永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

あの頃。人はこころを旅していた。

2009-04-30 19:53:34 | 日記・エッセイ・コラム
70年代はじめの頃、当時フォークが流行っていて、小倉魚町のレコード店の前を通ると「♪僕の髪が肩まで伸びたら君と結婚しようよ♪」吉田拓郎の歌が流れていた。喫茶店に入ると「♪愛は愛とてなんになる♪」あがた森魚の歌が流れていた。ヤマハ小倉店ではどちらかと言うとロックなどの洋楽ものが主流だった。その頃の小倉と言えば町の通りはかなりの人でいっぱいだった。当時の時代はとにかく働くだけの社会で、あまり娯楽というものはそんなに無い時代で、休みの日はせいぜい映画くらい。そろそろ音楽がフォークやロックなどが若者の生活と一体化しはじめた頃だ。
昨日、リサイクルショップ(昔は古本屋だった。その頃は門司にはまだ貸し本屋があった。)で、なぎら健壱さんの「日本フォーク私的大全」を手にした。なつかしいフォークのミュージシャンが出てくる。巻末の日本フォーク年譜に当時の全国ライブハウスの一覧リストがあり、その中になつかしい下関の「TOMO」の店名があった。唐戸にあったライブハウスだ。店主が田代友也さんというミュージシャンで、中央の音楽界で活動していたが、なぜか唐戸が気にいって店を出してしまった。彼のミュージシャン仲間が中央から来店コンサートをしていた。フォークミュージックは80年はじめまで息が続いていた。今思えば、唐戸や門司港はその当時は港町といった風情が漂っていて今みたいに観光的な場所ではなかった。どちらかと言うと港湾地区にはあまり人は寄りつかない別世界だつた。港には船からの荷揚げの人たちが多く働いていた。僕は田舎の出なので、港町と言うとイコール都会と言うイメージがあって、休みの日になるとスケッチブックとカメラを持って桟橋で日長一日過ごすことが多かった。門司港の町にはギリシャやロシア、フィリピンの船員さん達が歩いていた。やはり門司港という町でも国際都市であり、当時、門司港の町には外国人の船乗りさん相手のバーがあった。和布刈(めかり)(今で言うノーフォーク広場にあるレストラン)にはノルウエー教会といってノルウエーの船乗りさんの社交場があった。門司港に寄港した時にこの教会で礼拝していた。その後フォークはポップスの流れになりニューミュージックにDNAが繋がっていったように思う。いわゆるメッセージソング的な四畳半フォークが本格的なミュージックとして質を変えていったような気がする。
あがた森魚さんなどもよく来ていた。田代さんがLPを出す企画が出て、僕はジャケットデザインを手伝った。構成主義的なデザインにして、唐戸の海岸で写真も撮った。そのデザインはグラフィックデザイン年鑑やパッケージデザイン関係の本などに取り上げられた。印刷の予算があまりとれないのでと2色でフルカラーの雰囲気を出した。その効果がおもしろがられた。今でいうCDはその頃はまだ登場していなく、大判のLPだからスタッフみんなで東京の音楽シーンの既成にとらわれない地方発のおもしろいものをつくろうと燃えたことを思い出す。そのレコードタイトルから、僕は映画のワンシーンをアイデアを比喩させて物語性を出した。もう26年前にもなるデザイン作品だ。まだアナログな時代のデザインだ。001〈ジャケットデザイン(C)HIROMI NAGANO〉



最新の画像もっと見る

コメントを投稿