元禄年間に開削が行われた、江戸の上水道のひとつ、千川上水。
現在、練馬区以東は西武新宿線との交差部数m以外、暗渠となっています。
その暗渠へは、本来開削された凹部に1000mmのヒューム管が埋められており
一部区間を除いて通水していない状態のまま
通常の上下水道とは別に、千川上水として管理されています。
このヒューム管は以前、観察する機会があったのですが、
今回はじめて、開渠時代の遺構を見る機会に恵まれました。
護岸は舗装面下30~50cmを最上面として、
L字型に切込み接ぎで組まれているように見受けられます。
流路の埋め立てには、道路工事の際の現状復帰用の土砂としては使われない
大きめの丸い石などが多く見られます。
これは昭和三年の暗渠化工事に際して、使われたもののようです。
その上部に路面用の土、舗装工事用土砂、舗装面と重なります。
その使用土砂の材質に、時代ごとの技術が反映されている
いわば「土木技術の地層」でもあるわけです。
東京空襲で焼け残った稀有な場所だからこその
貴重な近代遺産のひとつではないでしょうか。
(護岸の石組遺構)
(通常の舗装では使用されない大きめの石も散在)
*画像は全て許可を得て撮影しております。
現在、練馬区以東は西武新宿線との交差部数m以外、暗渠となっています。
その暗渠へは、本来開削された凹部に1000mmのヒューム管が埋められており
一部区間を除いて通水していない状態のまま
通常の上下水道とは別に、千川上水として管理されています。
このヒューム管は以前、観察する機会があったのですが、
今回はじめて、開渠時代の遺構を見る機会に恵まれました。
護岸は舗装面下30~50cmを最上面として、
L字型に切込み接ぎで組まれているように見受けられます。
流路の埋め立てには、道路工事の際の現状復帰用の土砂としては使われない
大きめの丸い石などが多く見られます。
これは昭和三年の暗渠化工事に際して、使われたもののようです。
その上部に路面用の土、舗装工事用土砂、舗装面と重なります。
その使用土砂の材質に、時代ごとの技術が反映されている
いわば「土木技術の地層」でもあるわけです。
東京空襲で焼け残った稀有な場所だからこその
貴重な近代遺産のひとつではないでしょうか。
(護岸の石組遺構)
(通常の舗装では使用されない大きめの石も散在)
*画像は全て許可を得て撮影しております。