『囮になってもらえないか。』
修からそう申し出があった時、雅人は正直戸惑った。相手は得体の知れない化け物。自分はそれほどの力を持ってはいない。冬樹のようにまったく無力というわけではないが、それでも一左を封じ込めるほどの相手にいったい何ができようか。
しかし、冬樹の無念を思えば躊躇している場合ではない。弟の死を知らされた時のあの胸の痛みは今も消えないでいる。
それに…修には一生かけて余りあるほどの恩義がある…と雅人は思った。
雅人のそんな思いを察したのか、修は真剣な面持ちで雅人を牽制した。
『僕への義理で引き受けるのだけはやめて欲しい。おまえが命を懸けるほどのことは何もしてあげてはいないのだから…。
断ってくれていいよ。
こんな話を持ってくること自体が非常識なんだ。酷い奴だと思ってくれて構わない。』
ごめんな…とでも言いたげに雅人の目を見つめた。
いつも…そうだった。修は何の見返りも求めない。黙って雅人と母親を護ってくれた。紫峰家が無情にも雅人の母親を追い出した後も、豊穂の意思を継いだ修が、秘かに援助の手を差し伸べてくれていた。きっと、弟の冬樹や雅人にとっては義理の兄にあたる透も同じように修に護られてきたに違いない。
幼いながらに紫峰家の収支に口を出せる立場にあったとはいえ、大勢の大人相手に彼がどれほどの苦労をしてきたかを思うと、雅人は申し訳けない気持ちでいっぱいになる。
冬樹の供養のためにと修の申し出を受けて、紫峰家でともに暮らすようになってから、ますますその思いが募るのを感じていた。
一左の警戒を解くために、雅人は何のチカラも持っていない振りをした。ソラとも話さず、極力普通の少年を装った。透に対しても、だれそれのニューシングルが安く手に入ったとか、ダウンロードしたソフトがいまいちだったとか、同年代の少年たちの間で交わされるような会話だけを心がけた。
その甲斐あってか一左は雅人を完全に無能力であると看做すようになった。さらに一左を油断させたものは雅人の人懐っこい容姿だった。
修は知的で端正だが二十代にしてはあまりに老成し過ぎ、その胸の内は一左の理解を超えていて、ある種の恐怖さえ覚えることがある。
透は豊穂に似て優しい顔立ち容姿をしている。いかにも親しげに人に接するが、容易に他人を受け入れず、決して本心を見せない。一左にとっては要注意人物だ。
雅人は身の丈1.9メートル、傍から見て決して低いとは言えない修や透と比べても頭一つ大きい。愛嬌のある顔と穏やかな声が人に安心感を与える。よく笑い、あけっぴろげな性格のようで、一左には単純でわかりやすい男のように思えるのだ。
雅人の努力の賜物か、一左からは日に日に警戒心が薄れていった。
そんな折、藤宮の嫁から温泉旅行への招待が届いていると貴彦から連絡があった。藤宮からは家族全員を招待すると言って来たが、貴彦と修は仕事が、子供たちは学校があるので行けない。一左だけでも招待を受けてはどうかというものだった。
一左はせっかくの好意を全員が無にはできまいと言い、藤宮の嫁の招待を受けると返答した。雅人がいかにも残念そうな顔をして、『僕も行けたらいいのになあ。』などと溜息混じりに言った。一左はすっかり気をよくして、もはや疑う気持ちなどかけらも無かった。
数日後、藤宮の嫁、時子の手配で高級車が一左を迎えにやってきた。勿論、時子自身も一緒で、この人の良いボランティア精神旺盛な婦人は、心から一左を歓迎し、孫を失った老人の心を慰めるための温泉旅行へと連れ立って行った。
次回へ
修からそう申し出があった時、雅人は正直戸惑った。相手は得体の知れない化け物。自分はそれほどの力を持ってはいない。冬樹のようにまったく無力というわけではないが、それでも一左を封じ込めるほどの相手にいったい何ができようか。
しかし、冬樹の無念を思えば躊躇している場合ではない。弟の死を知らされた時のあの胸の痛みは今も消えないでいる。
それに…修には一生かけて余りあるほどの恩義がある…と雅人は思った。
雅人のそんな思いを察したのか、修は真剣な面持ちで雅人を牽制した。
『僕への義理で引き受けるのだけはやめて欲しい。おまえが命を懸けるほどのことは何もしてあげてはいないのだから…。
断ってくれていいよ。
こんな話を持ってくること自体が非常識なんだ。酷い奴だと思ってくれて構わない。』
ごめんな…とでも言いたげに雅人の目を見つめた。
いつも…そうだった。修は何の見返りも求めない。黙って雅人と母親を護ってくれた。紫峰家が無情にも雅人の母親を追い出した後も、豊穂の意思を継いだ修が、秘かに援助の手を差し伸べてくれていた。きっと、弟の冬樹や雅人にとっては義理の兄にあたる透も同じように修に護られてきたに違いない。
幼いながらに紫峰家の収支に口を出せる立場にあったとはいえ、大勢の大人相手に彼がどれほどの苦労をしてきたかを思うと、雅人は申し訳けない気持ちでいっぱいになる。
冬樹の供養のためにと修の申し出を受けて、紫峰家でともに暮らすようになってから、ますますその思いが募るのを感じていた。
一左の警戒を解くために、雅人は何のチカラも持っていない振りをした。ソラとも話さず、極力普通の少年を装った。透に対しても、だれそれのニューシングルが安く手に入ったとか、ダウンロードしたソフトがいまいちだったとか、同年代の少年たちの間で交わされるような会話だけを心がけた。
その甲斐あってか一左は雅人を完全に無能力であると看做すようになった。さらに一左を油断させたものは雅人の人懐っこい容姿だった。
修は知的で端正だが二十代にしてはあまりに老成し過ぎ、その胸の内は一左の理解を超えていて、ある種の恐怖さえ覚えることがある。
透は豊穂に似て優しい顔立ち容姿をしている。いかにも親しげに人に接するが、容易に他人を受け入れず、決して本心を見せない。一左にとっては要注意人物だ。
雅人は身の丈1.9メートル、傍から見て決して低いとは言えない修や透と比べても頭一つ大きい。愛嬌のある顔と穏やかな声が人に安心感を与える。よく笑い、あけっぴろげな性格のようで、一左には単純でわかりやすい男のように思えるのだ。
雅人の努力の賜物か、一左からは日に日に警戒心が薄れていった。
そんな折、藤宮の嫁から温泉旅行への招待が届いていると貴彦から連絡があった。藤宮からは家族全員を招待すると言って来たが、貴彦と修は仕事が、子供たちは学校があるので行けない。一左だけでも招待を受けてはどうかというものだった。
一左はせっかくの好意を全員が無にはできまいと言い、藤宮の嫁の招待を受けると返答した。雅人がいかにも残念そうな顔をして、『僕も行けたらいいのになあ。』などと溜息混じりに言った。一左はすっかり気をよくして、もはや疑う気持ちなどかけらも無かった。
数日後、藤宮の嫁、時子の手配で高級車が一左を迎えにやってきた。勿論、時子自身も一緒で、この人の良いボランティア精神旺盛な婦人は、心から一左を歓迎し、孫を失った老人の心を慰めるための温泉旅行へと連れ立って行った。
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