壮大な演劇活動です。日本演劇教育連盟の仲間の工藤傑史さんがその中核を担いました。『僕たちのブロードウェイ』(晩成書房)という本も彼の尽力で出版されています。
  最後に金監督のコメントをチラシから紹介させてもらいましょう。

● 監督 金 聖雄(きむ そんうん)
「証拠はねつ造の疑いがある」
「これ以上の拘置は耐え難いほど正義に反する」
 2014年3月27日。冤罪でありながら死刑囚として、48年間という途方もない時間を獄中で過ごした袴田巌さんの再審が決定し、即日釈放された。
 私たちは、その後の生活にカメラを向けた。
「袴田事件は終わった。冤罪もない。死刑制度も廃止した。俺は死刑囚じゃないんだ」
 事件のことを語る巌さんは、未だに“妄想”という自分の世界から抜け出すことができない。しかし、釈放直後の表情がなかった頃に比べると、“平凡な日常”が巌さんの気持ちを解きほぐしているようだ。
 ある目突然始まった将棋三昧の日々。私も、何度となく挑戦したが、なんと73戦全敗。その度に、勝ち誇ったように、ニヤッと笑顔をみせる。また、親戚の赤ちゃんを抱いた好々爺の表情は温かい。ボクシングの話題になれば半世紀前の記憶がよみがえり、試合の論評もする。
 巌さんの“妄想の世界”を、日常という“現実の世界”がゆっくりと包み込んでいく。
 死の恐怖から逃れようと必死で生き抜いてきた巌さんは、今も私たちが想像できない深い闇を抱えている。しかし平凡な日常”のつみ重ねが光となって、その闇を照らしはじめているように思う。
 「巌のあるがままの姿を見て欲しい」と、姉の秀子さんは笑顔で語る。
 この映画で何か明確な答えがでたわけではない。しかしスクリーンに映し山される巌さんの存在が、生きることの尊さを、静かに問いかけているような気がしてならない。


〔98〕家族関係を問う映画「海よりもまだ深く」(是枝裕和作品)は、清瀬愛に溢れていました。

2016年06月29日 | 映画鑑賞
  カンヌ国際映画祭にある視点部門で出品した映画「海よりもまだ深く」が5月21日から公開されました。東京都清瀬市が舞台ということで私も興味を持っていましたが、ようやく昨日鑑賞することができました。映画館に足を運んでも、けして損はしないという映画でした。
  まずは映画の内容について紹介しておきましょう。

●ウイキィペディアより
〔物語〕
 良多は作家として文学賞を受賞した経歴を持つが、その後は鳴かず飛ばずでずっと興信所勤めを続けていた。出版社からは漫画の原作をやらないかと勧められてはいたが、純文学作家のプライドから二の足を踏んでいたのだった。そのくせギャンブルには目がなく、少し稼ぎがあればそこにつぎ込むばかりでいつも金欠状態であり、母親の淑子や姉の千奈津に金をせびる毎日を送っていた。そんな彼に愛想を尽かした妻の響子は離婚して久しく、一人息子の真吾のための養育費を求めるほかは接触を拒んでいた。だが、そんな良多にも父親としての意地があり、真吾と顔を合わせるときには金を都合してでもプレゼントを用意していた。
 台風が日本に接近しているある日、良多は月に一度の息子との接触を持った。響子はもと夫である彼が、彼女と恋人との接触を極秘調査していることに呆れ、冷たい態度を崩さない。それでも天気の崩れかたを危ぶみ、親子三人、淑子のアパートで一夜を過ごすこととなった。父親を心配して調子を合わせる真吾は、眠れずに父と一緒に嵐のなかを外出、公園の滑り台に籠って駄菓子を味わう。戯れに話し込む親子は、将来の夢について言葉を交わす。考え込む良多は、翌日からの自分のことを振り返ってみるのだった。翌日、晴れ渡った空のもと団地を出る親子の姿があった。
〔キャスト〕
良多:阿部寛
響子:真木よう子
千奈津:小林聡美
山辺:リリー・フランキー
  町田:池松壮亮
真吾:吉澤太陽
福住:小澤征悦
仁井田:橋爪功
淑子:樹木希林
原案・脚本・編集・監督、是枝裕和
*主演の阿部寛は映画『歩いても 歩いても』(2008年)、『奇跡』(2011年)、ドラマ『ゴーイング マイ ホーム』、本作と是枝作品には4度目の出演。(主演は3度目)。『歩いても 歩いても』以来の樹木希林と親子役を演じる。

  映画を見ながら嬉しくなったのは、私が住み始めて三十数年経つ清瀬が舞台になっていたということです。映し出される映像はいつも私が見慣れた風景でした。黄色い車体の西武池袋線、清瀬駅北口の踊り場にある立ち食い蕎麦屋(主人公の良多が蕎麦を食べるシーンが出てきます)、駅北口の階段前、数十の彫刻が並べられた清瀬ギャラリーのあるけやき並木、ある和菓子屋、旭が丘団地商店街、蛸型の滑り台(昨年暮れまで野塩団地に存在していた)…。
  そしてなによりも、樹木が演じる母・淑子が住んでいる団地は是枝監督が28歳まで実際に住んでいた清瀬市の旭が丘団地が使われたのです。
  この映画の公開に合わせて、清瀬市郷土博物館で企画展が開催されました。

●清瀬市郷土博物館 企画展「海よりもまだ深く×是枝裕和展」
2016年6月4日(土)~19日(日)
 映画監督 是枝裕和氏は9歳~28歳まで20年近くを清瀬市旭が丘団地に住まわれていました。この団地を撮影の舞台として製作された映画が現在公開されています。この公開に合わせて、映画の世界観や氏の清瀬市への思いなどを紹介する企画展を開催します。

  是枝監督は練馬区の北町に生まれ、清瀬に転居して清瀬五小から清瀬三中に進学したようです。私は結婚するまで練馬に住んでいたり、息子が是枝さんの高校の後輩だったりして、妙に親しみを感じてしまいます。さらに驚くべきことは、団地内ミニコンサートの場面が出てくるのですが、ロケ地に東久留米市の滝山団地(分譲)が使われたということです。私が教師として十数年勤めたところでした。
  映画は夫婦、親子関係、仕事と家庭のあやを丁寧に描くものになっています。そして、シナリオがユーモアを交えて実に無理なくできているだけでなく、どの出演者の演技も自然体です。演技のリアルさは是枝作品に共通のものです。このことは独特な映画作りに関係あるようです。子どもの出演者には台詞は口移しにするというようなことを聞いたことがあります。いわゆる口伝です。今回の真吾の台詞はどうなっていたのでしょうか。
  1つわからなかったことは「海よりもまだ深く」という題名がどこから由来しているかということでした。この謎は映画の終盤に解かれます。良多と淑子の会話のバックに流れていたのがテレサテンの歌「別れの予感」(1987年)でした。

「別れの予感」
              歌:テレサテン
              作曲:三木たかし
              作詞:荒木とよひさ
泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから
どこへも行かないで 息を止めてそばにいて
身体からこの心 取り出してくれるなら
あなたに見せたいの この胸の想いを
教えて 悲しくなる その理由
あなたに触れていても
信じること それだけだから
海よりも まだ深く
空よりも まだ青く
あなたをこれ以上 愛するなんて
わたしには出来ない

もう少し奇麗なら 心配はしないけど
わたしのことだけを 見つめていて欲しいから
悲しさと引き換えに このいのち出来るなら
わたしの人生に あなたしかいらない
教えて 生きることの すべてを
あなたの言うがままに
ついてくこと それだけだから
海よりも まだ深く
空よりも まだ青く
あなたをこれ以上 愛するなんて
わたしには出来ない

あなたをこれ以上 愛するなんて
わたしには出来ない

  是枝さんは、BPOにおける放送倫理検証委員会の委員を務めています。こちらでの活躍にも注目したいと思います。

〔83〕「日本と原発 4年後」「太陽がほしい」是非観てもらいたい映画です。

2016年03月31日 | 映画鑑賞
 江古田映画祭というイベントがあることを知りませんでした。会場になるギャラリー古藤は西武池袋線江古田駅から徒歩数分のところです。さらにそこから私の実家は数分という距離にあります。幼少の頃、私が遊び場にしていた武蔵大学の正門前に会場があるのです。そこですべての日本人必見の映画を2本観ました。
 まずは「日本と原発 4年後」の紹介です。この映画は弁護士の河合弘之さんと海渡雄一さんが中心になって作った映画です。なぜ原発は全廃しなければならないかがわかりやすく描かれています。これに反論できる人は誰もいないでしょう。とにかく観てほしい映画です。
 この日のゲストスピーカーは海渡さんでした。原発関連の訴訟を一手に引き受ける市民派の弁護士さんです。高浜原発勝訴の予想をこの日展開してそのとおりになりました。たしか4月6日の川内原発訴訟も勝算があるということで、期待したいと思っています。

●「日本と原発 4年後」
■ 2016/3/7 東京都練馬区(上映2回)
■ 主催:江古田映画祭実行委員会
○ 上映日時:2016年3月7日(月)  13 時~  
○ 会場名:ギャラリー古藤 (練馬区栄町9-16)

●「日本と原発 4年後」 自主上映そのものが脱原発運動です。(公式サイトより)
「日本と原発 私たちは原発で幸せですか?」はおかげさまで大好評をいただき、この一年間で約1,000回(観客動員数約7万人)の自主上映がされました。その改訂版の「日本と原発 4年後」は、ここ一年の大きな出来事(高浜原発差止仮処分、元東電役員の強制起訴など)、被バクの問題、テロと原発の問題、推進派(近藤駿介氏、木元教子氏)の言い分等を入れました。日本の原発の全ての論点を論じ尽くしました。これを見た人は必ず脱原発を確信するようになります。
 したがって、この自主上映そのものが脱原発運動になります。「脱原発運動のために何かしたいのだけれど何をしていいのか分からない」という方がいます。その様な方こそ自主上映運動をお願いします。
 そして自主上映による上映料は次の映画「日本と自然エネルギー 未来からの光と風」の製作費に充てられます。その意味でも「日本と原発 4年後」の自主上映運動は「脱原発そして自然エネルギー」の推進そのものになるのです。皆様の強力なご協力をお願い申し上げます。
                 平成27年12月吉日
                   映画監督・弁護士 河合弘之

 もう1本の映画は「太陽がほしい」です。班忠義監督が20年かけてつくった中国女性の「慰安婦」の映画です。彼女たちは売春婦でも「帝国の慰安婦」でもなく、まぎれもなく性奴隷であったことが、一目瞭然となる映画です。日本人は目を背けないで見続ける義務があります。

●「太陽がほしい」
〇作品紹介(公式サイトより)
太陽がほしい
「慰安婦」とよばれた中国女性たちの人生の記録

「(湖北省の「慰安所」では)生理のときも休めませんでした。妊娠したときは「紅花」という薬を飲まされました。そのあとお腹からどろどろの血が流れます。すると、体から力が抜けて、顔が黄色く痩せます。そんなことがあって、私は子どもを生めない体になってしまいました」 袁 竹林
「(山西省の日本軍の駐屯地の)真っ暗なヤオトンに監禁され、用をたすときだけ外に出られました。食べていないので何も出ないが、外に出たいのでトイレに行って背をのばす。
太陽の光がほしかった。」 劉 面換

 班忠義監督は、1992 年より80 余名の、慰安婦とよばれた中国女性たちへの支援活動とともに、ビデオ記録をつづけてきました。
 長い年月おさえてきた苦い水を突然一気に吐きだす苦しみ、その痛みに堪えて彼女たちは証言してくれました。
 しかし、20 年の間に生存者は、10 名ほどとなってしまいました。
 湖北省では「慰安所」が、山西省には「強姦所」が存在しました。
 このふたつの地域を中心に、旧軍人の証言もまじえ、当時の事実を明らかにすると同時に、その後も心身の後遺症や周囲の無理解のなかで苦しんできた彼女たちの人生を映しだします。
 その証言は、「私がいたことを忘れないでほしい」という痛切な願いです。
 その願いは、現在も世界で発生しつづけている性暴力への警鐘となり、人間の尊厳、人権、とりわけ女性の人権、人間の罪とは何かを問いかけます。
 当事者の証言は、日本と中国の共通認識をつくり、新たな関係を築いていくことにつながると信じています。

 上演後1時間にわたる詩人の石川逸子さんのお話が心にしみました。武力と性暴力が一体となったのが戦争なのだということを膨大な資料から余すところなく語り尽くしてくれました。
  読んでくださった自作の詩2編のうちの1つを紹介しましょう。

  少女         石川逸子

戸外の椅子に すわりつづける少女
秋の日も 真冬にも
さらさらと雪は降り
少女の黒髪に 膝のうえに 降りつもる

あなたは 故郷からはるかに遠い南の地で
爆撃に倒れたのか 飢え死んだのか
あるいは だまされて連行された 中国の「慰安所」で
日本軍兵士に逆らい 斬られたのか
うつされた性病で病み死んでいったのか

    ―『慰安婦』ではない 性奴隷でしたー

辛くも生き残り 解放後も辛苦の生を送った
かつての少女たち 今 年老いたハルモニたちは
かつての自分のうら若い面影に
手をさしのべ 少女の髪の毛に降る雪をそっと払いのける

韓国・ソウル・日本大使館前
ものいわず すわりつづける 少女
二十万にもおよぶという 被害者たちの
悲憤を やわらかな胸に抱いて
すわりつづける 少女

なお 地球のあちこちで
起きつづける あまたの 少女たちへの凌辱に向かって
しっかと目を見開き
雪に濡れながら すわりつづける
少女の像

 家に帰ってから、以前にいただいた『石川逸子詩集 定本 千鳥ヶ淵へ行きましたか』(影書房)を読み直しています。

〔60〕評判の映画「みんなの学校」は見応え十分でしたよ。

2015年12月06日 | 映画鑑賞
 12月4日(金)は大忙しでした。昼過ぎに映画「みんなの学校」を見て、夜は戦争法廃棄を目差した小林節さんの講演会があったのです。清瀬の地に500人以上が参集し、ホールに入りきれなくて、ロビーで聞いている人も出たこの集会については今回は触れないでおきます。
 映画「みんなの学校」の視聴は広報きよせの記事を連れ合いが見つけたところから始まります。在任中の白梅学園大学で関連の本(後掲)のチラシも見つけました。そうしたことから久しぶりに教育関係の映画を見てみたいと思ったのでした。

 会場ののアミュー7階(清瀬駅北口徒歩1分)に着くと、受付をMさんがしていました。かつて清瀬・教育って何だろう会で一緒に活動した方でした。今回の映画会の主催は清瀬・東久留米社会福祉会です。
 鑑賞時間は1時間40分ほどだったでしょうか、なかなか見応えのあるドキュメントでした。内容を要約することは難しいので、映画「みんなの学校」サイトからそのねらいや内容を引用してみましょう。

〔イントロダクション〕
*すべての子供に居場所がある学校を作りたい。
 大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました。
 すぐに教室を飛び出してしまう子も、つい友達に暴力をふるってしまう子も、みんなで見守ります。あるとき、「あの子が行くなら大空には行きたくない」と噂される子が入学しました。「じゃあ、そんな子はどこへ行くの? そんな子が安心して来られるのが地域の学校のはず」と木村泰子校長。やがて彼は、この学び舎で居場所をみつけ、春には卒業式を迎えます。いまでは、他の学校へ通えなくなった子が次々と大空小学校に転校してくるようになりました。
*学校が変われば、地域が変わる。そして、社会が変わっていく。
 このとりくみは、支援が必要な児童のためだけのものではありません。経験の浅い先生をベテランの先生たちが見守る。子供たちのどんな状態も、それぞれの個性だと捉える。そのことが、周りの子供たちはもちろん、地域にとっても「自分とは違う隣人」が抱える問題を一人ひとり思いやる力を培っています。
 映画は、日々生まれかわるように育っていく子供たちの奇跡の瞬間、ともに歩む教職員や保護者たちの苦悩、戸惑い、よろこび・・・。そのすべてを絶妙な近さから、ありのままに映していきます。
 そもそも学びとは何でしょう? そして、あるべき公教育の姿とは? 大空小学校には、そのヒントが溢れています。みなさんも、映画館で「学校参観」してみませんか?

 映画を見ていた人は2,30名というところで、もったいないなと思いました。この映画はもっと多くの人に見てほしいものです。
 一番評価できるところは、教育現場に長期にわたってカメラを入れさせたことです。教師が苦悩する場面や、必ずしも上手くいっていない子ども同士のやりとりなどがリアルに映し出されます。生の現場を覆い隠すことなくカメラを入れさせたことに最大の拍手を送りたいと思います。
 しかも、橋下徹元市長の大阪維新の会が力を振るうあの大阪の公立小学校が舞台です。上意下達が貫徹されているというイメージが強いところで、よくこれだけの実践が展開されたなという印象です。

 映画が始まると、校長の木村泰子さんが学校中を走り回ります。全校児童200人ほどの学校に、さまざまな課題を抱えた特別支援教育対象の子どもが30人ほど在籍しています。決してたやすくない教育状況の中で、ひとりの不登校児童も出さない取り組みを進めているのです。職員全員で全員の子どもを見る姿勢を貫きます。
 教師全員はすぐに子どものところへとんでいける服装をしています。基本的には名札などはしていません。
 とりわけ感心したところは、次のような点でしょうか。
・校長や教師が子どもを固有名詞で呼べる。
・子どもの有り様をしっかり見ながらの指導を大切にしている。

 私の実践体験に照らし合わせてみると、課題がないわけではありません。
・あまりに校長が目立つ学校になっていないでしょうか。私は「金八先生」を評価していますが、校長が金八先生になっています。教師こそが金八先生であってほしいのです。
・最後の暴力を振るった子どもの指導は感心しません。校長室の指導が中心で当事者同士の話し合いが後手に回っています。
・教師教育として大きな声での指導を否定しながら、校長自らが子どもを引っぱっていく指導のありかたはどういうものでしょうか。

 多少の課題を指摘しながらも、私はこの映画を見ることを勧めます。教育についてみんなで話し合うには絶好の映画だと言えるからです。
 最後に、今年で退職したこの校長が書いた本を紹介します。

●「みんなの学校」が教えてくれたこと
学び合いと育ち合いを見届けた3290日
著/木村泰子  著/島沢優子 

〈 書籍の内容 〉
「みんなの学校」が教えてくれたこと
 2015年2月から全国で公開され、大ヒットしたドキュメンタリー映画『みんなの学校』。この映画の舞台となった大阪市の公立小、大空小学校では、「自分がされていやなことは人にしない」というたった一つの校則と、「すべての子どもの学習権を保障する」という教育理念のもと、障害のある子もない子もすべての子どもが、ともに同じ教室で学んでいます。全校児童の1割以上が支援を必要とする子であるにも関わらず、不登校児はゼロ。他の小学校で、厄介者扱いされた子どもも、この学校の学びのなかで、自分の居場所を見つけ、いきいきと成長します。また、まわりの子どもたちも、そのような子どもたちとのかかわりを通して、大きな成長を遂げていきます。
 本書は、この大空小学校の初代校長として「奇跡の学校」をつくり上げてきた、木村泰子氏の初の著書。大空小の子どもたちと教職員、保護者、地域の人々が学び合い、成長していく感動の軌跡をたどりながら、今の時代に求められる教育のあり方に鋭く迫ります。

【目次】
はじめに 『みんなの学校』とは
プロローグ 2015春 最後の修了式
第1章 「みんなの学校」の子どもたち
第2章 学び合い、育ち合う
第3章 私の原点
第4章 教師は学ぶ専門家
第5章 「みんなの学校」をつなぐ
エピローグ みんなが教えてくれたこと

〔36〕映画「ジョン・ラーベ」は、日本人が目を背けてはいけない南京大虐殺・加害の記憶です。

2015年07月22日 | 映画鑑賞
 2015.7.20(月)、猛暑の続くなか、東京・日本教育会館一ツ橋ホールに足を運びました。映画「ジョン・ラーベ-南京のシンドラー」を見るためです。3階のホールは満席でした。ここは日本演劇教育連盟主催の全国演劇教育研究集会が長く行われたところで、800席のはずです。ここだけでは収容しきれないというので、8階にも鑑賞席を設けていました。私も数人の仲間ともにこれを鑑賞しました。
 この映画はドイツ・フランス・中国の合作です。2009年につくられてドイツ映画祭などで高い評価を得たものですが、日本ではようやく昨年あたりから自主上映が始まったようです。日本にとっては加害の歴史が描かれているものですから、上演に対してはさまざまな抵抗があったもののようです。
 
 まずは、映画の概要を知ってもらいたいと思います。

〔公式ウェブサイト「ストーリー」より〕
 日中戦争が始まって間もない1937年12月。日本軍は中華民国(蒋介石)の首都南京へ侵攻し陥落させた。首都機能はすでに重慶へ移転しており、数十万の市民と中国兵士、そして十数人の欧米人が南京に残留した。残った欧米人たちは、迫りくる日本軍から市民を保護する為、南京安全区国際委員会を設立、その委員長に選ばれたのがシーメンス南京支社長のジョン・ラーベだった。本作品は、ラーベと国際委員会メンバーの人道的活動を史実を基に描く。
 ドイツ映画賞で主演男優賞・作品賞・美術賞・衣装賞を受賞、バイエルン映画賞では最優秀男優賞・最優秀作品賞を受賞した傑作。日本では上映不可能とまで言われた本作品がついに日本初公開!

 見終わっての感想は、確かに日本人として決して見やすい映画ではないということです。でも虐殺の実際はこの程度ではなかったでしょう。
 あるサイトには次のような加害シーンが描かれていたことを指摘しています。DVDをしっかり見て、書き込んだのでしょうか。

●カナザワ映画祭主宰者のメモ帳
『ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー~』の10大ショック!!シーン
南京の街を日本軍機が無差別爆撃!! 日本軍が中国人捕虜を虐殺!! 避難民が乗った大型船を日本軍機が攻撃! 病院に日本兵が乱入し、医者と患者を射殺! 大記録!支那人100人斬り! 日本兵が一般家庭に乱入しレイプ! 日本軍が死体を使って道路工事! 日本兵が女子校の寮に乱入!強制身体検査! 安全区も安全じゃない! 当時の記録映像や写真で本物の死体がたくさん出てくる!

 この映画はジョン・ラーベの日記をもとに映画監督が脚本を書いたということです。さまざまな事実を映画に盛り込んだのでしょう。
 こうした映画に日本人はきちんと向きあわなければならないと思います。加害の歴史もドイツのようにしっかり教える中で、これからの日本を担う子どもたちを育てる必要があると思うのです。