昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

ハロウィンの街角の神秘と憂愁

2022-10-31 07:26:03 | 日記
アマプラで新「うる星やつら」3回6話分観ました。作画も綺麗で声優さんも違和感あまりなく、阿良々木君をどこかで期待していたボクの想像を快く裏切ってくれました。原作に忠実なストーリーも面白いのですが、どこかに違和感。あれこれ考えているうちに、あーキリコだ!と気づきました。

例えば、おはようとリビングに入ると、テーブルの上には湯気の立つコーヒーに目玉焼きとトースト。左側のギリギリの起床で立ち食いしたようなパンくずが散らかる息子の席の皿の上には、フォークに刺さった食べかけのウインナ。シンクの洗い桶に注がれる水音・・・いつもの光景、でも誰もいません。

声をかけても返事なし。テレビをつけても映りません。荒々しくカーテンを開けて外を見ると静まり返って、車や人どころか鳥の声さえなし。と、カラカラと音。視線を向ければ「輪転がし」をする少女の影の様なものが一瞬見えたような・・・すぐに角を曲がって見えなくなって。

スプラッターやグロ、和風ホラーの様な恨みつらみの精神攻撃ではなく、日常とのほんの僅かなズレによる不安や焦燥、妄想と虚構。それが前作のうる星やつらアニメにはあったような気がします。

長期間放映されていたため原作だけでは追い付かず、オリジナルストーリーとして挿入された幾つかがそういうインスピレーションを刺激するストーリーだったのかもしれません。ただアニメ版うる星やつらはボクにとって、そのエッセンスも渾然一体化した作品として認知されているようです。

今日はハロウィン。お祭り騒ぎもいいですが、いつもの街角の、ちょっとしたズレを探してみるのも面白いかもしれません。


ひとり咲き

2022-10-30 07:43:40 | 日記
長崎土産をとどけに帰省した次女。序に持ってきた夏の残滓の花火を三女と始めました。

花火の季節はもう過ぎて、だれも見向きもしない・・・いえいえ澄んだ空気の中、時折吹く風に首をすぼめて見るのもなかなか捨てたもんじゃなく、閑散期に入った9月の海の様な哀愁さえ感じます。

燃えて散り 夢で咲く、か。

長女がラインで参戦したようで、ピコピコ賑やかになってきました。その内奥さんも参加して女子会は一層にぎわうのでしょう。

お父さんは一人自室にこもり布団をかぶります。

カランバ(はぁ) 

2022-10-29 08:53:42 | 日記
エチオピアロングベリー由来のジャバニカの甘く香ばしい香りを漂わせる今日から販売予定のニカラグアサンホセ農園パルプドナチュラルをローストしながら、今月の支払いが済んだ通帳を眺めます。

そう云えばサンホセって、お隣のコスタリカの都市の名前にもありました。どちらもスペイン語ですし文化的な類似点も多いのでしょうか。
ノーアイナーダ。何もないったら何もないという意味らしく、あちらではバカダラ節、日本でいう処の「一つでたホイのヨサホイのホイ」的な歌もあるそうで。

 何もないったら何もない ダメな奴には何にもないさ 強い奴なら急ぐこたアないさ・・・

前者はひたすらため息をつくだけでして・・・カランバ。

銀の雨

2022-10-28 08:07:21 | 日記
 これ以上 私が傍にいたなら 貴方は ダメになってしまうのね

そ、そんなことはない!悪いのは僕だ、何か方法が!きっと・・・



7月にHba1c12,4の通知が来てから、8月9,4、9月7,1と下がって昨日の健診では6,8。急ブレーキです。落ちにくいとは聞いていたのですが。
そう云えばダイエットされている方が、ある水準まではすごい勢いで体重落ちるけどそこからなかなか落ちなくなると言ってましたっけ。同じようなもんでしょうか。

やはり5,5まで落とすには新たな対策を追加しなければならないか。例えばインシュリンの分泌を阻害するものの排除、1日20本吸っている・・・
「○○○とサヨナラしなきゃダメかな」

ハッと気配に振り向けば、硬直して立つ○○○。肩の力を緩めると寂しそうに笑いながら口遊みだしました。



ボクは!ボクは・・・



非学問ノススメ

2022-10-26 07:45:50 | 日記
富洞院さん前の柿畑?で立ち止まって聴く朝六時の時鐘。

仁和寺のエリート僧が石清水八幡宮に詣でようとして、途中の寺社を目的地と思い込み、目的を果たせなかったことさえ気づかず帰ってきた徒然草のあの話。兼好法師は何事につけ案内は必要だといいます。

さて、合理的効率的に基づいた現代の案内人は、八幡宮までいかず映像にて来歴、様式を語り逸話を紹介し終了。そんなものだと聴講生。一番美味しい所を食べず、食べたという事実だけが文字として残ります。あーもったいない。

二句切れとか漱石への返歌とか、当日は雨で実際は行ってない、柿を食べながら聴いた前日の東大寺の初夜(20時)の鐘のパクリとか、そういう類はしゃぶりつくして暇を持て余した方がやるもんで。瑞々しい感性をお持ちの若い方に初見でやっちゃうなんて無粋極まりないことは、大NGじゃないかと兼ねがね思っています。

作者の精神世界の「作品」である僅か五七五の引き算の美学に、足してどうする。必要なら前書きしてあります。

旬の柿に齧り付いた瞬間のあの甘味と香り、響く鐘、古都奈良と暮れ行く秋。その和音に浸るだけ。

 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

10月26日作。これも蛇足ですが。