かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 221

2015年05月23日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究27(15年5月)【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)92頁
   参加者:石井彩子、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:石井 彩子
   司会と記録:鹿取 未放


221 秋津島にゴータマ・ブッダなけれども非想非非想鳥雲に入る
                        {注1}
      (レポート)(15年5月)
天照大御神(神道)につながる、日本の国、秋津島にゴータマ・ブッダは誕生しなかったが、非想非非想鳥は私たちを導き、煩悩から救ってくれるのだろうか、今、仏の最高の境地である「有頂天」への高みに飛翔して、雲に入ったところだ。  
秋津はトンボの古称である。『古事記』によれば、イザナギ、イザナミの二柱の神は男女の交わりをして、大八島を構成する島々を生み出した。その島の一つ本州が大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)と記され、転じて日本全体の異名となった。「秋に成ると稲の豊作を象徴するトンボが出(いずる)島」→「秋津嶋」ともいわれている。四季に恵まれ、自然の秩序に順応して、神秘を感じ、畏れを抱いて生きる風土で、人々は自然を崇拝し、多神教的アニミズム信仰を生んだ。一方、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年とされ、当初は「皇族・貴族」のための宗教だったが、鎌倉時代以後、民衆にも受け入れられた。現代信者数は8690万(統計局HP-第六十四回日本統計年鑑){注2}とされている
注1 「鳥雲に入る」 :春の季語。春に北方に帰る渡り鳥が、雲間はるかに見えなくなること。
            『歳時記』
注2 この数は現実を反映していない。国民の多くは宗教儀礼には参加するが、宗教を問われて、
   無宗教と答える。


      (参考)(15年5月)(鹿取)
   なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。
   非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非
   無想なるが為に内道を説く仏教においては、なお、これを生死の境とする。
      (『倶舎論』)


     (当日意見)(15年5月)
★世親という人が作ったインドの仏教書に『倶舎論(くしゃろん)』というのがあります。そ
 こで三界(無色界・色界・欲界)の内、最上の場所である無色界の最高天を有頂天または、
 「非想非非想天」と言うとあります。それで(参考)にあげましたように仏教以外では「非
 想非非想天」を悟りと考えるのですが、仏教では「非想非非想」というのはまだかすかに思
 いが残っているので輪廻のうちにあると考えるようです。(鹿取)
★レポーターは「非想非非想鳥」と一つの名詞として解釈されましたが、私は「非想非非想」
 と「鳥雲に入る」は別の言葉だと思います。私はこの歌大好きですが、「秋津島」と結句の
 春の季語がかす かに衝突するような気がして気になります。でも、「日本」とか言ったら
 全然つまらない歌になるし、固有名詞だからこだわる方がおかしいかもしれません。一首は
 「秋津島にはゴータマ・ブッダは誕生しなかった、そして〈われ〉は「非想」とか「非非想」
 とか時折考えてみることもあるけど、空高く渡り鳥が雲に消えてゆくのがみえるよ」と憧れの
 気分で空を見上げている歌かなあと思います。(鹿取)
★石井さん、鹿取さん、両方の意見に納得できると思いました。「非想非非想」でも「非想非非想
 鳥」でもそんなに違わないように思います。「鳥雲に入る」は春の季語だけど、短歌なんだから
 いい んじゃないですか、自由に使って。神道というのはほとんど思想がないんですよね。それ
 に思想があ る仏教と対比でやったんだろうから、秋津島というしかないんじゃないですか。
  (うてな)
★なるほどね、すごくよくわかりました。いいこと言ってくれて助かりました。私に思いこみがありま
 したよね。確かに鳥だって「非想非非想」ってあるかもしれないですからね。人間だけもの考えるっ
 て傲慢かもしれないですね。(鹿取)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿