昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

経済学は物理学の夢を見る・・・か

2024-03-31 05:55:32 | 日記
2%のインフレ率維持を目標とする事。

微分を演繹とし積分を解と成す線形を基本としたほとんどの物理学において、そこに可逆性は存在します。
ただ、エントロピー増大でお馴染み熱力学系は異質で、ベースは確率。
そして統計学もまた確率をベースにします。

その統計学に基づく経済学の指標に可逆性はあるのでしょうか。

難しいことは判りません。
昨晩寝付けなかったせいか、まだ寝ぼけているようです。

学習

2024-03-30 08:12:57 | 日記
暖かい朝です。野鳥のさえずりに誘われて朝の散歩。
電線に雲雀でしょうか。横をカラスが飛び過ぎますが、我関せずの様子。

地表に巣を作る雲雀。雛の内はヘビや猫、イタチなんかと共に天敵のカラスですが、怖い思いをせずに大きくなったのか、それとも成鳥となれば襲われない学習をしたのか。

電車やバス、公共の場で、泣き止まないお子さんに手を焼く親御さんの姿はいつの時代でも見かけます。

おそらくご自分も過ごしてきたであろう子供(赤ちゃん)時代は無かったかの如く、白い目を向ける社会も如何なもんかと思いますが、対処に困るあまり、スマホやお菓子、ゲームを与えて大人しくさせる手段を多用するのには、少々危険性を感じます。

何故なら、「泣けば要求が叶う」というパブロフの犬が如き学習から、知恵がつけば「困らせれば要求が叶う」という現象を学んでしまうから。

やがてこの世界の主軸になる子供たちが身に付けてしまうのには、社会全体にとっても、かなりメンドクサイ脅威になり得ると感じています。
既に幼稚園、学生に留まらず成人の中にも、その兆候が見られる気もします。考えすぎかもしれませんが。

要求を成就させる為の別の手段を自ら思考できるよう、また、自分の要求を通すだけではない物の見方ができるようにしてもらうためには、親御さんや教育機関だけではない、社会全体としてのアプローチが必要なのかもしれません。

柄にもなくエラソーな事考えちゃいました。そして個人的偏見ではありますが、上記効果が累乗化するいいとこのお嬢さんお坊ちゃんであられるであろう国家のトップクラスや世襲議員が増えることを懸念する要因の1つでもあります。

桜一片

2024-03-29 08:00:58 | 日記
明日から開催予定の「桜まつり」の看板はずぶ濡れ、現在、大雨警報発令中。準備されている方には本当にお気の毒です。
でも、抑々ソメイヨシノは咲いているのでしょうか。そうそう望みは叶わないようです。

桜で思い出した記憶。

手の施しようがないといわれてから2ヶ月、お二人と一匹は頑張られました。
焼香に向かうのにも、思う様に歩の進まない奥様。背後の僕は、黒いワンピースの右肩にある白い小片に気が付きました。

 喪主竦むさくらひとひら肩をだく

介添えに動く女性、動かぬ僕。

なんだ、まだ一緒に居るじゃん。
あのゴツク大きかった手は、こんなに白く小さくなっちゃったけど。

雲上の城

2024-03-27 07:49:45 | 日記
公園から流れるラジオ体操の歌を聞きながら、見上げる雨上がりの空。例えばあの雲の上に城を築くという話を、信じさせ続けることができるのでしょうか。GDP内訳で巨額になった第一次所得収支。大半が再投資され国に還流されない現実にどう対処するかを話し合う懇親会が開かれたとか。

戦後行われた経済的比較実験。財閥を解体し小規模になった企業間の相互連結によるシステムと、大財閥を中心に集中させるシステム。
前者はやがて「1億総中流」と言われた現象に結実、2次受け3次受けを始め仕事は細分化、専門的特殊技術を生み出し、またある意味無駄な仕事も生み出しますが、総人口を国内で雇用できる体制を構築しました。

後者は、実力主義の格差社会を生み出し、合理的で無駄を省くため人口の多くは国外で働くこと余儀なくされますが、それ故外国語への適応力も高く、最先端技術習得にも貪欲さを見せました。

一長一短ありますが、そのどちらも現在苦境に立たされています。それは経済の主体自体が変わってしまったから。そして経済成長という呪縛。

成熟社会では当たり前とも言える人口減少に際し、国家単位の経済成長を余儀なくされるのであれば、グローバル化「経済的侵略」以外、既存の実体経済による対応では無理筋。IT化等による生産性向上は合理化効率化を伴う以上、正規雇用の確保は維持できなくなるのは自明の理。

だから投資。無限の価値を生み出す打ち出の小槌。但しその実態は不明。各種ある経済指標は統計的手法によるものである以上、「有意である」という意味は「確率的に可能性がある」ということで、「効力がある」という事ではありません。

「信じる事で、無いものを有ると考え、現実に影響を及ぼすことができる」ヒトの能力の賜物。
信じられなくなったら簡単に無に帰すのですが。






弦楽四重奏 死と乙女第2楽章

2024-03-26 07:54:40 | 日記
「春雨じゃ 濡れてゆこう」と気取ったものの、小雨はまだ冷たく、予定外に段々大きくなる雨音に、唇かみしめ俯き歩くことになった用水路脇。
生活水の流れも、音だけ聞く分には幾分鎮静効果があるか な~んて考えながら。

群れを襲うライオンに捕えられた子供のヌー。その凄惨な食事光景の映像を観ていられなかったと話す心優しいお客様、あまりにも酷いと。それが「弱肉強食は自然のルール」と表現するものと同じであるという事は、お分かりに成っていても受け入れ難いのかもしれません。

その捉え方が間違っているとは言えませんし、かと言って弱肉強食という見方が間違っているとも言えない。何れも生物が存在するためのサイクルという事象に意味付けをし物語化して、どこからどう見るかの違いでしかないのです。この場合の強弱は物語でしかありません。

そして人が生きるためには、この物語という虚構が重要であるという事。論理的思考を持ってしまったヒトは物語なしでは生きていけません。何故ならどう意味づけしようと自由なのですから。

不治の病に侵されたと知った20代後半のシューベルトが綴った幻想四重奏第2章。死という訳のわからない恐怖と絶望に打ちひしがれた葬送行進曲のような序盤から、受け入れの境地、そして死を超越した生き方=物語の生成へと展開している気がします。

物の見方は一つではないという事、凡そ他者に対する否定的でしかない感情に囚われた時、また自己正当性を確信し慢心した時などは勿論、日常的にもバランスをとるのに有用であると考えます。

何か目標を定める際にはブレーキとして機能することが多い為、損得や効率重視が前提なら邪魔でしかないですが。
「塞翁が馬」も頭も片隅にでも。