美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

馬渡裕子の盆栽クラシックカー

2013-12-18 14:37:15 | レビュー/感想
馬渡裕子の頭の中で、亡き父君の大事にしていた盆栽と国産車のミニカーコレクションが、震災を契機に(あのとき庭にあった父君の盆栽は倒れ、海岸沿いのあまたの松林や車は浪に呑まれた)化学反応を起こして、江戸と現代が地続きになったようなハイブリッドな新作が生まれた。これまではタイトルと絵が連動して腑に落ちる、という方向づけがなされた文学的な作品が多かった。もちろん、絵画としての独立的な力は持っていたのだが。ところがこのシリーズでは、タイトルはそっけなくクラシックカーの名称になっており、見る人は自ずと絵のみに集中することになる。
では、なぜ盆栽は、国産車と親和性を持っているのか。彼女に聞いたところ、国産車でないと盆栽は生えないのだそうだ。確かに、彼女が以前に描いたイタ車のランボルギーニには、盆栽は生えていなかったし、似合いそうにない、そういえばかっての日本車は、今では日本家電に見られようにガラパゴス化の要因と揶揄されるけど、盆栽と同じように細部にこだわりがあったなあ、などと結びつきを考えて、へ理屈が次々浮かんで来る。しかし、富士には月見草がよく似合うように、盆栽には国産車がよく似合う、それでいいじゃないか、を結論としよう。
彼女の作品は前々から形態の面白さが際立っていた。これはステレオタイプの近代的デッサン教育からは生まれない、むしろ矯正対象になるたぐいのものだ。この形態は素質から自然に出て来ている。彼女はフランスの画家バルテュス(バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ )が好きだと言っていたから、バルテュスのあの初期ルネサンス絵画に出てきそうな人物たちの形態に影響を受けているのではとも推測していた。しかし、この盆栽シリーズを見ると、歌麿や写楽といった浮世絵の人物のしぐさ、さらには菱川師宣あたりの肉筆画に埋め込まれた全身の形態感覚と同質のものがあると思う。アクロバティックな枝振りを競う盆栽の松と言う題材を得て、彼女のDNAが本来の居所を探りあてたということだろうか。もっともバルテュスの奥様は日本人、もともと日本びいきの画家ではあった。背景には、ブルーやマゼンダに代わって、ブラックを使っている。しかし、下地にはかってよく使っていたマゼンダが敷かれているようだ。車の激しい赤は曾我蕭白の色彩に似ている。車からひゅーっと出た松は、まるで北斎のお化けの大首絵のよう。来年は新歌舞伎座の向いの画廊で個展をやるとのことだ。歌舞伎座の前とは彼女の絵にはまことにふさわしい。

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