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美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ルオー版画「ミセレーレ」展 宮城県美術館 常設展示

2013-07-02 10:19:11 | レビュー/感想
追求の矛先は他者、自己に関わらず、情け容赦なく厳しくなければならない。しかし、その厳しい追求でほとんど壊滅せられた人間性の空洞には光が満ちていなければならない。ルオーの版画の輝くばかりの白とは、この希望の(愛の)光の圧倒的な確かさの表明であらねばならなかった。ルオーが白黒のリトグラフを選んだ、そしてこの白の表現技法に腐心した背景には、こうした単なる芸術的な意図を越えた彼の信仰的な確信があった。「ルオー全版画」(岩波書店刊)を久しく前に買い求めてときどき眺めていたが、やはり複製印刷ではそのことはよく分からなかった。それは本物を目の当たりにし、初めて実感したことであった。そして彼が晩年、暖炉で多くの作品を焼き払ったというのも、単に作品の出来不出来に関わる、つまりは芸術家のエゴイズムに関わることではないのだろう、と思った。

ゴッホ展と同時に、宮城県美術館では、某コレクターが寄贈したルオーの版画展を現在常設展示している。そのことを知らないで唐突に出会った。それが良かったのかもしれないが、こちらの地味な展示会の方に、むしろ心揺さぶるものがあった。

上写真「山の手の夫人は、天国に予約席ありと思う」

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ゴッホ展 宮城県美術館 5/26~7/15 

2013-06-17 21:19:05 | レビュー/感想
この展覧会の企画意図は、ゴッホの空白のパリ時代を美術史的に価値づけることにあるようだ。ただ、そのことを新たな発見を通して強調しても、やはりパリ時代の作品はボルテージが低いなと感じたのはわたしだけであろうか。田舎では一番と言われていた画家が、大都会に出て来てそこで活躍する新進画家たちと交わる中で、「自分が遅れている」と感じ、懸命にトレンドの絵を真似て描くうちに本来持っていた生命感を喪失して、二流の作家として終わるというのは、今でもよくある話だ。

確かに構図やタッチの面で面白い絵はあるが、心をわしづかみにするような迫力を持った絵はない。「サンピエール広場」のあの脱力感は何だろう。「アブサンとグラス」からは群小のアーティストたちを巻き込んだ蒼白の世紀末の魂が見て取れる。多くの芸術家がアルコール度数70%前後というこの悪魔の酒で身を持ち崩した。ここには絶望の象徴のようなこの酒を空しい気持ちで見ている、醒めたゴッホがいる。この展示会の一番の目玉である自画像とてそうである。補色を丁寧に重ねた細部が調和の取れた全体を構成する。天才だけが持ち得る力量がここには如実に表れている。しかし、かってオルセー美術館で見たアルル時代に描いた自画像のあの魂に突き刺さるような迫力はここにはない。

スーラやロートレック風の画風なら完全に自分の物に出来る能力を持っている。この力量を持ってしたら、彼はパリで流行のアバンギャルドの一員にやすやすとなって、やがてパリ画壇でそれなりの地位を築けたであろう。だが、そうしなかった(できなかった)ところに、ゴッホという存在の核心がある。その意味でゴッホにとってのパリ時代は、オランダ時代とアルル時代に挟まれた習作の時代以上であるようには思えない。問題は画家の魂のど真ん中にあるものは何かということだ。そこに踏み込まずに、先行作品や同時代作品との比較研究だけで結論を出そうとすると浅はかなことになる。

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「とうほく陶芸家展inせんだい」パンフレット序

2013-05-08 18:02:42 | レビュー/感想
震災後まもなく、英国の陶芸家から突然のメールが飛び込んで来てびっくりした。東北の陶芸家たちのことを案じて、「窯炊きエイド」という組織を立ち上げたというメールである。「東北には古くからの伝統を受け継ぐすばらしい窯がたくさんある。彼らは無事か?」という言葉に、これまでローカルでやってきたことに、突然のスポットライトがあたったような気分になった。海の向こうの人たちが私たちが忘れている価値を気づかせてくれた。ローカルな生活の場に根ざして泥だらけになりながらやってきたことにこそ、実は、世界に通じる普遍性があるかもしれないのだ。土を重んじる陶芸という業にはそうした暗喩がある。
偏狭に伝統にこだわるというのではない。日本という国は、積極的に海外のものを取り入れ、それを血肉化してきた国である。海外の作家が支援のためにたくさんの作品を送って来た。日本陶芸への彼らの愛を感じ、伝統を受け継いで来た陶芸家の魂のうえにも新たな目覚めを喚起し、未来へ世界へ伝統を進化させる契機になればと思う。経済的な問題の解決の糸口ともなる、それが真の東北の陶芸の復興=ルネッサンスではないか。
震災2年目、最後に手弁当での多くの方のご協力、ご理解があって仙台市内でこうした展示会を開くことが出来たことを感謝したい。

陶芸家S氏宅を訪ねて

2013-04-25 19:29:46 | レビュー/感想
2月の終わり、宮城県北の陶芸家宅を訪れた。車一台がようやく通れる幅のどろんこ道を抜けると、S氏の美意識の世界が奇跡的に実現された夢のような風景が広がっていた。縁側に布団を広げた藁葺きの陋屋、向かい側の段々畑を覆う白い雪が午後の日に輝いていた。手前の小屋の荒々しいばかりの土壁が否応なしに目に飛び込んで来る。後から聞いたところでは漆喰が塗られる前の下地状態なのだそうだ。未完成のまま放り投げられた美しさがある。

母屋の古民家の板戸の前で誰何すると、右手の鎧戸の下方から「少々お待ち下さい」との声がして、しばらくすると戸が開いた。まあるい眼鏡をかけたS氏が顔をのぞかせる。戦後花巻に蟄居した高村光太郎の姿が頭をよぎる。土間に立つと視線は自然と天井とそこに組み上げられた見事な梁の造型に向かう。シロアリに喰われた土台に近い部分を切って、つなぎ合わせたという太い柱。こんなプロの大工も敬遠しそうな手間仕事を重ね、ほとんど廃屋になりかかっていたのを、ご自身で5年をかけて再生したのだという。黒光りする床とそれに続く奥座敷には、S氏が収集した英国のアンティーク家具をはじめ、木彫、瓶、神棚などいずれも年ふりて存在感のある品がぽつりぽつりと置かれている。全てに彼の美の視線が感ぜられる。

奥座敷の端には文机があって、上には放射状の赤い後背を背負った弥陀の絵が掛けられている。机の上にはお椀や一輪指し、何か分からない小さい器が並び、中央には写真が入った木製の額が置かれていた。隣に大きな白い石棺が置かれていたのでS氏に聞くと、こともなげに「中国の古い骨壺ですよ」という返事。それがしばらく前に亡くなった奥さんを弔う「仏壇」だと気づいたのは、迂闊にも家を出てからのことだった。

薪ストーブのある小部屋で出だされた干し柿と銀杏を食むと、懐かしい味が口に広がった。お茶を出す時に用いた土瓶と湯のみがほっこりとしたかたちが印象深く、茶碗なりと求めたかったが、寡作ゆえに分けられる作品は今はほとんどないとすまなそうに答える。家を辞して振り返った屋敷林がやけに生き生きして見えたのは、この終いの住処に彼のいのちがあふれんばかりに注ぎ込まれている故であろうか。あえて陶芸家の名前と場所は、「あまり人が来ると」という、彼の願いを尊重して伏せておこう。

「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。美と貧は親和性がある。

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若冲さんといっしょに芦雪さんも来ていました。 「プライスコレクション江戸絵画の美と生命」 仙台市博物館 

2013-03-24 15:40:09 | レビュー/感想
正直、伊藤若冲は、すでに70年代初め、「奇想の系譜」で脚光を浴び有名人になっていた辻惟雄先生の講義を受けて以来、TVでも何度も取り上げられ、何度か実物も見ているし、もう驚かされることはないと思っていた。まあ、若冲さんが仙台までせっかく来てくれたので、わたしも行ってみましょうというところか。(それにしてもこのしつらえは「電博」のにおいぷんぷんだ。)そして思ったのは、若冲の作品は「絵文字」だということ。言葉を変えればイコンである。そのことは墨絵の「鶴図屏風」が見た瞬間、仮名文字の変奏であるかのように錯覚したことからも、いっそう腑に落ちるものになった。

文字のように決まった形態に収まったら、細密描写と鮮やかな色彩で偏執狂的に中を埋めていく。しかし、その強烈な押し出しに相反して、自然な動きは止まってしまう。すっかりパターンと化したら、「コピ、ペ」を繰り返し、空間にレイアウトしていくという訳だ。日常的にペイントソフトを使っているデジタル世代のクリエーターにファンが多いのも頷ける。そうした絵文字と計算が最も活かされる場所は「思想画」である。(そういえば広告デザインはみな思想画だ)だから、この展示会の目玉「鳥獣花木図屏風」も、「山川草木国土悉皆成仏」という仏教思想の絵解きになっている。分子レベルでは人間も動植物も違いはない、そこに帰れば仏国土が実現するという思想が、タイルを貼付けたような「枡目描」という目的合理的な手法を用いて表現されたものだろう。

今回驚かされたのは、長沢芦雪の絵の方である。最初の部屋の一番最初に展示された芦雪の「白象黒牛図屏風」を見たとき、素直に、ああ、見に来て良かったと思った。そういう自然な出会いはここしばらくなかったものだ。巨大な牛や象が画面一杯、丸山派流の筆法で描かれているが、いつのまにかそれが山や河など自然の風景のアナロジーになってしまったと言う風情だ。その流れが理に落ちてなくていかにも自然で心地よい。「虎図」も、たいていは巨大な猫にしかならないのだが、その猛々しい霊獣の「崇高」とも言える姿がよく表わされていると思った。この画家は「ヌミノーゼ」(美学用語で言えば「崇高』)を感じ表現出来る力を持っている。ただし「人物図屏風」はいただけないと思った。ゆるいだけになってしまうと、画家はついついこんな漫画少年が描いたような駄作も描いてしまう。

奇想の画家の三羽ガラスの残る一人と言えば、曽我蕭白。「寒山拾得図」を見ただけでもこれは相当の変わり者、変態(賛辞の意で)に違いないと思った。実際放浪して絵を描き、奇行の逸話が伝わる人物と知った。そうしたエキセントリックな人間はときどき意図せずに時代を越えたアバンギャルド作品を生み出す。「野馬図屏風」の、具象を離れて今一歩でアンフォルメル絵画になりそうな生き生きとしたブラシタッチに魅せられた。

円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」は、さすが円山派の祖と思わせる写実描写から空間の使い方まで隙のないイリュージョン技術には驚かされるけど、そのすべてが計算されて出来ているように思える。「保津図川図屏風」に見られるような幻妖不可思議さを呈した絵を描く熱っぽい応挙は何処に行ったのか。いくら見ても何も浮かんで来ない白い空間は手抜きの空間だ。凡庸な円山派を介して、綺麗なだけで退屈な明治以降の日本画につながってしまう負の流れが応挙において始まっていたということか。

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巨大画、神戸に行く

2013-02-21 18:36:24 | レビュー/感想
加川広重氏の巨大水彩画が神戸へ遠征し、「デザイン・クリェーティブセンター神戸」に展示されることになった。昨年の7月、巨大水彩画の前で神戸の詩人松尾正信氏が「長旅のいしずえ」を上演した際、同郷のギャラリーオーナーS氏を招いた。それがきっかけとなった。

25,000人の人々を呑み込んだその規模も意味も人間の叡智では図りしれないない出来事に迫るには、俳句や和歌ではだめで大叙事詩が必要なのだ。それを描いて、個人の心情を越えたドキュメンタリーとなるためには、この大きさとそれを描ききる才能が必要であった。以前からなぜこんな巨大水彩画を描き続けているのだろうと思っていたが、彼は自分でも分からず、この未曾有の出来事の証言者となるための訓練を続けていたのかもしれない。次のステップはモニュメンタルなこの作品を永久保存する手だてを考えることだろう。

(写真は「長旅のいしずえ」上演シーン。巨大画の前の松尾氏と加川氏。)

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畏るべきもの、がやってきた

2013-02-12 21:27:40 | レビュー/感想
意図通りにできるようになったら、こんなつまらないことはない。しかし、精進してそうなることが美に近づく道であると多くの者が思っている。ただ美の宇宙の広大無辺さの中で、自らの思い込みを堅固にしているのに過ぎないのに。夜郎自大の折り紙細工師たちが跋扈する世界。しかし、大海の中のちっぽけな堡塁にしがみついているだけの存在に、畏るべきものがやってくる。それはある時は地震や津波など自然災害かもしれない。あるいは戦争のような出来事かもしれない。またそんなことがなくても人はいつか個々に誰一人逃れるべくもない死に平等に直面せねばならない。本来、美とはこういった戦慄的なものと向き合っていた。だが、人間の文明は、それをひたすら忘却するための知恵の総動員システムとして世界を覆っている。

畏るべきものすら、人間の努力や善意によってどうにかなると思わせる詐欺的なシステム……政治、教育、そして芸術。そこに西洋、東洋の、特殊カテゴリー同士の対立的二分法はない。江戸時代、日本にも巧みに創作された近代が誕生した。キリスト教から仏教まであらゆる宗教勢力を滅ぼして立てられた人間の知恵の王国。徳川家康という名のパターナリズムの元祖、ある意味、史上まれに見る「大審問官」によって創始された、古来からのムラ社会の暗黙知に基づいて安心と安全を約束する人間的システムが、未だ効力を失わずに居座っている。

美が真実の探求なら、そして生命の進化と密接に関わるものであるなら、これらとは本来相容れないはずなのに、それなりに居心地のよいカテゴリーの中で疑いも持たずに自足している。しかも、そのカテゴリー維持に用いられた様々なテクノロジーたるや、西洋の表層的なコピーがほとんどなのだから、何をかいわんやだ。例えば、そのひとつ、遠近法といっても、単純に現実らしく見せる「だまし絵」の技術のことではない。その一点を不可視の彼方にすえることの意味は、見えざる神によって世界が創られているという信仰告白に結びついている。また、こうすることで個々の物との距離感が生まれる。フェティシズムを克服して、写実がはじめて可能になるのだ。元来日本人には納得しがたいテクノロジーだ。しかし、本来ならその自覚から出発すべきだったのに、それを安易に模倣可能のように受け止めて、これまた西洋模倣の制度の中で発展させてきた歴史がある。

その幾重にもなったねじれを解きほぐしてピュアな状態に戻すには縄文あたりまでさかのぼらなければならないのか。しかし、そこで出て来る「爆発」がありふれたロマンチシズムしか呼び寄せないとしたら。これまた、そんなロマンチシズムならもうたくさんではないか。西洋でも信仰の喪失は、この一点において世界をまとめるテクノロジーを時代錯誤として久しい。今希求されているのは、西洋と東洋の違いを越えた魂の同質性に基づく「中心性」の再獲得なのだ。これまた現代西洋思想の受け売りで、絵の構造を現象学的に分解しつくしてみても何が残るのだろう?また、それをまた模倣対象とするとしたら、何と二重に愚かなことだろう。今、想定を越えて次々起こる危機の同時代性が、個々の物語に収斂させる特殊性の神話を越えて、普遍性への指向をわれわれのうちに自然に芽生えさせようとしている。

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東山魁夷展 9月22日(土・祝)~11月11日(日)宮城県美術館

2012-12-25 19:30:09 | レビュー/感想
東山魁夷展を十一月の展示最終日に訪れた。現代日本を代表する超メジャーな日本画家であるだけに、マスコミの報道も頻繁に行われ、誰もがよく見知った画家の作品の実物を一目見ようという人たちが連日押し寄せ、地方の美術館としては高い集客実績となったと思う。私が訪れたときも駐車場は満杯状態で、入り口で空きを待ってようやく中に入れた。

しかし、こんなに待って入った割には、鑑賞している人の表情にどことなく精彩がない。絵の全体的な印象のように皆どことなくぼやっとしてるのだ。確かにこれだけの大きな作品を継続的に生み出し続けた精神的な安定感と技術的な力量には舌を巻く。確かに成功するわけだ。だが、あえて正直を言えば心が動かないのだ。スタイルという名の自然の漁り方テンプレートを確立したら、もう畏怖も探求もなくてもOKの作られた予定調和の世界が量産出来る。これを致命的だと画家は思わないだろうか。むろんそんなプロフェッショナルになるためには並外れた才能と努力が必要だと認めた上での話だが。

真実は、対象たる自然の方が大きい。恐るべき生命感を持って、解けない謎として常に現前にある。必然的に人間が頭の中につくりあげてしまうイメージも、対象である自然によって常に改変を迫られる。ときには粉みじんにされることもある。だから画家は、同じ風景であれ、セザンヌのように描き続けなければならない。

美術館を出たら晩秋のすさまじいばかりの紅葉が山を覆っていた。これを見たら、ちんまり綺麗な紅葉の絵など描く意味があるのだろうか?

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「 型絵染人間国宝 芹沢銈介展」8/04~10/08

2012-09-21 00:58:49 | レビュー/感想
芹沢は、染織家の道を選ぶ前の若い頃、油絵を描いていた。その数少ない作品のうち2点、「柘榴」と「樹木」を描いた作品が展示されていた。後者の作品は、工芸デザイン家としての才覚を予見するような絵で、芹沢の工芸デザインのオリジナリティーが、自然の景物の綿密な写実をベースにしていることを物語っている。絵の脇の説明板から、このとき芹沢が私淑していた画家が「存在の不思議を描いた岸田劉生」であるということを知った。意外な取り合わせだ。しかし、ここには芹沢の染色デザインの創造の謎を解く鍵があると思う。

芹沢の岸田好きは、師、柳宗悦の民芸運動の底流をも照らし出す。柳が起こした民芸運動は、工業化の進展に歩調を合わせたバウハウスのモダンデザインの流れとは異質なものだ。そのことは愛弟子である芹沢の染色に描かれた文字デザインにも表れているように思う。タイポグラフィーというフレームの中で、パターン的展開ルールを作らない、たとえば文字に翻った布の動きを加えるというのは、どこかに機械的抽象化をはばむ身体感覚的要素を残しておく、ということであろう。ユニバーサルなデザインの方向性を拒絶して、あくまでもローカルな身体感覚から普遍性を紡ぎだそうとする芹沢のこだわりがそこにはあるように思う。

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アンドリュー・ワイエス展 5/26~7/22

2012-07-22 18:14:36 | レビュー/感想
宮城県美術館で丸沼芸術の森所蔵の「オルソン・シリーズ」から水彩と素描120点が展示されていた。あと1日で終わりという土曜日に回ってみたが、気持ちを高揚させるような生命感に満ちた作品はない。若い時に少なからずロマンテックな思いで見ていた「クリスティーナの世界」が、随分と計算され組み立てられた作品だと知ったことが唯一の収穫か。少なくてもワイエスは素直に感情のおもむくまま絵を描いた画家ではない。

「クリスティーナの世界」が完成するまでには数多くの習作がある。繰り返し描かれたオルソンハウス、そしてクリスティーナのデッサン。オルソンハウスは殺風景と言ったらいいほど魅力のない建物だ。そして正面から描かれたクリスティーナはお世辞にも美人とは言えない鷲鼻のきつい目をした女性だった。しかも初老と言ったら良い年だ。(そういえばクリスティーナの手は年老いた農婦の手だ)この切り詰められたマテリアルで彼は何を描こうとしたのか。

ふとスティーブン・キングのホラー映画を見ているようなゾクゾクする気分になって、窓に人影を探している自分がいる。「幽霊」というタイトルの作品があったから作者もそうした乾いた霊の世界に突破口を見いだそうとしているのだろうか。しかし、それはスティーブン・キングの作品がそうであるように「ほのめかし」「肩すかし」で終わる。

この風景は室内であろうと草原であろうと内向的な閉じた感じを受ける。窓からカーテンを揺らして吹き込む風を描いている作品が数点あった。(「海からの風」)作者は唯一外から吹き込んで来る自然の風に神経症的な閉塞感を打ち破るリアルな解放の力を期待しているかのようだ。

それにしても水彩でこの技術はやはり天才的だ。納屋の中の牛(「オルソン家の牛」)のボリューム感はもちろん、その手触りさえ感じさせるデティール表現には驚嘆させられた。

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長江万里図巻

2012-01-18 16:03:26 | レビュー/感想
「北京故宮博物館展」(東京国立博物館)で、「長江万里図巻」を見た。この展覧会の目玉は「清明上河図」だが、これを見ようと連日大勢の人が押し寄せている。この日も開館少し前に訪れたにも関わらず、すでに長い行列が出来ていた。世界に先駆け近世を実現したという宋時代のリアルな都市生活の有様をタイムトラベラーのように眺めてみたい。そんな欲望に後押しされてこの国の老齢化のすさまじさを物語る銀波白波に溶け込んで(私自身もそうであるから)行列に連なった。

しかし、「清明上河図」をかぶりつきで見るには館外で1時間、館内で3時間半待たなければならないという恐ろしいことになっていた。ネットで調べると中国でも7年に一度のご開帳で、香港でも3時間以上待たされたという事例があるようだから仕方ないのかもしれない。それにしても一日かけて見る余裕はない。早々に諦めて、これは2列目から盗み見ることで満足し、もっぱら他の展示品を中心に見ることにした。

そこで何の予備知識もなく出会ったのが「長江万里図巻」だった。「清明上河図」が人間やその生活の営みを描いたとすると、ここには広大無辺な大陸の自然が描かれている。横10メートル近く、西洋の遠近法絵画とは別の墨の濃淡だけの奥行き表現で、生命感を途絶させることなく流れるように描かれた絵巻を左から右へと移動しつつ見ていくと、まさしく音楽が聞こえてくるようだ。それも室内楽ではなく悠々たるフルセットのオーケストラの響きに巻き込まれて、見る者はその中の点景人物となって峨々たる山々に隠れ、泡立つ波に身を漂わすばかりとなる。掛け軸の絵に縮められ(実際に渡来した宋元画のほとんどが掛け軸用にカットされているのだという)日本の水墨画ではとても得られない、まさしく大自然に身を委ねる仙人となったような全身的感覚体験。

最後のシークエンスに、尾形光琳の波の逆巻く様を物の怪のように描いて、デザイン的であることを逸脱した自分好みの絵、「波涛図」をふと思い浮かべた。光琳もこの絵を模写かなにかで見ていたのだろうか。中国伝来の美術を工芸的なものとして展開し何でも身近な「かわいい」ものにしてしまう、日本人の才能には敬服しつつも、元絵に初めて出あって世界を丸ごと描こうとするとてつもない力量に正直驚かされた。

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降下した龍

2012-01-11 20:23:52 | レビュー/感想
辰年の新年早々、せんだいメディアテークで加川広重氏が描く巨大水彩画の新作を見た。展示されていたのは2点。メディアテークの一階のガラス越しに「星団の誕生」のカラフルな色彩がまず目に飛び込んで来た。色とりどりの尾を引きづりながら運動を続ける星々の巨大な渦。2011年、東日本大震災の前に完成した作品だと言う。星々の集まりというより、宇宙に渦巻く人知を越えた巨大なエネルギーの龍(エロスの龍)を描いているようにも見える。そして、それがたまさか、地上めがけて落ちて来ると、鎧袖一触、計り知れない災害を引き起こす。昨年、私達が築いてきた文明社会を破壊尽くし、生きとし生けるものをことごとく呑み込んだ大津波も、この天上の龍によって引き起こされたもののように思える。その意味でこの作品は予見的な作品のようだ。

さて、この「星団の誕生」の奥の壁いっぱいに展示されていたのが、もう1点の巨大水彩画「雪に包まれる被災地」。そこには天上の龍のアンビバレントな姿(タナトスの龍)が描かれている。画面中央には骨組みを剥き出しにされた建物。正面奥の吹き飛ばされた壁面の間からは、陸地に打ち上げられた巨大な漁船のシルエットが見える。陸地と海の境があいまいになった風景。地震と津波に翻弄されるがままであった建物や構造物の姿がまばらに描かれている。画面の前景をはじめ、あちこちに散在するこうした漂流物の固まりは、大地を暴れ回った結果、エネルギーを使い果たし、自らもずたずたに引き裂かれて大地に屍をさらしている龍の姿を思わせる。

画面全体を天上から落ちて来る大小様々な雪の粒が覆っている。このナチュラルな雪の粒は巨大画の奥行きのリアリティをさらに高め、荒らし尽くされた大地に静けさと美しさをもたらしている。実際、あの日の夜、大地を覆った雪と星空の美しさには、沈黙でしか答えられない無常の美があった。

この巨大画の前ではクラシックのコンサートが行われ立ち見が出来るくらい人が集まったが、涙を流している人の姿が多く見られた。画家がこの大画面の中に重ね合わせコラージュした様々な被災のシーンが悲しい思い出を喚起するのだろう。未曾有の大災害は今まで個人のイメージを描いていた画家に、初めてリアリズムをベースにした絵を描かせた。そのことが絵に思わぬ社会性を帯びさせることになる。実際に見た記憶が少しでも新しいうちに立ち向かわざる得ない必然性を感じ、それが被災された方を勇気づけることになればと思う、その一方で、被災者の方々にとっては誰にも伝えることの出来ない重い出来事であろう、それを描いてよいのかと画家は自問したが、「よく描いてくださいました」という被災者の言葉に逆に慰められたという。

写真は「雪に包まれる被災地」(5.40m×16.50m)の左半分


Large-scale Watercolor on Japan’s Tsunami Striken Areas
by Hiroshige Kagawa

Since 2003, Mr. Hiroshige Kagawa has painted numerous large-scale watercolors as big as a cinema screen. His 13th painting was released in January 2011 at sendai mediatheque, in Miyagi Prefecture, located in the Tohoku region of Japan. In this painting he drew a coastal scene of an area devastated by the tsunami triggered by the massive Japan quake on March 11, 2011 in northern Japan (Tohoku). The watercolor was painted based on numerous preparatory sketches of disaster-striken areas. This scene depicts snow falling over the debris, as if comforting the saddened people of Tohoku. I hope that as many people as possible will see this painting to understand how the victims really felt just after the terrible event.

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フェルメールの光

2011-12-04 19:25:48 | レビュー/感想
仙台の宮城県美術館で「フェルメールからのラブレター展」が開催されている。震災後急きょ仙台でも開催が決まったものらしい。東京で開催される、こういったメジャーな画家の作品展は、連日霞か雲かの人の波で、ゆっくり絵を鑑賞するといった雰囲気にはならない。地方の美術館なら平日に行けばそんなことはないだろうと思ったら豈計らんや。満車順番待ちの駐車場の様子を見て、一度は諦め、入場したのは閉幕ぎりぎり最終週となった。雨粒が落ちてきそうな曇り空の平日、開館と同時に入場したため比較的ゆっくり見ることができた。

「フェルメール」の名前を冠しているが実際展示されていた作品は3点だけだった。しかし、なぜまあこんなにフェルメールは人気なのであろうか。まずスナップ写真のように、ありふれた日常の瞬間を切り取ったものだから、というのはあるのではないか。現代のカメラの原型「カメラオブスクラ」を用いたと言われているが、まさしくフェルメールの作品はカメラで隠し撮りされたかのようだ。無防備な姿をとられたと言わんばかりのシーンがそこには描かれている。

ブリューゲルが描いたような生も死も神に包摂された中世の世界観を失って、近代以降の人間は生活を断片化し、瞬間瞬間にことさら大きな渇望を寄せるようになる。写真の人気はそのことと関係があると思う。しかし、瞬間をとらえた作品でも写真と絵画では大きな違いがある。写真は機械の力を借りて瞬く間にイメージを定着することができるが、それはあくまである瞬間の記憶を呼び覚ます断片でしかない。一方、絵画は、筆を執っては、長い間その瞬間について思考し、形を吟味し、色を重ねていかなければならないが、そうすることによって写真では表現できない、深く生きて流れる時間を定着することができる。

そんなことを考えながら、さて、実際にフェルメールを見た。フェルメールの3作品は展示会場の一番最後に展示されていた。見た途端、それまで駆け足で見て来た同時代の作家作品とはこれらはまったく原理的に違うもの、という印象を受けた。これは一般的に思われているような意味での「絵」ではない。それくらい違っている。これに比べると同時代の他の画家は教訓や物語に寄りかかった単なるイラストレーションでしかない。

フェルメールの目的は、物語の説明ではなく、光に照らされて物があり生きている人がいる不思議さ、われわれが見ている空間と存在のリアリティの探求にある。これは「客観性」を追求する科学者の姿勢に近いものだと思う。だが科学者と違うのは、この光が単なる物理的な光(印象派が着目したような)ではなく、人物の微妙な瞳や表情、しぐさの変化を浮かび上がらし内奥の魂を明らかにする光でもあることだ。レンブラントがキリストの内から輝きだすように描いたバロック的な光は、ここではすべての事物を柔らかく包んでいる。

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文化輸出の意味

2011-11-05 06:21:36 | レビュー/感想
海外に扱っている作家さんの作品を持っていきたい、とかねてより思っていたが、この大地震によりその機会が唐突に訪れた。英国の陶芸家による大震災の支援組織「窯炊きプロジェクト」から、9月開催の日本陶芸に関するイベント(Contemporary Japanese Ceramics:The Old & The New)に、東北の被災作家の代表として岩手県藤沢の山中に窯を持つ本間伸一氏が招聘されたのだ。さらに12月にはニューヨークで開催される復興支援のオークションには東北の若い作家を数人エントリーした。

この小さな取り組みの中からさえインターネットという現代の魔法のツールを媒介として海外との結びつきが生まれた。情報世界ではまぎれもない現実となっているグローバリズムを身近なところで思い知らされる出来事だった。と同時に、今後どういうスタンスで工芸品なり美術品という「物」を持っていったらよいかを明らかにしておく必要があると思った。

明治時代にも重商主義的な国家政策の後押しもあって、パリ万博を機に日本の工芸品が大量に海外へ輸出されたときがあった。例えば薩摩焼は鹿児島だけでなく京都や横浜でも製造された輸出工芸品の花形だった。豪華絢爛な色絵錦手の磁器、いうならば日本製の「ロココ磁器」が盛んに作られた。確かにその超絶的な技巧には感心させられるが、好みではない。それは商売を先に考えてのことだろうが、今も欧米輸出を意識して作られる他の工芸作品についても言えることだ。中国風に見えるかたちにこれぞ日本といわんばかりの装飾が張り付いているような印象をそれらの作品には抱いてしまう。

本当に持っていきたいのは、ポピュラーな文化的な意匠を越えたところで訴える力と深度を持っている作品である。親から受け継いで来た血や生まれ育った風土はどうしようもなく変えようないものとしてある。それがフォルムや色彩の個性となってあらわれるのは当然のことだ。しかしそのさらに奥底にあるいのちは人類に共通のものだ、と思う。人類のルーツアフリカの一人の女性(ミトコンドリア・イヴ)に宿ってすべての人類に受け継がれてきた魂。その証しが日本の芸術にもあると信じたい。

さて、本間氏は英国でフリータイムにロイヤルアルバートミュジアムの2階を訪れ、中世や古代の膨大な陶芸の展示品を見て来て、感銘を受けたという。彼は陶芸というジャンルを抜きにすれば、古代の生命的な表現を現代に持ち込んだブランクーシに近い資質を持った作家ではないか、とあるときに思ったが、日本中世の器の美にインスパイアされ、内発的な生命力にあふれたシンプルで美しい器を作り続ける彼に、それが今後どう影響を与えるか、楽しみではある。

”create like god, command like king, work like slave”「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」(コンスタンティン・ブランクーシ Constantin Brâncuşi 1876年2月19日 - 1957年3月16日)

写真は、コーンフィールドにあるウイッチフォードポタリー主催のワークショップで日本陶芸独特の手びねり技法を披露する本間氏。手前はGas君嶋氏、ロックンローラーとして英国に渡り25年、英国在住の日本人陶芸家にして、ケンブリッジに所蔵されている未公開の日本中世陶芸の研究家でもある。「窯炊きプロジェクト」の中心スタッフとして本間さん招聘のために大きな働きをして下さった。

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可能性の北前船

2011-10-26 17:33:44 | レビュー/感想
「東北炎の作家復興支援プロジェクト」の展示会に関連して、加賀との間を車で4往復した。仙台からの距離は日本海ルートで片道およそ600キロで、途中大阪を経由して内陸を横断したこともあったから、約6,000キロを走破したことになる。これは日本の本州ほぼ一周に相当する。世界一過酷なモータースポーツ競技と言われるパリ・ダカールラリーが12,000キロのレースと考えると(何と言う恐れ多い比較対象だ!)たいしたことはないが、ふだんは車をほとんど運転しない自分にすると大事業を成し遂げたような気になって来る。

展示会の期間中は、加賀ではかつては日本一の富豪の村と言われた北前船船主の里橋立に逗留先を提供され過ごした。展示会もそろそろろ終わろうという頃、ようやく余裕ができて逗留先の目と鼻の先にある「北前船資料館」をのぞいた。それまでは北前船と言えば、江戸後期から明治にかけて、鉄道が引かれる前に北陸と北海道の間を行き来していた国内定期航路の運搬船くらいの認識しかなかった。それがなんとこれはこれは大変な代物であることが分かった。

「北前船の里資料館」となっている建物自体がかつての船主の家であった。フナムシがぼこぼこに穴をあけた一見粗末な船板をつかった外観と、狭い間口(これは間口の幅によって税高が決まって来る町屋ゆえだろうと後から解釈した)からすると、ちょっと大きな網元の家ぐらいに思っていたが、中に入って驚いた。30畳敷きの大広間がバーンと広がっており、最高級の建材を惜しげもなく用いて柱や梁は総漆塗りのつくりだった。それも漆は高級調度品並に何度も重ね塗りされているので、今も創建当時の豪奢を保っている。

ボランティアの方の熱のこもった解説では、まず北前船は、大阪を出て瀬戸内海を経て、東北、北海道に至る航路を往復したのだという。こんな基本的なことも知らず近くの橋立港から出たのだろうと思っていたのだから恥ずかしい。橋立の人たちは年に1回の出航時には徒歩で1週間かけて京都を経て大阪の堺港へと向かった。途中、京都で寺社仏閣を詣でて神仏に航海の無事を祈った。1回の航海で今のお金にすると1億円ぐらいの収益があったそうだ。1人で10艘を越える船を所有していた船主なら、その収益は莫大であったろう。最盛期には橋立にはおよそ100艘の北前船があったそうだから、1村で100億円を稼ぎだしていたことになる。その往時の莫大な富を表す例として、100万ドルの夜景で知られる函館山や小樽運河ののレンガ倉庫も橋立の船主の所有だったのだと言う。

江戸末期から明治へと時代が激しく動く中で、人々のチャレンジ精神が高まる「坂の上の雲」の時代、橋立の人たちが身につけた航海術(それは古来大陸との間で盛んに行っていただろう交易を通しても育まれたものかも知れない)に近江商人から提供された商いの知識がセットされ、北前船という名のイノベーションの装置が成立した。造船の面から見ても底を平たくするなど日本海の湾深く浅瀬にも乗り入れ可能なつくりとなっていた。大きな利益は積み荷にプロダクトアウトとマーケットインが見事に噛み合った鰊の絞り滓による肥料がセッティングされたことによる。1億円の利益のほとんどは関西から運んだ塩や酒などの物資よりこの肥料の収益によっている。加賀地方では江戸末期、農地の拡大が限界点に来て、単位面積あたりの米の収穫を上げるため肥料の工夫が行われていたそうだが、航海術、商知識に加えて、こうした商品開発の努力も背景にあるのだろう。しかし、鉄道網の発達が北前船の優位性を突き崩し、明治末期には沿岸から北前船の姿は消えた。電信網の発達も、リアルタイムで価格情報を得ることを可能にし、利幅を縮少せずには得なくなった。新しい技術がそれまでの成功のフレームを陳腐化するのは、今も繰り返し見られることである。北前船の船主たちは莫大な資産を元手に銀行家や保険業へと転身し、日本近代の金融経済の礎となる。

加賀と仙台の間を東北の作家さんの作品を乗せて車での往復を繰り返しながら、これも極小規模の北前船だなと思った。それと同時に、グローバリゼーションの現実の中にあって、コピー可能な品やサービスが新興国との競争の中で安価な労働力に太刀打ちできずデフレの波に呑まれる一方、独創的であることを生命とする美術工芸品は残された唯一の差別化商品(とくに縄文時代以来の日本陶芸は究極の差別化商品)であるなあと思いつつ、このプロジェクトが世界に文化を発信するハイパー北前船を生む契機になることを夢見ている。「石川県九谷焼美術館」の収蔵品の中には、北前船の船主の子孫が「うちの蔵にあったものだけど」と持って来た高価な品が並ぶ。もう一枚は戦後マッカーサーへの寄贈品となったという時価5,000万円という、小さな古九谷のモダンな絵付けの皿もある。さて、その莫大な財力によって加賀の文化を押し上げた船主たちと同じチャレンジ精神と心意気を持った現代の船主は今どこにいるのだろう?

写真は橋立外観はとっても地味な「北前船の里資料館」前の路地。石畳が敷かれ、景観保存地区となっている。