紫峰家の祈祷所の封印が再び解かれ、透と雅人は相伝のための修練を開始することになった。
前修行の時とは違い、今度はおおっぴらにこの建物を使うことができる。
透と雅人はやや緊張した面持ちで扉を開けた。
前修行を行った祈祷室の脇にあるもう一つの修練場で修が待っていた。勿論、今回は修も実体のままだ。修の前には三つ一輪挿しが置かれてあって、それぞれにガーベラの花が挿してあった。
「ここから先はもう前修行ではない。すでに相伝を開始したものと心得なさい。」
二人の顔を交互に見ながら修は静かに語り始めた。二人は姿勢を正した。
「雅人は前修行をしていないが、前修行の目的は精神面の足りない部分を補うことにある。人によって修行内容が違うのは当前のこと。
だから正式ではないが、あの長老会議の夜に…終わらせたと言えなくはない。」
雅人は顔を赤らめて視線を落とした。胸の中に押し込めておいたものを吐き出すように、思いっきり泣いたことを言っているのだと分かった。透が何も言わないでいるのはすべてを知っているからなのだろう。透のチカラならそんなことは朝飯前だ。
「ここに活けてある花を見ておいで。」
修はそう言うと静かに目を閉じた。
修の前に置かれている三本のガーベラのうち、修に一番近いものがあっという間にしおれ、枯れ、ついには茶色く干からびてしまった。
透も、雅人も、この程度ならいけそうだと秘かに思った。
やがて、二人の目の前でガーベラは再び復活を始めた。まるで時を戻しているかのようにみずみずしさを取り戻し、色づき、花をもたげ…。
「いま、おまえたちはこのくらいのことなら自分たちにもできると感じているだろう。
それはそれでいい。それだけのチカラがなければ相伝など問題外なのだから。
ただし、これから起こることとの現象の違いをよく観察しておきなさい。」
修は目を開くと、彼らの心を見透かしたかのように言った。
修は深く呼吸をすると再び目を閉じた。今度は片手をガーベラにかざしている。
ガーベラは頭を垂れることもなく、枯れることもなく、外見的には変化が見られないように思えた。しかし、形はそのままなのに生きた花という感じがしなくなり、まるで造花のように輝きを失った。
『魂を抜かれた。』と二人は感じた。
修が手のひらを上に向けるとかすかに揺らめく光のようなものが見えた。それはガーベラの方にスーッと吸い込まれていき、作り物のようだったガーベラに生気が宿った。
二人は息を飲んだ。『こんなことできるだろうか。』
幽体離脱という現象は、宗教における修練や科学的な刺激を脳に与えることによって可能であると聞いている。現に修が前修行の時にやって見せた。
だが、それはあくまで自分自身の魂を自分でコントロールする能力や、特殊な装置があってのことで、自分以外の何者かの魂をどうこうするというものではない。
透も雅人もちょっとしたいたずらで誰かを転ばしたような経験はあるが、そんなお遊び程度の能力とは次元が違い過ぎる。
「さあ、そこにある花を使ってやってみなさい。慎重にね。どんな相手に対しても御霊には礼を尽くすこと。更に気をつけなければならないことは相手から抜いた御霊を無くさないこと。
おまえたちが扱っているのは命だということを決して忘れないこと。」
修にそう促されてガーベラを前にしたはものの、二人とも初っ端から戸惑っていた。
雅人が先に始めたが方法が掴めず、どうしてもガーベラが枯れてしまう。それは透も同じだった。
繰り返し繰り返し何度も何度も試みるが、修が見せてくれたような結果には到らなかった。
修は黙ったままじっと二人の修練する姿を見ていた。二人がどれほど同じ失敗を繰り返そうと、はたまたとんでもない現象を引き起こそうと、怒りもしなければ、それ以上教えようともしなかった。
「初日は…まあ…こんなものだな…。」
二人のさんざんな失敗のおかげでピカソ張りのアート作品に仕上がったガーベラを一瞥しながら修は呟いた。
「修さんは…こんな難しいことを本当に…五歳までにマスターしたの?」
肩で息をしながら雅人が訊いた。疲れてひっくり返っていた透も半身を起こして修の顔を見た。
何かのショックを受けたように突然修の肩が震え出した。二人は驚いて顔を見合わせた。
「僕には…時間がなかった…。失敗なんて…許されなかった…。」
下唇を固く噛み締め、思い詰めたように床に視線を落としていた。
透たちには、修が何か過去のことを思い出しているように見えたが、それは決して楽しいものではなかったようだ。
和彦が亡くなるまでの修の過去については誰も知っているものはいなかった。どのような環境で、どのような教育を受けて育ったのか一切謎だった。
過去に触れられただけでこれほど動揺する修の姿を、生まれたときから一緒に暮らしている透でさえ見た事がなかった。いらぬことを思い出させてしまったと雅人は後悔した。
しばらくして不安そうに自分を見つめている二人の視線に気付いた修はようやく我に返った。
「ああ…ごめん…考え事をしてた。」
何事も無かったかのようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
透も雅人もその場ではほっとしたものの、この相伝という儀式が修に何か想像を絶する苦しみを与えたのだということだけは察せられて、不安な気持ちを完全には消し去ることができなかった。
次回へ
前修行の時とは違い、今度はおおっぴらにこの建物を使うことができる。
透と雅人はやや緊張した面持ちで扉を開けた。
前修行を行った祈祷室の脇にあるもう一つの修練場で修が待っていた。勿論、今回は修も実体のままだ。修の前には三つ一輪挿しが置かれてあって、それぞれにガーベラの花が挿してあった。
「ここから先はもう前修行ではない。すでに相伝を開始したものと心得なさい。」
二人の顔を交互に見ながら修は静かに語り始めた。二人は姿勢を正した。
「雅人は前修行をしていないが、前修行の目的は精神面の足りない部分を補うことにある。人によって修行内容が違うのは当前のこと。
だから正式ではないが、あの長老会議の夜に…終わらせたと言えなくはない。」
雅人は顔を赤らめて視線を落とした。胸の中に押し込めておいたものを吐き出すように、思いっきり泣いたことを言っているのだと分かった。透が何も言わないでいるのはすべてを知っているからなのだろう。透のチカラならそんなことは朝飯前だ。
「ここに活けてある花を見ておいで。」
修はそう言うと静かに目を閉じた。
修の前に置かれている三本のガーベラのうち、修に一番近いものがあっという間にしおれ、枯れ、ついには茶色く干からびてしまった。
透も、雅人も、この程度ならいけそうだと秘かに思った。
やがて、二人の目の前でガーベラは再び復活を始めた。まるで時を戻しているかのようにみずみずしさを取り戻し、色づき、花をもたげ…。
「いま、おまえたちはこのくらいのことなら自分たちにもできると感じているだろう。
それはそれでいい。それだけのチカラがなければ相伝など問題外なのだから。
ただし、これから起こることとの現象の違いをよく観察しておきなさい。」
修は目を開くと、彼らの心を見透かしたかのように言った。
修は深く呼吸をすると再び目を閉じた。今度は片手をガーベラにかざしている。
ガーベラは頭を垂れることもなく、枯れることもなく、外見的には変化が見られないように思えた。しかし、形はそのままなのに生きた花という感じがしなくなり、まるで造花のように輝きを失った。
『魂を抜かれた。』と二人は感じた。
修が手のひらを上に向けるとかすかに揺らめく光のようなものが見えた。それはガーベラの方にスーッと吸い込まれていき、作り物のようだったガーベラに生気が宿った。
二人は息を飲んだ。『こんなことできるだろうか。』
幽体離脱という現象は、宗教における修練や科学的な刺激を脳に与えることによって可能であると聞いている。現に修が前修行の時にやって見せた。
だが、それはあくまで自分自身の魂を自分でコントロールする能力や、特殊な装置があってのことで、自分以外の何者かの魂をどうこうするというものではない。
透も雅人もちょっとしたいたずらで誰かを転ばしたような経験はあるが、そんなお遊び程度の能力とは次元が違い過ぎる。
「さあ、そこにある花を使ってやってみなさい。慎重にね。どんな相手に対しても御霊には礼を尽くすこと。更に気をつけなければならないことは相手から抜いた御霊を無くさないこと。
おまえたちが扱っているのは命だということを決して忘れないこと。」
修にそう促されてガーベラを前にしたはものの、二人とも初っ端から戸惑っていた。
雅人が先に始めたが方法が掴めず、どうしてもガーベラが枯れてしまう。それは透も同じだった。
繰り返し繰り返し何度も何度も試みるが、修が見せてくれたような結果には到らなかった。
修は黙ったままじっと二人の修練する姿を見ていた。二人がどれほど同じ失敗を繰り返そうと、はたまたとんでもない現象を引き起こそうと、怒りもしなければ、それ以上教えようともしなかった。
「初日は…まあ…こんなものだな…。」
二人のさんざんな失敗のおかげでピカソ張りのアート作品に仕上がったガーベラを一瞥しながら修は呟いた。
「修さんは…こんな難しいことを本当に…五歳までにマスターしたの?」
肩で息をしながら雅人が訊いた。疲れてひっくり返っていた透も半身を起こして修の顔を見た。
何かのショックを受けたように突然修の肩が震え出した。二人は驚いて顔を見合わせた。
「僕には…時間がなかった…。失敗なんて…許されなかった…。」
下唇を固く噛み締め、思い詰めたように床に視線を落としていた。
透たちには、修が何か過去のことを思い出しているように見えたが、それは決して楽しいものではなかったようだ。
和彦が亡くなるまでの修の過去については誰も知っているものはいなかった。どのような環境で、どのような教育を受けて育ったのか一切謎だった。
過去に触れられただけでこれほど動揺する修の姿を、生まれたときから一緒に暮らしている透でさえ見た事がなかった。いらぬことを思い出させてしまったと雅人は後悔した。
しばらくして不安そうに自分を見つめている二人の視線に気付いた修はようやく我に返った。
「ああ…ごめん…考え事をしてた。」
何事も無かったかのようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
透も雅人もその場ではほっとしたものの、この相伝という儀式が修に何か想像を絶する苦しみを与えたのだということだけは察せられて、不安な気持ちを完全には消し去ることができなかった。
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