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美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ミレー展 宮城県美術館 11/1~12/14

2014-11-06 12:19:40 | レビュー/感想
ミレーの作品は、ロマン主義でもない、写実主義でもない、その間にあって美術史のメインストリームから独立した性格を持っている。その絵の前に立つと、誰もがリアリティとは何かと言うことを問わざる得ない。それは写実主義的なリアリティではない。例えば、写実主義の代表クールベが労働や自然など身近な現実を描いたとしても、ロマン主義絵画のカウンターパートとしてのイデオロギー化された現実でしかない。弁証法的な発展の歴史を描く美術史の中では扱い安い存在だ。しかし、そういうものとは全く別のリアリティがここにはある。それはこのリアリティがどこから来るのか分からない限り、バルビゾン派という地名に結びつけた便宜的なカテゴリーで括るしかない絵だ。いずれにしろ、岩波のマーク「種まく人」のイメージに重ねて、神聖な労働といった白樺派的な社会倫理に絡めとられたステレオタイプのミレー像からはそろそろ脱却したい。

さて,ミレーの絵は最初からぐんぐんと心に入って来る。頭でっかちは別として、これほど分かりやすい絵はないかもしれない。ここにはミレーの最初の妻、3年間の結婚生活で子供も残さず儚くこの世を去っていたポリーヌ・オノが確かにいる。帰路につく羊の群れの後ろには今まさに暮れ行く秋の空がある。いずれも終わった現実だが、確かにまさに目の前で、今生きて、しかも動き出すかのようで、胸に迫って来るのはなぜだろう。日常の一点景を切り取るという手法には、当時浸透し始めた写真の影響があるだろうが、瞬間の表面を切り取るしか能のない写真ではこうはいかない。ここには並外れて繊細な伎倆でしか描けない、魂のレンジまで踏み込んだリアリティがある。そこから受ける印象は、根源的な「悲哀」といったらいいようなものだ。オスカー・ワイルドの「獄中記」にある「悲哀の中にこそ美がある」というテーゼが、久しぶりに呼び起こされた。

農民の姿を描いたとしても、ブリューゲルの絵が持っているような朗らかな聖なる空間はここにはもはやない。だから、誰もがいずれ労働して死んで行く、楽園追放以来、反復される人生の現実、そこに何の意味があるのだろうか、と絵の前で誰もが、反芻させられるようだ。われわれの現実をそのまま突きつけて来る絵のリアリティー。ゴッホのように、白熱したエネルギーでこの生活のボーダーを越境して行くベクトルはどこにもない。どちらかというと≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫と描いたゴーギャンに、こんなエゴティストではないにしろ、資質的に近いかもしれない。60才という長くはない人生を、このあまりに現実的な、どこにも飛び立てない世界に耐えて、 一毫も誇張のない、これだけの絵を書き続けたミレーは、立派な体躯と厳つい顔からも推定しうることだが強靭な精神と生活力の持ち主だったと思う。しかし、そんなパーソナリティだけではない。「落ち穂拾い」の聖書的主題である「ルツ記」に描かれたように、困難に満ちた人生であったとしても、時を越えた希望に励まされている、確かな信仰に根ざしていたのだろうか。

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相馬駒焼に曙光、元禄時代の窯再生へ

2014-09-18 16:36:44 | レビュー/感想
元禄以来受け継がれ、近年まで使われて来た「現役」の窯としてはおそらく日本最古の相馬駒焼の窯に、行政の支援を受けて、窯や鞘堂を修復する方向性が示され、微かですが光が見えてきました。9月初めに県文化財審議委員の代表者や文化財課の職員が再び訪れ(6月に一度来訪)、窯の文化財としての重要性を再認識し、文化財保護の実行責務が行政にありながら、震災後これまで窯を放置していた現状を不適切なこととして認め、来年度策定の県予算案への計上を図る一方、「日本財団」の援助申請を図る等いろいろ手だてを使って必要財源を確保し、雨で傷んだ鞘堂も含めた完全修復(想定1,000万近く掛かる?)をめざす方向で具体的に努力する旨が述べられました。プライベートには対処が難しい、たくさんの東北の陶芸に関する貴重な歴史的な資料も市史編纂室に収められるなど、整理と保存の方向性も見えて来ました。また、代々受け継がれてきた粘土山についても、放射能の汚染状態等調査をして、東京電力に場合結果によっては補償をはじめ適切な対応を求める予定でいるようです。
以上は相馬駒焼故14代田の奥様、田代恵美子さんから先日伺ったお話です。行政による修復の道筋が示されたため、先に私達が考えていた今の窯を部分修復して窯炊きを行い、窯への一般社会の関心を喚起する計画は、近々には実行できなくなりました。しかし、震災直後訪れて、ブログにも訴えてきた窯修復が、行政の手によって、数年先のことであれ、なんとか具体的に動き出すことを嬉しく思います。江戸以来の相馬駒焼の生業としての継続は、難しい課題として残されていますが……。今後行政の計画が具体化されていく時点で、私達のプロジェクトとしてはどう関わって行くのかを含め、注目し考えていければと思っております。

写真ー今年は夏に何度か激しい雨が降った。鞘堂の雨漏りが心配だ。修復を早めることはできないのだろうか?

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ゴッホの『ひまわり』展 7月15日~8月31日 宮城県美術館

2014-09-03 13:14:31 | レビュー/感想
ゴッホのひまわりは確かに筆で描かれた絵であるのだが、通常の絵のカテゴリーには入らない、聖なるものか、デーモンの仕業か分からないが、名付けようのない何か別のものを見ているような恐ろしさがあった。この絵に比べれば、同会場に展示されていた私の好きな長谷川りん次郎の絵でさえ、まだ花の美しさに媚びている。まして梅原龍三郎の薔薇の絵なぞ、厚化粧を施したホステス嬢のように見えてきてしまう。

しばらく見てると様々な態様で描かれたひまわりの間には空間があるようで、3D絵画のように浮きあがって見える。一つ一つの花弁のかたちといい、色彩といい、きわめて繊細にバランスされた世界が見えて来る。脳細胞のすべてを覚醒させないとできないような絵で、冷静に筆致をコントロールしながら、ほんとうの花の姿、その「卑俗な事物から引き出された神話的な現実」(アントナン・アルトー)を描いている。この事物との極限的なスパークの中でむきだしとなった魂がここには描かれているようだ。そう思うのは「耳切り事件」の前後に書かれた絵、というバイアスがあるからだろうか。同時期に描かれた他の2枚のひまわりの絵に比べると押さえた色彩で、一般におなじみの「激情の画家」とはまるで違う画家の本質をかえって浮き彫りにしている。

収監された精神病院からのゴッホの手紙を読むと、画家はこのひまわりの絵も含め3幅対に仕上げて船室の奥に飾ればよいと、スケッチ付きで弟テオに提案している。これまで一枚も兄の絵を売ることができず、金銭的負担を掛け続けている弟のために、画家は売り方の算段までしている。魂に関わる仕事をしているといっても、人間はこの売り買いから無罪放免とはいかない。このことを正直に残しているゴッホをむしろ好ましく思う。それにしても今この三幅対が揃えば10億は下るまい。それを考えると不条理な話だが、この思い通りにならない現実と交換に永遠の世界に突き抜けた絵が生まれたとも言える。

啓示に近いものを受けて垂直に構成されたゴッホの絵と違い、高度な完成度を持った絵でも幻のごとく幽冥の境定かならざるところ、つまり永遠に中心を持たないところに日本の絵の特色がある。川端龍子の屏風絵、「和暖」は葉の一枚一枚にわたってゆるみのない絵で、しかも「ひまわり」の前座のように集められた日本の作品の中では、美しいだけでない不思議な深度があっていちばん心惹かれたが、この重畳たる枝葉を押し抜けて、いつの間にやら穏やかに冥界へと入ってしまいそうな感覚を呼び起こすこの絵の世界は、プラトニズムの伝統の中にあるゴッホの世界とはずいぶんと違うものだと思った。

三十九回 縄文の炎 藤沢野焼祭 8月9日~10日 火炎の中で 

2014-08-13 19:07:26 | レビュー/感想
四国に台風が迫りつつある中、東北には長く停滞前線が伸びて、雨が断続的に降り始めていた。最悪の気象状況での野焼祭りだった。出品者の中にはもし大雨になったら手塩にかけた作品が溶けてしまうのを恐れて、窯入れをためらう者もいた。しかし、雨脚が衰えた時を見計らって、例年より1時間早い午後5時、窯のまわり、矩形の土手に置かれた藁に一斉に火がつけられた。雨で湿った藁束は最初こそ白い煙をあげていたが、またたくまに燃え落ちて灰になって行く。その藁灰を窯の端に落として、さらに薪を次々と土手に積み上げて火力を強める。今年は昨年と違って窯炊きの助っ人が格段に多い。仙台で陶芸教室を主宰しているO氏も若い頼りになる助っ人を連れて来てくれた。そのせいか、火の回りは、いつもより早い。降ったり止んだりの不安定な天候にともなう突風の力も借りて、みるみる窯の回りを赤い炎がなめて、さらに窯の上に積まれた油分をたっぷり含んだ皮付きの薪にもバリバリと音をたてて火が回り始めた。7時半を過ぎた頃には、分かれて燃えていた炎が一つとなって渦になり始めた。こうなると、窯には容易に近づけない。赤い炎を避けても見えない熱風が膚を焼く。いつもなら11時頃になってもまだ残っている薪の山が、9時頃には残り少なくなっていた。雨水を十分に吸い込んだ薪を投げ入れても難なく炎は呑み込んでしまう。もう炉の温度は800度は超えたろう。
焚くモノがなくなって、9時半には引き上げ、近くの施設で床についた。ところが疲れきってるはずなのにいつまでも眠りに落ちた感じが持てない。意識がはっきりしたまま時が経ち、明け方を迎えてしまった。隣でいびきをかいて寝ていたはずの者に聞いたが同じ状態だったという。数時間の野焼き体験が普段閉じている意識の領域を全開にしてしまったようだ。88才の常連参加者が「火は面白いなあ」とぽつり呟いたのが頭に残るが、ときに幾多の生涯を引きずり回すデモニッシュな芸術の愉楽も、自然や無意識という名の、ある意味で暴虐な未知の領域に接して、無限に開きあらわになっていく何ものかなのだろう。そこでは作品なぞわずかに焼け残った骨のかけらに過ぎない。

手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガの力 宮城県美術館

2014-07-05 15:00:24 | レビュー/感想
当然コマ割りあってのマンガである。この展覧会でも一コマを拡大して見せるのではなく、コマ割りが詰まったページを展示している。しかし、すばやく絵とストーリーを平行して追うという若者が難なく出来ることが、もう久しくマンガを見ていないゆえに出来なくなってる自分に愕然とさせられた。ゆえに展示会の促しに反して、マンガを「読み込む」ことは諦めて、いささか早足でざあっと絵面を追って行くだけとなった。そういった見方だったので踏み込んだことはあまり言えないが、手塚治虫と石ノ森章太郎をライバル的に括ったのは何故であろうか。二人が戦後マンガに影響を与え,人気を二分した二大巨人である故か。それとも、単純に宮城が石ノ森章太郎のふるさとであり、集客効果を狙っての「よいしょ」なのか。どうせVSで括るのなら、時系列に並べるだけでない、興行師ではなく研究者が集まっている美術館らしい分析の糸口を示してほしかった。

手塚治虫の絵面で最初に引かれるのは、無機物、有機物を問わず見て取れる、セクシーと言ってもいいような生命的な形態である。これは小さい時に昆虫を観察するのが大好きで、医学生であったということとも関係していると思う。端的に言えば自然がベースにあるのだろう。今ギャラリーには期せずして、この展示会のポスターが貼られた隣に、瀧口修三ともつながりがある宮城出身のシュールレアリズム作家、故宮城輝夫氏の初期作品(写真)が並列して置かれているが、その丸っこいチャーミングな形態の類似性をいつも不思議に感じていた。この二人にはもちろん何のつながりもないが、おそらく考えられるのは、ベースに自然があって、その身体的な受け止め方が類似しているためだろう。これは二人の資質の類似性を超えて、仏像から始まって(いや縄文土器からかもしれない)、鳥獣戯画、浮世絵を経て、もっと普遍的な、現代にも引き継がれている日本人の形態感覚のDNAにつながるものかもしれない、などと妄想は広がって行く。当然この生命的な形態は動くことを志向する。手塚が初期の段階から映画的な手法を用いてるのは、模倣と言うに留まらない、その生命的な表現の必然的な流れであったのでないか。しかし,自然がそうであるようにときに手塚の形態はグロテスクな様相も見せる。手塚のマンガには、ページを開けるのを躊躇させるような気味の悪い絵面が時々ある。ときに熟練した医学者のような暗い冷徹な目と手技を見せる手塚は、子供向けに安心できる、単純な愛と平和の作家ではない。

石ノ森章太郎に至ると、この形態の生命的な動きは止まる。手塚よりはるかに頭の人である石ノ森の形態は先駆者手塚の形態を情報的に模倣整理したパターンとなって、このパターンの画面の中でのざん新なレイアウトが見せ場となる。戦後手塚のうちに生き生きと受け止められた欧米文化の影響は息を潜めて、浮世絵という日本らしい伝統に先祖帰りした結果、キャラクター(類型)を中心に置いた表現となって、マンガが新しい日本の浮世絵として欧米でも評価を受ける下地が出来て行った、ということになろうか。
戦後漫画家達の梁山泊「トキワ荘」の3/4 スケールの模型は、フェークとは言え、真に迫る感じで見応えがあった。

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魂が入ってるって?

2014-07-03 15:38:40 | レビュー/感想
自分にとって、作品の良し悪しを見分ける上で中心に置いている基準は思いのほか単純かも知れない。技術が多少伴わなくても「魂」が入ってるかどうか、ということだから。ルオーは晩年、彼が良しとしない作品を大量に暖炉の火にくべたが、灰になったのは「魂」が入っていない作品ではなかったろうか、とふと思う。しかし、「魂」とは目に見えないものである。信仰と同じように、本物と偽物を見分ける判断基準(信仰で言えば信条)をあげて、すべてクリアしました、といっても、それで「魂」が入った作品になるとは限らない。柳宗悦が民藝の美を規定した本を何冊か読んだが、彼も同じジレンマに落ちいってるようだ。これが自分が選んだ(つまり魂が入った)作品についての素直なエモーションを開陳するだけならよいが、その理由を項目だてて挙げ立てることになった。これには彼が当時抱いた近代化に対する深刻な危機感と「民藝運動」の唱道者としてのバイアスがあるのだろうが、新たな「律法」となり、枷となり、後身は中世の職人のように無心であることを強いられることとなる。魂の入ってない技巧偏重の風潮に対して「下手」の美を唱えるのは良い。

しかし、実際にはリンゴを食べる以前のアダムにはもどれないように、もはや誰も古代や中世の職人にはすんなりと戻れない。われわれは意識的に進み、いつしか意識を超えなければならないという困難な課題を背負わされている。強烈な自意識と本能だけで這い上がって来た魯山人が、そんな柳に、恵まれた出自の大正教養人特有の理想主義の偽善的な匂いをかぎとって、激しく噛み付いた理由もむしろよく分かる、気がする。自由とはやっかいなものだ。近代人である創作者は個であることを引き受けて、存在をかけて、芸術の魂を追い求めて行かなければならない必然を持っている。願わくはその狭い道が、狷介、固陋な閉じこもりの道ではなく魂の自由と喜びの根拠としての神と共同性を新たに見いだす営為とならんことを。

一方、こんな面倒な「魂」なんぞないという立場からすれば、そんなの単に個人の好みじゃないか、ということにもなろう。現実、その結果、マーケッティングの父とも呼ばれるF.コトラーばりに、これまでの美術の歴史を総覧して、新しいオリジナルのカテゴリーづくりに意識的にいそしむ、美大出のなかなか利発な「アーティスト」も出て来る始末だ。それで現実にそんなすき間狙いが美術市場で大当たりをとる例もあるわけだから、勝てば官軍。今の時代、作品の魂の有無なぞ世迷いごとに過ぎないのだろう。明治以降は西洋のイミテーションのそのまたイミテーションにしかならないが、それ以前の世界文化の蒸留装置のような日本はすき間狙いの材料には事欠かない。そうした目ざといゲーマーのようなアーティストが江戸をほっておかないのもよく分かる。しかし、まだ市場経済では価値変動という調整機能があるが、江戸以来の村社会が下敷きになっている特殊社会主義的な日本では、そんな浅はかな下心が肩書きや団体となって価値を恒久的に固定化してしまうことになるなら、もっと干涸びたひどいことになりはしないか。

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「いいかげん」は難しい

2014-05-12 16:12:42 | レビュー/感想
久しぶりに庭の掃除をした。狭い庭だが6種類の椿が植えられていて、この季節になると一斉に花を咲かせ、またたく間に散ってしまう。その落ちた花弁を掃く作業に没頭してる時に「いいかげん」が大事だなと思った。一度気持ちにエンジンがかかると切りがなくなる。「いいかげんにしろよ」と思いつつも、完璧に掃き清めないと済まなくなって来るのだ。落ち葉掃きと比べるのはおこがましいが、陶芸作家も同じようなことがないのだろうか。確かにやればやるほど精密度は上がるであろう。より精緻なものができるであろう。しかし、味わいというものは必ずしも努力の量とかけた時間に正比例する訳ではない。職人として「いいかげん」な仕事をしてはいけないが、「いいかげん」にしなくちゃならないのだ。そこが難しい。千利休が武野紹鴎の弟子であったときの話を思い出した。利休は、庭の掃除を命ぜられ、落ち葉一つないほど掃き清めたが、最後に枯れ葉数枚をまいて、掃除を終えたという。利休の美意識(「侘び」)を伝える有名な話だが、むしろ利休が十分に近代人であったことを伝える話にも思える。大変な審美家である利休は、まさに「いいかげん」を意識的に創作したのだ。この「いいかげん」が無心にできるは、天才(天然?)をおいて他にない。
写真は、5月、陶芸家鈴木照雄邸にて。

2014とうほく陶芸家展inせんだい ご挨拶

2014-05-09 21:19:40 | レビュー/感想
東北の風土から生まれた、個性あふれる用の美。

東日本大震災から3年の時が過ぎ、仙台の街を特徴づけていた戦後の古いビルも次々取り壊され、真四角でガラス張りの同じような無機質なビルがやたら増えています。100年は優に持つ最新の耐震性能が保証されていても、これらのビルには経年変化の良さはインプットされていません。経済力が続く限り、住む人の思いを置き去りにしたまま、他の消費材と同じく新しいまま中古品になり建て変えられ続けていくのでしょうか。
そう言う時代にあっても、東北の陶芸の世界には、時とともに生き物のように私たちの心の襞に溶け込んで、生活に潤いを与え続けてくれる物がまだ生きています。無名の陶工によって、それらが天然の美のように存在していた時代は、確かに「民藝」という意識が生まれた時点で終わったのかも知れません。画一的で趣きのない工業製品化に抗するためにも作家性はもはや否定できません。むしろその意味での「陶芸家」展です。伝統窯であれ、個人窯であれ、そこには、上滑りに流行の商品のコピーとはならない、東北の風土の中で生まれ育まれてきた、個性的な魂にあふれた多様な「用の美」の姿があります。 「用の美」であり続けることで、柳宗悦が言うように、現代にあっても工藝は社会に健康な働きを持ち続けます。ここで展示された器が皆様の暮らしの中に入り、様々なシーンで使われる中、作家の思いに皆様の思いが重なりあって、さらに新しい魅力を滲ませてゆくことを願っております。

O Mio Babbino Caro

2014-03-17 13:19:27 | レビュー/感想
昨年の暮れ、オランダのテレビ局が開催した世界的なタレント発掘番組で9才の女の子アミーラ・ウィリファーゲンAmira Willighagenがオペラを歌い、優勝した。たまたまその過程をインターネットの動画サイト、ユーテューブで見て、9才とはとても思えない、いや、ピュアな分だけプロをしのぐ歌唱力に驚いた。
後で彼女のインタビュー番組を見て納得させられるところがあった。彼女は、特別に誰から教わったというわけではなく、大好きなプッチーニの曲「私のお父さんO Mio Babbino Caro」を繰り返しユーチューブで聞いて歌って、ここまで歌えるようになったというのだ。普通の女の子が通常はまってしまうおママゴトや人形遊びと同じく、彼女にとってオペラは、日がな一日遊んであきない遊び道具のようなものなのだろう。
自分も思い出すのだが、この大人から見れば夢の中にいるような年代、誰しもがそうした遊びを持っていたと思う。子どもたちは、日々遊びに熱中し、明日はその遊びがもっと楽しくなることを信じて疑わず眠りにつく。しかし、いつのまにか、というか、知恵がつくにつれて、そうした魔法の効き目はなくなり、子供時代はかっての輝きを失う。豪華な馬車はみすぼらしい南瓜に過ぎないと、気づいてしまう日が必ず来るだろう。その時、遊びの記憶はその幸福感とともに永遠に失われてしまう。
「創世記」の有名な楽園追放の話では、人間は「神のごとくなれる」という悪魔のささやきに唆され「善悪の木の実」を食べてしまった。その瞬間、エデンは神と人間が近しく応答し合う至福の「遊び」の場ではなくなってしまう。おママゴトでもそうだろう。おママゴトの相手が「このお皿、木の葉っぱじゃないか」と言ってしまったら、いっぺんにその世界は瓦解してしまうだろう。
パンと葡萄酒をキリストの体と受け止めていただく教会の聖餐式がそうなら、キリスト教から安土桃山の成立期に影響を受けた茶道の作法もそうである。例えば、裏千家の十五代家元千玄室も、その著書「茶の精神」の導入に、幼年期の「おママゴト体験」を置いて、茶の湯の本質を説明する。その世界を保つためにはルールが守られなければならない。問題は、そのルールが「どのような権威によってか」知って、「信仰」や「信頼」を持って守り続けられるかだ。
アミーラの話に戻るが、その信じ難い歌唱力が、彼女の「遊び」の世界に大人も認めざるえないプレザンスを与えてしまった、というわけだ。ファィナルの選考場面で、彼女は名前を呼ばれるやいなや、ひっくり返って、手足をピンと上に伸ばしたまま、しばらく動かなくなった。子どもがよくやる死んだ真似だが、彼女にしてみれば、たくさんの大人が自分の遊びに加わって、共感を示してくれたことへの最大限の驚きと喜びの表現だったのだろう。
久しく前にオランダの文化史家J.ホイジンガが書いて、思想界の流行語となった「ホモ・ルーデンス」という著作を思い出した。永遠の美の世界で、自己実現の意識など少しもなく、子どものように、毎日夢中に喜び遊んであきない者、それを本当の意味での芸術家という。「幼子の如くにならずば、天国に入ることなし」と。

Amira Willighagen - Results Finals Holland's Got Talent https://www.youtube.com/watch?v=rbt2yo4u1cU

ミュシャ展 1/18~3/23  宮城県美術館

2014-03-05 17:20:34 | レビュー/感想
40年前、上京したばかりのとき、当時はアールヌーボーがブームで書店には関連の本が並んでいた。ミュシャは、それで知ったか、「ニューロック」(懐かしい言葉だね)に夢中の友達が部屋にミュシャのポスターを貼っていた記憶もある。アールヌーボーは「青春様式」と呼ばれるように、その流麗なフォルムは、世の鬱勃たる青年達の魂を捉える力を持っている。美術館にふだん来ないような若者の姿が多かったのを見ると、今もその力は変らないようだ。ただ、自分にとってはサブカルチャーのカテゴリーに入れていた画家が、堂々と美術館のメイン展示となって、各地を巡演するとなると、時代の変化を感じざる得ない。なにしろ、漫画が日本文化の代表になったそんな時代なんだから、「そんなことで驚いちゃいけないよ、ジイさん」ということだろう。

さて、ミュシャは、初期の肖像画を見ると、すでにこの段階から技術的に高い水準を持っていたことが分かる。誰もから「旨いねえ」といわれる絵だ。この力倆だから瞬く間に時代の寵児となっていく。世紀末パリのカリスマ女優サラ・ベルナールから主演公演の広告ポスターを依頼されヒットさせたのが、きっかけであったようだ。サラからはブランディングを全面的に委託されることとなる。こうなると爛熟した商都パリではほおっておかれまい。なかなか商売上手でもあったのだろう。自転車屋やビールなどのポスターから石けんやビスケットなどのパッケージまで仕事が舞い込むこととなる。今で言えば、デザイナー、イラストレーター、アートディレクターを兼ね備えた、マルチタレントの超売れっ子クリエーターというわけだ。

昔、初めてパリに行ったとき、ホテルの近くのいかにもベルエポック時代のパリといった雰囲気のカフェに入った。と、そんなに人が込んでいるわけではないのに、柱の後ろの暗い一角を指差してぶっきらぼうにそっちへ行けという。差別だと思い、当然奮然と文句を言ったが、そのときのウェートレスの姿が忘れられない。派手な化粧でフリルの付いたユニフォームを来ていたが、自分には骨太の田舎出のネーチャンに見えた。後で知ったことであるが、花のパリも、ノルマンディ等貧しい農村部から来た人々が裏方となって支えているのだそうだ。これは江戸時代から東京が土地相続権のない田舎の次男坊や三男坊の奉公先という名の、やっかい払いの場となっていた事情と同じなのでないか。反撃をくらってポカンとした彼女の表情を思い出すと、単に一人客が真ん中に座られちゃ困るという理由でそうしたまでのことだったかもしれないし、洗練されたサービスが身に付いてなかっただけかもしれない。自分も変にナーバスになってしまった恥ずかしいお上りさんだったということか。

余計なことを書いたが、パリジェンヌといっても、ほとんどが田舎の人なのだろう。東京が地方出身者の集まりであるように。そして若いときには、パリのお洒落文化の象徴のように思っていたミュシャも、実はチェコというヨーロッパの田舎出身だというのだから面白い。類似した現象は、変な例だがトレンディな脚本家「くどかん」(宮城県旧若柳町出身)や故大瀧詠一(岩手県岩手県旧梁川村出身)などのように今の日本にもある。(カッコつける必要もなくなった今は「東京でベコ飼うべ!」と歌った吉幾三こそ、なかなか鋭く批評的な存在ではないかと思う。)それはなぜか、都会出身者と違い、彼らは根性が違う。成功してやろうという生半可じゃないモチベーションで、粘り強く努力するタイプが多いのだろう。さらに都会的なものがない環境が、逆に都会的なもの(だと思われている)への憧れを強力にした作風が、同じ憧れを共有する地方出身者でおおむね成り立つ都会で成功する要因となっている。

ミュシャは、広告の分野以外にも、変わったところではフリーメソンの入団証書をデザインしたり、実に多様な仕事をしている。しかし、彼は出自を隠し立てはしなかった。オーストリアの植民地政策に抗して、祖国チェコのスラブ民族のために残したたくさんの作品も展示されていた。それはこの展示企画のライトモチーフでもあって、パリの流行のまっただ中にいたミュシャの別の「まじめな」側面をクローズアップする意図と結びついているようだった。しかし、彼の作品は悲しい表情を描いていても少しも悲しさが伝わって来ない。表情がステレオタイプの漫画のようだ。そこに彼の限界がある。

カントは芸術は感性を土台に無目的に構成力を働かせるという意味のことを言ったが、ミュシャの作品はすべて広告はもちろんのことだが、他の絵画的作品も目的が最初にありすべてそこに収斂されるように最初から計算され、そのたぐいまれなテクニークでそれを実現している。だからカント的な意味で芸術に欠かせない形而上的世界への思惟がない。ゆえに不思議さもない。むしろ、興味を惹かれたのは彼の写真だ。それは彼がポスターや絵画に女性を描くうえで下敷きにしたのだろう。さまざまなポーズをさせたヌードのモデルが映っていた。構図やトリミングは今のファッション写真のようだ。

それは今はもっとあからさまになっているが、当時もパリを中心におそらく世界で最初に花開いた消費文化の形而下、無意識に隠されたエロチックな欲望をあらわにしているように見える。そういう意味で、芸術の死を誰よりも早く予見していたマルセル・デュシャンが「大ガラス」(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』)で、欲望の装置、写真を用いた意味も理解される。そう思って見渡した会場には、今のグラビア雑誌の表紙のようで、どれも同じ顔の無数の女性たちの笑顔がくどくどしい装飾に彩られてうっとおしいばかりに取りまいていた。彼が振りまいた欲望の記号は、今や世界大となった消費文化の低層にまんべんなく振りまかれている。

ミュシャが活躍したおよそ10年ほど前にパリにいたゴッホは、ミュシャの陰画のように、loserとしてパリをあとにする。しかし、彼はアルルの自然の中でこそ、真の芸術のwinnerとなった。会場出口、もうお腹一杯という感じで、ゴッホ展でそうしたようにミュシャの画集を買う気には正直なれなかった。

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馬渡裕子の盆栽クラシックカー

2013-12-18 14:37:15 | レビュー/感想
馬渡裕子の頭の中で、亡き父君の大事にしていた盆栽と国産車のミニカーコレクションが、震災を契機に(あのとき庭にあった父君の盆栽は倒れ、海岸沿いのあまたの松林や車は浪に呑まれた)化学反応を起こして、江戸と現代が地続きになったようなハイブリッドな新作が生まれた。これまではタイトルと絵が連動して腑に落ちる、という方向づけがなされた文学的な作品が多かった。もちろん、絵画としての独立的な力は持っていたのだが。ところがこのシリーズでは、タイトルはそっけなくクラシックカーの名称になっており、見る人は自ずと絵のみに集中することになる。
では、なぜ盆栽は、国産車と親和性を持っているのか。彼女に聞いたところ、国産車でないと盆栽は生えないのだそうだ。確かに、彼女が以前に描いたイタ車のランボルギーニには、盆栽は生えていなかったし、似合いそうにない、そういえばかっての日本車は、今では日本家電に見られようにガラパゴス化の要因と揶揄されるけど、盆栽と同じように細部にこだわりがあったなあ、などと結びつきを考えて、へ理屈が次々浮かんで来る。しかし、富士には月見草がよく似合うように、盆栽には国産車がよく似合う、それでいいじゃないか、を結論としよう。
彼女の作品は前々から形態の面白さが際立っていた。これはステレオタイプの近代的デッサン教育からは生まれない、むしろ矯正対象になるたぐいのものだ。この形態は素質から自然に出て来ている。彼女はフランスの画家バルテュス(バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ )が好きだと言っていたから、バルテュスのあの初期ルネサンス絵画に出てきそうな人物たちの形態に影響を受けているのではとも推測していた。しかし、この盆栽シリーズを見ると、歌麿や写楽といった浮世絵の人物のしぐさ、さらには菱川師宣あたりの肉筆画に埋め込まれた全身の形態感覚と同質のものがあると思う。アクロバティックな枝振りを競う盆栽の松と言う題材を得て、彼女のDNAが本来の居所を探りあてたということだろうか。もっともバルテュスの奥様は日本人、もともと日本びいきの画家ではあった。背景には、ブルーやマゼンダに代わって、ブラックを使っている。しかし、下地にはかってよく使っていたマゼンダが敷かれているようだ。車の激しい赤は曾我蕭白の色彩に似ている。車からひゅーっと出た松は、まるで北斎のお化けの大首絵のよう。来年は新歌舞伎座の向いの画廊で個展をやるとのことだ。歌舞伎座の前とは彼女の絵にはまことにふさわしい。

江戸は近くにありて

2013-11-08 11:40:26 | レビュー/感想
明治初期、一般から徴用した兵士に行進をさせたところ、手足がいっしょに出るのを矯正するのに大変苦労したと、書いてるのをどこかで読んだ記憶がある。軍隊だけではない、教育機関を通して、近代化を妨げる「旧弊」の矯正があらゆる分野に浸透し、蓄積して、今日の我々日本「国民」の姿がある。しかし、身体感覚だけはどんなに否定しても身体の奥深くにしまわれていて剔出不能なのだろう。何かの拍子にこの固い鎧の隙間からひょろりとはみ出てしまう。陽気のいい時に、東京の繁華街を人ごみまみれて歩いていると、あれ、この歩いている人達の風情というのは、確かにぞろりと着物なぞ来ている人は一人も居ないが、日本橋なぞを描いた錦絵の中で見たぞ、という既視感にたやすくとらわれてしまう。どんなにニュートラルにクールにとりすました高層ビルが立ち並んでいようと、そういう江戸あるいはもっと昔の連続した世界に生きているという感覚に戻ってしまう。もはや後戻りできない歴史だが、そういう感覚が残存していることに自覚的であれば、江戸は思ったほど遠くはない。愁ひつつ岡にのぼれば花いばら( 蕪村)

門出和紙の里を訪ねて

2013-10-09 19:25:44 | レビュー/感想
柏崎ICを下りたら、綺麗に舗装され塵ひとつない道が山中の門出へ通じている。柏崎と言えば海岸には原発が並ぶ町だから、道路のような公共施設には十分過ぎるお金が投入されているのだろう。車窓にはかってどこにでもあったが、今は得難いものになった美しい農村風景が展開する。

門出の山里が生き生きして見えるのは、和紙づくりという生業があるせいかもしれない。かっては典型的な出稼ぎの村であった門出が一人のリーダーの出現によって変った。小林康夫氏。門出和紙の名付け親であり育ての親で、長年の和紙づくりの経験から独特の哲学を持っている氏のもとには、世界中から弟子を希望する人が訪れる。伝説の和紙職人として知られる人物である。小林氏の存在自体は当ギャラリーで毎年個展を開いている浅草の木版画家野中光正氏を通して知っていた。野中氏はかって家族を連れて1年間門出に住み、和紙づくりを経験した。十月初め、東北の作家の展示に車で加賀に行く途中、適切な逗留先を探していたら、野中氏が門出の「かやぶきの家」を教えてくれ、小林氏と思いがけずいろりを囲んで話す機会を得たのだ。

小林氏が和紙づくりをテーマに村おこしをする前は、門出は冬期には3、4メートルの雪に閉ざされる典型的な出稼ぎの村であった。冬の間の手内職でしかなかった和紙づくりを出稼ぎに代わる収益の道となるよう発展させ、門出を和紙づくりの里にしたのが小林氏であった。門出の和紙づくりは原材料のコウゾを栽培するところから始まる。コウゾを知らなければ本物の和紙づくりはできない、との考えからだ。膨大な失敗の連続だったが、「読んだり教わったりしてはすぐに忘れてしまう。時間をかけて、体の中に気づきや納得がたまって、五感になって行くようでないと、応用の効く本物の知識は得られない、それこそ、自然と対話して生きている百姓のやり方だ」という。

経済的な成功だけを望むなら、こんな手間をかけずに見かけだけ和紙に近いものを作れば良かっただろう。実際に市中に出回っているのはほとんどがそういったフェーク和紙だ。しかし、そうしてしまうと作る人間、そして作った物からもスピリットが失われてしまう。このスピリットを手放さないためにも、原料づくり、製品づくりの各過程で、頭だけではなく身体性を持って関わらざる得ないのだろう。かって20代の時はユニークな和紙を作ろうとした、30代には消費者が望む和紙を作ろうとした、しかし、50代になってはコウゾがなりたいような和紙を作りたいと思っている(土がなりたいような器を作りたいと言った陶芸家がいたが同じだと思った)、と語る小林氏は気さくな方だが、横顔には、自然に鍛えられ本物の知恵を得てきた、野の哲学者の面影がある。

問題はコストだが、これではどうしても高上がりになってしまうだろう。このささやかな「反近代」の試みは、大量消費時代に、生き残って行けるのだろうか。そのためには消費者の側にも本物の価値を認め、そのために少々高めのお金を払ってもよいという互助精神が求められる。われわれの回りからスピリットのある物がなくなるとき、われわれの生ももぬけの空となってしまう。ルイス・マンフォードがかって抱いた工業化社会への危惧が牧歌的に思える世界にわれわれはすでに生きている、問題はそのことへの危機感がわれわれにあるかどうかだ。

門出和紙は新潟の人気酒銘柄「久保田」のラベルづくりを請け負うようになって経営的に安定したという。工房では、私が覗いた時には、年間300万枚という、その大量の和紙ラベルを職人がひたすら漉いていた。「久保田」のラベルにはその事実はどこにも書かれていない。せめてそのことをこのブログで伝えて、小林氏のチャレンジと闘いをささやかながら応援したいと思う。

写真は生紙工房。地元の大工が地元の材料で釘を一本も使わず作った。このこだわりを実現してしまうパワーがすごい。

野中光正の版画及びミックスドメディア作品のご購入は下記サイトで


杜の未来舎ぎゃらりい




モローとルオー -聖なるものの継承と変容- 汐留ミュジアム

2013-10-04 20:23:32 | レビュー/感想
ギュスターヴ・モローの作品は、30年近く前、パリのギュスターヴ・モロー美術館で見ている。パリ9区に立ち並ぶ古寂びた石造りのマンションのひとつが当の美術館で、大きな看板が立っている訳でもなく、地図を見ながらあちこち歩き回た末にようやく見つけ出した。852年から死去するまで暮らした邸宅がそのまま美術館になったのだという。2階の展示室に入ると赤っぽいオレンジ色の壁面一杯にどろりと重たい色彩のモローの作品が飾られていた。それらは東洋からのたった一人の闖入者めがけて一斉に襲いかかって来るようで、旅の疲れもあって具合が悪くなりそうになった。一点一点を鑑賞する気力も奪われ、3階に通じる美しい螺旋階段から部屋全体を眺め渡すばかりで、学生のとき読んだユイスマンスの「さかしま」に出て来るサロメの画家の本物を見たというだけで満足し早々に退散した。
汐留の展示は、モローとその弟子ジョルジュ・ルオーに焦点を当てて、作品数は少なかったが、二人を結びつける一本の筋がよく見える展示となっていた。焦点の定まった近年出色の企画だと思った。二人とも主義の連続によって出来ているかのように知的に構成された近代美術史とは無縁の画家で、神話的世界とカソリシズムという違いはあるにしろ、ヨーロッパに伏在するスピリチュアルな中世に根ざした絵を描いた画家と言える。

モローがフォルムより色彩を重視したのは、そこにこそ彼が絵画の柱とする霊感と感情が働くとの想いがあったのであろう。彼が描いた下絵も展示されていたが、その理論に従って、写実的なデッサンをベースにするのではなく、ダイレクトな霊感と感情の反映である色彩を下敷きに抽象表現主義の絵画を先取りしたような趣きの作品となっていた。ゴルゴダの3本の十字架を描いた絵(「ゴルゴダの丘のマグダラのマリア」)があった。十字架の上にはもう人影はない。ただ、十字架の下の血だまりのような赤がここでなされた壮絶な出来事を物語っている。贖罪の意味がここでは不在の肉体を超えて強烈に物質化されているのである。まさしく十字架上のキリストが不在のグリューネヴァルトの磔刑図(『 イーゼンハイム祭壇画』)であり、カソリックのサクラメントが絵解きされているよう感じた。
弟子のルオーの作品は、このモローのスピリチュアルな表現から散文的で装飾的な要素をそぎ落とし純化したもののように思える。近代美術のパースペクティブからは捉えられなかったルオー絵画の本質が、モロー作品を媒介にして鮮明に捉えられた。ルオーの表現は、師モローを経由して中世ゴシックのステンドグラスへと一直線につながっている。やがて有名な一連の「人物のいる風景」へと発展する、初期の同名の写実的な作品(一番感銘を受けた作品だった)は、見えているものを写そうとするだけの写実的技法を超えて、自然と人と、つまりは世界に埋め込まれた魂をつかむ天才的な能力を示している。

世紀末「薔薇十字展」のエキセントリックな組織者、ジョセファン・ペラダンは、自らが唱える神秘主義的な思想をビジュアライズ化した画家として、かねてより賞賛するモローを訪れた。ところが、アカデミー会員であることを理由に「薔薇十字展」への参加をやんわりと断られ、モローの穏やかな常識的な人柄に接して意気消沈したとのエピソードは面白い。このようなエピソードからも従来のオカルティシズムに寄り過ぎたモロー観を再考してみる必要があるだろう。

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シャガール展  宮城県美術館

2013-09-25 14:45:57 | レビュー/感想
主がシオンの捕われ人を連れ帰ると聞いて
わたしたちは夢を見ている人のようになった
そのときには、わたしたちの口に笑いが
舌に喜びの歌が満ちるであろう

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰って来る
                    (詩編126)

シャガールの幻想的な絵の背後には、ディアスポラとして生きざる得ないユダヤ民族の悲しい歴史が張り付いている。浮遊する人物や動物は、帰るべき国土を失ってさまようものたちの姿であるかのようで、微笑んでいてもどこかみな寂しげに見えるのは、我々の感性に引き寄せ過ぎなのだろうか。シャガールが幻想的と呼ばれることを嫌い、自らをリアリストと称したのも、迫害によって故郷を追われたユダヤ人の集団的な記憶が心に染み付いているからだろう。シャガール画の根本的な理解し難さは、亡き妻への個人的な想いは別にして、民族が背負った深い歴史層までは、我々が到底下りて行けないところから来ている。そうであるなら、失われたものたちの壮大な回復への強烈な夢として描かれている彼の絵の世界は、「幻想的」というお手軽な言葉で評する以外なす術がない。しかし、一方で、前倒しに進むばかりで、その都度その都度の幸せに満足し、根源的に回復されねばならないものを見いだし得ない我々の不幸、空虚な実情を思う。津波が全てを引きさらって行った後の廃墟に真に取り戻すべきは何か。

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