高女の美術の担当教諭は、後年蕃光俳画で名を馳せる砥上重雄(蕃光)でした。
7年、東京の絵画修業時代を経て帰町した蕃光は、翌8年から高女の美術指導(嘱託)を行っていました。
蕃光の高女在籍は、14年1月までで、教え子の蕃光先生の思い出話の中に『芸術の授業で忘れられないのは、野幌で陶器の皿に絵を描き、本焼をしたこと』(江別高女五十年史)とあります。
これは、蕃光が9年から野幌にあった石狩陶園(のち石狩窯園)の絵付けを指導する立場にあり、その関係から高女生に陶芸への目を向けさせたと考えられています。
その石狩陶園は、7年7月、現在の野幌駅南口の東側にあった北窯(大正15年~昭和5年)の場所を借り、野幌煉瓦(株)の手により操業を開始したものです。
製品は、器が主体で、花瓶、鉢、皿、茶碗、湯呑み、とっくり、さかづき、灰皿、コーヒーカップ、煙草セットなど多種多様です。
なお、器というのは、粘土と溶け易い陶石を用いたもので、ちょうど陶器と磁器の中間的な焼き物のことです。
これら石狩陶園の製品を石狩焼と読んでいましたが、9月12日に落成したサッポログランドホテルの食器に使われると共に、同ホテルに展示売店が設けられるなど、早くから評判となっていました。
『江別野幌市街地石狩陶園の陶器並美術工芸品漆器類は、本邦まれにみる優秀品として品質及び優雅なる意匠は陶器愛好者より好評を受け居りたるも、高価な為、デパート等において販売されつつも広く認識されず、大衆化することもなく今日に至っています。
しかし、各地よりの注文も多く、これに応じ兼ねる盛況をしているので、最近設備の拡大と改善を計り』(昭和10.10.28付北海タイムス)云々と、開業3年上昇気流に乗ったことが報じられています。
この年、石狩焼は奥羽6県の工芸品展覧会、商工省主催の輸出品展覧会にそれぞれ入賞、パリの工芸品展覧会に出品要請があるなど、いわば有卦に入っていたのです。
11年秋、北海道で陸軍の特別大演習が行われた際には、宮内省より御酒せん(銚子)6千本の注文を受けました。
さらに、翌12年のドイツで開催された国際見本市では番茶器とコーヒーセットが入選、ドイツから多量の注文があるなど、この頃の石狩焼は日の出の勢いがありました。
しかし、14年7月、技術責任者でロクロの名人といわれた市原常次郎の死亡や、戦争の深刻化等により中断のやむなきに至りました。
その後、戦後再開されましたが、もはや往時の水準を保つことはできず、28年3月、閉窯となってしまいました。
なお、蕃光は、17年に石狩陶園を離れ、他に転じました。俳画での活躍は、戦後を待たなければなりませんでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」114-1115頁.
写真:石狩陶園時代の名ロクロ師、市原常次郎
同上書115頁掲載写真を複写・当ブログ掲載いたしております。
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