昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

静岡県藤枝市藤枝市南駿河台5-4-21  054-639-5711
コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

多眼のO

2022-07-31 10:29:15 | 日記
大阪関西万博のキャラクター「ミャクミャク」を見て、イイね、これって言ったら、「目玉多すぎない?ホント変なの好きだよね」と奥さん。

いやいや、目が多いのは昆虫や甲殻類、クモやムカデなど単眼複眼の組合せ、或は単眼のみで、この世界にも幾らでもいるでしょうに。

僕ら日本人にはロシア語表記文字として馴染みのあるキリル文字。正教会古代教会に保存されているスラブ語の本の中に、キリル文字のOの特殊な異体字として図の様なものが掲載されているそうです。「沢山の眼を持つ熾天使(セラフ)」の意とか。

天使長ミカエルの絵画にもよく描かれるようなクジャクのような羽根や肉体上の沢山の眼。
多眼的とも言われるように多様な側面から真実を見抜く、ひょっとしたらミャクミャクも、そんな高貴な存在かも知れません。

もっとも目玉に見えるだけで、実はカエルの卵みたいなもんで、ある日そこから一斉に孵化して・・・

「やめろ、バカ!気色悪い」と怒られちゃいました。

流れ星

2022-07-30 09:13:28 | 日記
木曜日になったばかりの午前2時。
南天の西から東へ向かって星が流れ、カシオペアの足元で消え去りました。

亀和田武氏のご指摘通り、この国の左翼勢力は今消滅に瀕しているのかもしれません。
知的論理性に基づく批判、論破の有効性の限界を感じます。

現実的には損得という欲へのアプローチが有効なのでしょうが、本質的には共感を得られるか否かではないかと思います。
詐欺でなければ勿論、現実性を伴ったうえで。

消えた流れ星を再現し提示することはボクには無理な話で、今となっては本当にあった事なのか幻想なのかの証明すらできません。
しかしボクの中では「物語」として存在し、それを基に脚色して「二次創作」を作り出すことはできます。

生物では達成しえないはずの「個の生存競争からの離脱」を果たして尚、
繫栄する知的生命体の種となりうる可能性を、内心人類に期待してしまう妄想ジジイです。

気は心

2022-07-29 09:26:42 | 日記
 ちさはまだ青ばながらになすび汁  何気なく立ち寄った島田市博物館のアプローチに芭蕉の句碑がありました。

元禄7年(1694)初夏五月中旬、大雨による3日間の大井川の川止めで島田宿の俳人塚本如舟邸に滞在した折、もてなされた食事に感謝して詠んだとか。既に終わったはずのちさ(チシャ菜)がまだ花もつかない青葉のまま、盛夏が旬のまだ早い初茄子の汁と共に供され、旬の妙味を知る俳人の心に深く響いたのかもしれません。

以前、県外からいらしたというお客様に「こちらは筍や椎茸の産地なんですか」と問われまして、そうですね、岡部の筍なんか有名かなとお答えしたら、訪ねたお宅で沢山ご馳走になりましたと仰られました。

ただ、実はどちらも不得手な食べ物だったとか。

そりゃ大変でしたね、ある意味災難だと申し上げたところ、「いえいえ、もてなして下さろうとするそのお心遣い大変ありがたかった」と。

ああ、まだこういう方がこの国にも残っていらっしゃるんだと驚き、ひょっとしたら、もう少しだけ大丈夫かもしれないと思ったことが、フィードバックされました。

燃える金閣寺

2022-07-27 09:30:43 | 日記
葉を伝う雨だれが零れ落ちる寸前で透明な玉を結んで、のぞき込むボクに、本来ボクの眼に運ばれる筈であった対面の景色を湾曲させ上下逆さまにして、その小さな空間に閉じ込めてしまいました。これが「認識」であると考えます。

世界を変貌させるのは認識であると説く柏木。いや、行為であると反発する溝口。(金閣寺 三島由紀夫)
1つの事象に対し、愛憎併せ持つアンビバレントな感情は、執着という観点からは同じものかと。

金閣寺に放火し、共に焼死を図るも失敗。
高いところから木造建築物が灰燼に帰す様を、煙草をふかしながら眺めていた彼は、生きようと考えます。

例えば元首相の国葬を見て、懸念されている神格化とは真逆に、憑き物が落ちる方も中にはいらっしゃるのかもしれないと、ふと思います。

魂消滅システム

2022-07-26 08:45:05 | 日記
明け方から降り出した雨は勢いを増して、健康診断でレッドカードを出され、早朝の坂道散歩を渋々日課にしなければならなくなったボクに「休んじゃえ」と囁きます。高きから低きに流れるは自然の理と身を委ねます。何の苦労もなくのほほんと楽しく暮らせたらいいのになあ。

先日youtyubeで、「なんちゃら25」という1960年代に行われたというネズミの実験の解説をチラ見しました。オス4、メス4匹を、充分な空間のある環境と住まいに、絶えることのない餌、水を設置し、外敵や病原菌を排除した状況に放したらどうなるか。

適応期を経て急増したネズミは、空間など幾らでもあるのに大小幾つかのハーレム常態であるオスを中心とした集団を形成、固定集団に属せず、集団間を行き来、特定個体に対するストーカー化、個室に籠りニート化するタイプが生じたそうです。

やがて大集団による他集団への圧迫や内部序列化抗争、メスのオス化(子を成さない、凶暴化)などが起こり最終的に全滅。25とは25回目の実験でありすべて同様の結末を迎えたとか。何の苦労もなく理で考えれば快適な生活でも、個である以上何らかの欲を持たざるを得ないのでしょうか。

ならば、例えば肉体すら失った魂というものがあるとするなら、個を維持するためには、より純粋に欲、意味付け、分別の塊たる必要があるわけで、それが集められた天国とは、いかなる地獄か。

ネズミと異なり、子を成さず自然減を図れない魂に永遠性があるのであれば、永遠に続くであろうその環境からの脱出こそ望みであり「救い」となるのかもしれません。

ああ、天国とは、自らの消滅を望むようになるためのシステムだったのか,
仏教と変わらないなと。