かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

ブログ版 馬場あき子の外国詠421(ドイツ)

2018年07月29日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
   【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁~
    参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子
   司会とまとめ:鹿取 未放
  

421 マーラーの曲高まれる窓の外(と)の闇に物食む猫の音する

     (レポート)
 「マーラーの曲高まれる」は「窓の」そして「外(と)の闇に」まで掛かると解したい。そこに物食む猫の音がする。動物の生きる本然たる物食む音を消していない。後述のマーラーの概要に頼るのだが、万象を包み込む壮大で雄渾たる曲の「高まれる」とは、ささやかな音を一首に対比するというような思惑を超えており、命の営みを湛える視点をもって詠われたのだと思う一首である。    (慧子)
  *マーラー:西洋のクラシック音楽の大作曲家達の中で故郷を持たない唯一の存在だ。ドイツ        語圏の外れ、オーストリア帝国の三重文化地域(ドイツ、ユダヤ、スラブ)に生        まれ、民族主義的な時代にあって、国家的なところに根を下ろしていないと言わ        れる。彼の交響曲に代表的な「大地の歌」があり、壮大で類例がないほど語りか        ける力を持っている。『ソルフュージュ選書 マーラー』(白水社)

     (紙上参加意見)
 ホテルに泊まっている時の歌だろう。外ではマーラーの曲が高らかに鳴り、きこえてくる。そんななかで猫が何かを食べる音がしている。猫はすぐ窓の近くにいるのだろう。静まりかえった夜の闇を想う。ラインのほとりで、夜のホテルで、マーラーの曲が鳴っている。といってもマーラーのたくさんあるどの曲を思い浮かべたらいいのか。初期の歌曲なのか、それともたくさんある交響曲の一つか、その中のアリアなのか……と想像してみる。
 ユダヤ系のマーラー、キリスト教に改宗したマーラー、作曲家として二十世紀に入りその業績が認められた偉大なマーラー、マーラーと聞くだけでわが胸は高まるのだが……。妻に去られ、娘は病死という悲運の中で、自らも病に倒れ、最後の「交響曲10番」は未完に終わる。作者はマーラーへ強い思いがあったのだろうか。生誕百五十年、二年前はマーラーイヤーだった。(藤本)


      (当日意見)
★先生は部屋の中にいた。窓の外を覗いたら、マーラーの曲とは対照的に猫がものを食べていた。
   (曽我)
★面白い取り合わせで、こういう発想は考えられない。マーラーの曲も猫の食べる音も両方聞こえ
 ているというところがユニーク。(T・H)
★作者は猫のそばにいるのではないか。(慧子)
★いや、室内にいてマーラーの曲に耳を傾けていたけれど、何か気配を感じて窓を開けてみたら、
 すぐ下に猫が何か食べていて、食べる音が聞こえた、というんじゃない。藤本さんの意見は、窓
 の外にマーラーが鳴っているということですが。(鹿取)

    (まとめ)
 マーラーの曲はどこで鳴っていたのか、内か外か両方の意見があった。しかし「窓の外の闇」だから、闇の中でマーラーが鳴っているとは考えにくい。闇の向こうの遠くから聞こえるとすると「高まる」とまではいえないだろう。ということは室内でマーラーが演奏されていて、その外の闇に猫がいるという構図になる。楽曲の高まりの中で猫がものを食む音が聞こえる(もしくは気配が感じられる)としたらよほど窓際にいたことになる。それとも窓は開いていたのだろうか?ロビーのような場所で生演奏を聴いていたのだろうか。(鹿取)

 ※後日藤本さんより、レポーターのマーラーについての解説の件で「一冊の本をこんなふうに抜
  粋すると正確さを欠き、誤解を招く。筆者が誰かも書いてほしい。」という意見が寄せられた。
  筆者はマルク・ヴィニヤルだそうだ。(鹿取・注)




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