かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠282(中国)

2014年09月02日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の旅の歌【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)178頁
               参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                レポーター:T・H
                 司会とまとめ:鹿取 未放


222 人いまも李広杏(りくわうあんず)と呼ぶ杏購ひて猛将のひと生あはれや

      (レポート)(2010年6月)
 李広は大変な弓の名手で、一念をもって当たれば何事も可能という「石に立つ矢」のことわざも彼から出た、というほどの人である。また若い頃は皇帝の面前で羆と戦い、拳で倒したという逸話もある勇猛な人物である。
 馬場のエッセーによると、李将軍の人となりは、戦闘の後兵が水を飲み終わるまでは自ら飲まず、食べ終わるまでは自ら食べず、人望は比べるものがなかったという。この慎み深い性格から「桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す」のことわざもできたという説もある。(ちなみに、敦煌あたりでは「李広杏」の他に「李広桃」というのも名産としてあるらしい。)しかし、文帝、景帝、武帝三代に仕えた李広は、次第に老い、若い衛青・霍去病などの活躍する前線からは遠ざかった。最後は願って前線に出たが、道に迷い衛青・霍去病らの臨んだ決戦に遅れ、自分の時代が去ったことを悟って自刎したと伝えられる。若い衛青は李広同様に謙虚な性格で、位が李広を超えても彼を敬愛していたという。勇猛ながら結果としてはあまり恵まれなかった武人李広の植えた杏が、その名をつけて今も売られており、その杏を作者は猛将をしのんで買ったという。
 大幅な字余りになった下の句に深い詠嘆と、懐かしくしみじみとした情感がある。(鹿取)


     (レポート)(2010年6月)
 先生は李将軍の一生を哀れに思われて、その杏を求められた。(T・H)


* 219~222番歌の李広についての記述は、本史氏の小説『飛将軍李広』や
  Wikipediaの記事等を参照した。ちなみに、本史氏は本邦雄の御子息である。


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