美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ミュシャ展 1/18~3/23  宮城県美術館

2014-03-05 17:20:34 | レビュー/感想
40年前、上京したばかりのとき、当時はアールヌーボーがブームで書店には関連の本が並んでいた。ミュシャは、それで知ったか、「ニューロック」(懐かしい言葉だね)に夢中の友達が部屋にミュシャのポスターを貼っていた記憶もある。アールヌーボーは「青春様式」と呼ばれるように、その流麗なフォルムは、世の鬱勃たる青年達の魂を捉える力を持っている。美術館にふだん来ないような若者の姿が多かったのを見ると、今もその力は変らないようだ。ただ、自分にとってはサブカルチャーのカテゴリーに入れていた画家が、堂々と美術館のメイン展示となって、各地を巡演するとなると、時代の変化を感じざる得ない。なにしろ、漫画が日本文化の代表になったそんな時代なんだから、「そんなことで驚いちゃいけないよ、ジイさん」ということだろう。

さて、ミュシャは、初期の肖像画を見ると、すでにこの段階から技術的に高い水準を持っていたことが分かる。誰もから「旨いねえ」といわれる絵だ。この力倆だから瞬く間に時代の寵児となっていく。世紀末パリのカリスマ女優サラ・ベルナールから主演公演の広告ポスターを依頼されヒットさせたのが、きっかけであったようだ。サラからはブランディングを全面的に委託されることとなる。こうなると爛熟した商都パリではほおっておかれまい。なかなか商売上手でもあったのだろう。自転車屋やビールなどのポスターから石けんやビスケットなどのパッケージまで仕事が舞い込むこととなる。今で言えば、デザイナー、イラストレーター、アートディレクターを兼ね備えた、マルチタレントの超売れっ子クリエーターというわけだ。

昔、初めてパリに行ったとき、ホテルの近くのいかにもベルエポック時代のパリといった雰囲気のカフェに入った。と、そんなに人が込んでいるわけではないのに、柱の後ろの暗い一角を指差してぶっきらぼうにそっちへ行けという。差別だと思い、当然奮然と文句を言ったが、そのときのウェートレスの姿が忘れられない。派手な化粧でフリルの付いたユニフォームを来ていたが、自分には骨太の田舎出のネーチャンに見えた。後で知ったことであるが、花のパリも、ノルマンディ等貧しい農村部から来た人々が裏方となって支えているのだそうだ。これは江戸時代から東京が土地相続権のない田舎の次男坊や三男坊の奉公先という名の、やっかい払いの場となっていた事情と同じなのでないか。反撃をくらってポカンとした彼女の表情を思い出すと、単に一人客が真ん中に座られちゃ困るという理由でそうしたまでのことだったかもしれないし、洗練されたサービスが身に付いてなかっただけかもしれない。自分も変にナーバスになってしまった恥ずかしいお上りさんだったということか。

余計なことを書いたが、パリジェンヌといっても、ほとんどが田舎の人なのだろう。東京が地方出身者の集まりであるように。そして若いときには、パリのお洒落文化の象徴のように思っていたミュシャも、実はチェコというヨーロッパの田舎出身だというのだから面白い。類似した現象は、変な例だがトレンディな脚本家「くどかん」(宮城県旧若柳町出身)や故大瀧詠一(岩手県岩手県旧梁川村出身)などのように今の日本にもある。(カッコつける必要もなくなった今は「東京でベコ飼うべ!」と歌った吉幾三こそ、なかなか鋭く批評的な存在ではないかと思う。)それはなぜか、都会出身者と違い、彼らは根性が違う。成功してやろうという生半可じゃないモチベーションで、粘り強く努力するタイプが多いのだろう。さらに都会的なものがない環境が、逆に都会的なもの(だと思われている)への憧れを強力にした作風が、同じ憧れを共有する地方出身者でおおむね成り立つ都会で成功する要因となっている。

ミュシャは、広告の分野以外にも、変わったところではフリーメソンの入団証書をデザインしたり、実に多様な仕事をしている。しかし、彼は出自を隠し立てはしなかった。オーストリアの植民地政策に抗して、祖国チェコのスラブ民族のために残したたくさんの作品も展示されていた。それはこの展示企画のライトモチーフでもあって、パリの流行のまっただ中にいたミュシャの別の「まじめな」側面をクローズアップする意図と結びついているようだった。しかし、彼の作品は悲しい表情を描いていても少しも悲しさが伝わって来ない。表情がステレオタイプの漫画のようだ。そこに彼の限界がある。

カントは芸術は感性を土台に無目的に構成力を働かせるという意味のことを言ったが、ミュシャの作品はすべて広告はもちろんのことだが、他の絵画的作品も目的が最初にありすべてそこに収斂されるように最初から計算され、そのたぐいまれなテクニークでそれを実現している。だからカント的な意味で芸術に欠かせない形而上的世界への思惟がない。ゆえに不思議さもない。むしろ、興味を惹かれたのは彼の写真だ。それは彼がポスターや絵画に女性を描くうえで下敷きにしたのだろう。さまざまなポーズをさせたヌードのモデルが映っていた。構図やトリミングは今のファッション写真のようだ。

それは今はもっとあからさまになっているが、当時もパリを中心におそらく世界で最初に花開いた消費文化の形而下、無意識に隠されたエロチックな欲望をあらわにしているように見える。そういう意味で、芸術の死を誰よりも早く予見していたマルセル・デュシャンが「大ガラス」(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』)で、欲望の装置、写真を用いた意味も理解される。そう思って見渡した会場には、今のグラビア雑誌の表紙のようで、どれも同じ顔の無数の女性たちの笑顔がくどくどしい装飾に彩られてうっとおしいばかりに取りまいていた。彼が振りまいた欲望の記号は、今や世界大となった消費文化の低層にまんべんなく振りまかれている。

ミュシャが活躍したおよそ10年ほど前にパリにいたゴッホは、ミュシャの陰画のように、loserとしてパリをあとにする。しかし、彼はアルルの自然の中でこそ、真の芸術のwinnerとなった。会場出口、もうお腹一杯という感じで、ゴッホ展でそうしたようにミュシャの画集を買う気には正直なれなかった。

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