「自分なんてないのだから怒りなんて幻」という仏教真諦系と「自己が怒りと感じている以上存在する」というデカルト的合理論?のレスバ。
相手への個人攻撃がなければ結構面白いもんだなと見てました。
個人的にはこの場合「光の性質は波か粒子か」で争ってる気もしまして。「(一般的な)真実はいつも1つ!」なんてありえないと思ってます。
ふと、大乗仏教において全てのものにあるとされる仏性について、弟子がこの子犬に仏性があるか尋ねたところ、師は「無」と答えた公案を思い出しました。
オマエさんの頭ん中の「定義づけた仏性」なんてものはないよ。が、今日のボクの見方です。
例えば仏性≒慈悲とした場合,まず「他者の苦痛をとって“あげる”」という誤解・・やめましょう、蛇足に過ぎました。
木陰は、人に涼をもたらそうとして樹が造ったものではありません。
相手への個人攻撃がなければ結構面白いもんだなと見てました。
個人的にはこの場合「光の性質は波か粒子か」で争ってる気もしまして。「(一般的な)真実はいつも1つ!」なんてありえないと思ってます。
ふと、大乗仏教において全てのものにあるとされる仏性について、弟子がこの子犬に仏性があるか尋ねたところ、師は「無」と答えた公案を思い出しました。
オマエさんの頭ん中の「定義づけた仏性」なんてものはないよ。が、今日のボクの見方です。
例えば仏性≒慈悲とした場合,まず「他者の苦痛をとって“あげる”」という誤解・・やめましょう、蛇足に過ぎました。
木陰は、人に涼をもたらそうとして樹が造ったものではありません。