citron voice

詩人・そらしといろのブログ~お仕事のお知らせから二次創作&BL詩歌まで~

今度こそ、君に、貴方に、あの人に…

2009-02-15 17:50:52 | つくりばなし
いつからだったか覚えていないが、ずっと喉の調子がおかしく、喉の奥がちくちく痛み、声がしゃがれている。
それが今朝、大学のゼミ仲間からかかってきた携帯電話に出ようとしたら、とうとう声が出ない。
慌てて、電話の用件をメールで返事するのと一緒に、今日は自主休講することを伝える。
熱っぽさは感じないから、流行のやっかいな病気とは違うだろう。

健康だけは自慢で、小中高と皆勤賞こそ取っているが、成績はそれに比例するわけではない。
昨日までは大学に入学して以来、一度たりとも授業を休んだ事がなく、更に、一人暮らしを始めたこの土地の病院に行くのは初めてだ。
だから何処其処の病院が良いだとか悪いだとか、ご近所の評判を知らないまま、はて、こんなところに病院なんてあったかしらと、僕は一軒のそれと思しき建物の前に辿り着いた。

毎日のように通っている道なのに、ずっと見落としていたのだろう。
近代的で規格化されたような変わり映えしない家が立ち並ぶ住宅街に、平屋でスレート屋根に板壁という姿は、時の流れがそこだけ逆流したかのようだ。
玄関のインターホンの上には、たしかに“病院ですよ”と訴えかけるように木製の、墨で書かれた看板がかけられている。

引き戸をがらがらと開けてみたら、玄関の右手に受付があった。その後ろは、クリーム色のつい立で仕切られているが、診察室のようだ。
「おはようございます、今日はどうなさいましたか?」
僕の母親くらいの年だと思われる女性が、白い看護師の服に紺色のカーディガンを羽織って受付にいる。
僕は持ってきたメモ帳に雑な字で症状を書き、その看護師に渡した。
待合室には僕のほかに誰もおらず、茶色い革張りのソファーに腰掛け周りを見渡すが、これと言っておかしな部分もなく、普通の、ちょっと古めかしい病院らしい。

診察室のドアが開いて、中へ入るよう受付の看護師に促された。
中に居たこの病院の長であろう男性の医者は、意外にも若そうで、30代後半くらいに見える。
「声が出ないそうですね。早速喉を見てみましょう。」
口を開けて、と言われるがままに大口をぽっかり開けた。こんな体勢、何年ぶりだろう。
医者はペンライトも使って喉の奥を照らして見ている。そんなにやっかいな事になっているのだろうか。
「あぁ…棘があるので、それが炎症を起こしているようです。」
棘?鯖定食なら昨日、学食で昼休みに食べたが、別段、骨が刺さった記憶はない。
しかも、医者は“骨”ではなく“棘”と言っている。
「今から棘を抜いて消毒します。」
口を開けっ放しにするのも少々疲れてきた。
炎症を起こしている部分にミントのような消毒液の感覚が心地いい。
銀色の小さなトレーの上に置かれていく、僕から声を奪った棘。
「全部取れました。声は出そうですか?」
「ん…あ、どうにか、出せそうです。」
思わず喉元に手を当ててみた。しゃがれている上にとても小さいが、これは声だ。

「いや、しかしこれは珍しい。」
棘を観察しているらしい、医者が顕微鏡を覗きながら言う。
「貴方、いつだったか、言えなかった言葉がありませんでしたか?」
「言葉、ですか?」
「えぇ、貴方が言えなかった、言いそびれた言葉です。それが棘になって生えてしまったのです。」
とても真面目そうで、細い黒縁の眼鏡をかけた医者のらしくない発言に、僕は医者の身分を怪しむ。
「、そんなこと」
「では、これを覗いて御覧なさい。見えるでしょう?」
医者に代わって顕微鏡を覗く。

見えたのは、“ありがとう”と“ごめん”と、あともう一つの言葉。

こんな事があるのかと呆然とする僕を知ってか知らずか、医者は黙々とカルテに書き込み、処方箋を作っている。
「炎症を抑えるトローチを出しておきますから、1日3粒を目安に舐めてください。」
「あ、ありがとうございます。」
「この症状は、過去にある思い当たる節に、その言葉をちゃんと相手の心へ届けなかった事で発症します。大事な時の言葉ほど、棘になりやすいですから、以後気をつけてください。」
優しげな眼差しと、その説明は胡散臭いことこの上ないが、まぁ声は出るようになったし、トローチも処方してもらえたなら良いか、と半ば自己暗示にかけるように納得した。

診察室を出て暫くしたら名前を呼ばれ、会計を済ませて例の薬をもらった。
「こちらは3日分のトローチになります。どうぞ、お大事に。」
何だか妙に懐かしいような病院の雰囲気に惑わされているようだ。
会釈をしてから一歩二歩と玄関の外へ出て、早速、もらったトローチを一つ舐めてみる。
天気は一足早い春の心地、どこからか梅の花の匂いが漂ってきた。
何気なく病院を振り返ってみたが、それは確かにそこにまだある。
トローチの、甘くて透き通ったミントが喉を通り抜けて、体中を巡る。
さっき、顕微鏡に映し出された言葉の記憶が蘇って、体中を巡る。

授業中、居眠りをしていた僕の分までプリントを取っておいてくれた時のこと。
ゼミ仲間と予定していたバーベキューを断って、小さな嘘をついた時のこと。
この前、チョコレートをもらった時のこと。

雲一つない大きな一枚板のような青空に、自分の器の小ささや、情けなさを感じる。

誰も通らない、午前11時過ぎの住宅街の道。
何にもない空中に、言えなかった言葉を好きな歌に変えて歌ってみる。
名前も知らない小鳥だけが、コーラスをしてくれた。