美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

O Mio Babbino Caro

2014-03-17 13:19:27 | レビュー/感想
昨年の暮れ、オランダのテレビ局が開催した世界的なタレント発掘番組で9才の女の子アミーラ・ウィリファーゲンAmira Willighagenがオペラを歌い、優勝した。たまたまその過程をインターネットの動画サイト、ユーテューブで見て、9才とはとても思えない、いや、ピュアな分だけプロをしのぐ歌唱力に驚いた。
後で彼女のインタビュー番組を見て納得させられるところがあった。彼女は、特別に誰から教わったというわけではなく、大好きなプッチーニの曲「私のお父さんO Mio Babbino Caro」を繰り返しユーチューブで聞いて歌って、ここまで歌えるようになったというのだ。普通の女の子が通常はまってしまうおママゴトや人形遊びと同じく、彼女にとってオペラは、日がな一日遊んであきない遊び道具のようなものなのだろう。
自分も思い出すのだが、この大人から見れば夢の中にいるような年代、誰しもがそうした遊びを持っていたと思う。子どもたちは、日々遊びに熱中し、明日はその遊びがもっと楽しくなることを信じて疑わず眠りにつく。しかし、いつのまにか、というか、知恵がつくにつれて、そうした魔法の効き目はなくなり、子供時代はかっての輝きを失う。豪華な馬車はみすぼらしい南瓜に過ぎないと、気づいてしまう日が必ず来るだろう。その時、遊びの記憶はその幸福感とともに永遠に失われてしまう。
「創世記」の有名な楽園追放の話では、人間は「神のごとくなれる」という悪魔のささやきに唆され「善悪の木の実」を食べてしまった。その瞬間、エデンは神と人間が近しく応答し合う至福の「遊び」の場ではなくなってしまう。おママゴトでもそうだろう。おママゴトの相手が「このお皿、木の葉っぱじゃないか」と言ってしまったら、いっぺんにその世界は瓦解してしまうだろう。
パンと葡萄酒をキリストの体と受け止めていただく教会の聖餐式がそうなら、キリスト教から安土桃山の成立期に影響を受けた茶道の作法もそうである。例えば、裏千家の十五代家元千玄室も、その著書「茶の精神」の導入に、幼年期の「おママゴト体験」を置いて、茶の湯の本質を説明する。その世界を保つためにはルールが守られなければならない。問題は、そのルールが「どのような権威によってか」知って、「信仰」や「信頼」を持って守り続けられるかだ。
アミーラの話に戻るが、その信じ難い歌唱力が、彼女の「遊び」の世界に大人も認めざるえないプレザンスを与えてしまった、というわけだ。ファィナルの選考場面で、彼女は名前を呼ばれるやいなや、ひっくり返って、手足をピンと上に伸ばしたまま、しばらく動かなくなった。子どもがよくやる死んだ真似だが、彼女にしてみれば、たくさんの大人が自分の遊びに加わって、共感を示してくれたことへの最大限の驚きと喜びの表現だったのだろう。
久しく前にオランダの文化史家J.ホイジンガが書いて、思想界の流行語となった「ホモ・ルーデンス」という著作を思い出した。永遠の美の世界で、自己実現の意識など少しもなく、子どものように、毎日夢中に喜び遊んであきない者、それを本当の意味での芸術家という。「幼子の如くにならずば、天国に入ることなし」と。

Amira Willighagen - Results Finals Holland's Got Talent https://www.youtube.com/watch?v=rbt2yo4u1cU

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