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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

強い方が正しい?

2010-06-04 23:00:06 | 思索
どちらの言い分が正しいか、殴り合いで決めよう。
勝った方の言い分が正しい。

めちゃくちゃな話である。
しかし世の中の仕組み、世界の仕組みはこうなっている。

言い換えてみよう。

どちらが支配するか、殴り合いで決めよう。
勝った方が支配する。

これは筋が通っていてわかりやすい。
世の中の仕組み、世界の仕組みは事実こうなっている。

だから軍備が必要という論理になり、
最強の軍事力を有する国がおのずと世界を支配する。

これが世の人々が幸せになる法則?
ほんとうにそうか?
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地球温暖化の真偽

2010-05-26 01:35:42 | 思索
いまさらながらだけれど、これがよく分からない。
アル・ゴアがわいわい言って、IPCCという研究機関ともどもノーベル賞をもらった。

「地球は温暖化しており、その主原因はCO2の増加である」
「このまま温暖化が続くと人類は危機的状況に至る」

この提言に基づき、いま世界は大きく動いている、これは事実だ。
この事実を逆説的に見れば、これは単なる提言ではなく「真実」だと言える。

しかし、そもそも真実とは、「証明」されてはじめて真実になるのだ。

実は、地球温暖化およびCO2が主原因であることに、確たる証拠はない。
故にこれに異を唱える科学者達が続々と現れる。
彼らの存在は、本件が証明されていないことの証明だ。

つまり、万人に真実と認識されていながら、実は科学的に肯定も否定もできないもの。
それが、地球温暖化およびCO2原因説なのだ。

ならば何故、この説が事実上の真実となっているのか?
これも、よく分からない。

確かなのは、CO2排出権が新たな金融市場を形成していることだ。
そして日本はこの排出権をたくさん買わないといけないということだ。
原資は環境税。
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はあ~?

2010-05-20 08:40:26 | 思索
群馬・伊勢崎市:職員のひげ禁止 「不快に思う市民もいる」

同市職員課は「市民に不快感を与えないよう、一律に禁止する」と説明。総務省は自治体によるひげ禁止について「(内規などの)調査をしたことはないが、聞いたこともない」としている。

同市は18日、職員向けの通達で「髭(ひげ)についても不快に思う市民もいるため禁止します」と記載。同市役所は以前からひげ禁止は暗黙の了解といい、これまでもひげをたくわえた職員には個別指導している。

明文化のきっかけは今月上旬、市内の男性からの「ひげを生やした職員がいる」という苦情。(毎日新聞 2010年5月20日)


この記事を見た瞬間は思わず笑ってしまったが、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎてやるせない。お前らにかかる費用は税金だろ?髭はいいから仕事しろ。つまり、仕事の質とか内容よりも「体面」「見かけ」が最重要課題なんだな。日航やJRなんかも含めて、役所はすべて同じ。こんな馬鹿げたトピックスからも実態が透けて見える。「体面」最重視の伊勢崎市さん、こりゃ失敗だせ。伏せたい内部が体面として露わになっちまってるよ。
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女子力

2010-04-01 19:26:35 | 思索
「女子校」の続きとして)

「女子力」という現代用語が、特に若い世代において普及している。女性のメイクやファッションセンスに対するモチベーションとそのレベル(Yahoo)など、男子へアピールする強さを意味し、また反意語的に、女子へのアピールを意味する「男子力」と言う言葉も使われることがある。しかし、これらの概念は特に現在ということではなく、女子、男子の属性として普遍的なものであり、時代を超えて様々な形で表現されてきた。もっとも一般的には「魅力的な」であろう。とはいえ、「女子力」とは力強い、わかりやすい言葉だ。

さて、この女子力は男子にアピールしなければ意味がない(同性に対する場合もあり得るだろうが)。同様に男子力は女子にアピールしなければ意味がない。すなわち女子力の高低は種の存続に伴う「個の存続」についての強さといえる(時代を経て、強いものは生き残り弱いものは淘汰される)。だから決して軽んじられる言葉ではなく、誰においても重要な問題のひとつである。

もちろん、力は内面に基づくものであり、外面は内面が表現されたものだが、もしそれが訓練によって強化され得るものであれば、その是非はともかく女子力と訓練の関係は侮るわけにはいかない。その訓練の方法が理論化されているなら、ぜひ見てみたいものだ。

ここまでの話しで既にお察しのように、つまりは訓練と教育の相関において、女子力アップとその理論的訓練が「女子教育」に絡むのかどうか?である。ありていに言えば、ひと昔前の花嫁修業じゃないか、と一蹴されてしまいそうな話しでもあるから、ここに女子校の存在意味が?などと問えば、女子校は顔を真っ赤にして怒るだろう。「花嫁修業」は今や死後に近い。しかしながら、もし「女子力」「男子力」が買えるものなら、金は惜しまないという本音がないだろうか。

ここで誤解がないように言葉を添えれば、女子力がその人の価値と言っているわけでは決してない。そもそも人の絶対的価値など論じれるはずもないし、価値である必要もない。女子力はその文字通り、素質に基づく個性としての「力」であろう。
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女子校

2010-03-30 23:35:24 | 思索
とある夕食会に参加した時のこと、旧知の友人が同じ職場に勤める若い女性を連れて来ていた。世間話で盛り上がる中、世代ギャップを感じながらも幾らか彼女とも話をした。彼女は某女子大を卒業しているという。皆と別れて帰る道すがら、ぼんやりと周囲の景色を眺めつつ、ふと「女子大」という言葉がよみがえり何やら不思議な感じがした。現代においても多く存在する女子高や女子大。今、「女子を集めて教育する」ことにどんな意味があるのだろう?

その昔、女子には学ぶ機会さえなかった。ここに本質と原点が垣間見られるように思う。家庭を含む社会的営みにおいて、古来より女子は男子より下位におかれ、現在もなお、顕著ではなくなったにしても実のところ変わりはない。関西にある、とある大手電機企業では、女子社員に「女子社員の心得」なる冊子が手渡され、そこには「女子社員は男子社員あるいは上長の指示に従うこと」と書かれてあったと聞く。馬鹿げた話に思えるが、これは高々10年前の話である。これを屈辱に思う女子は多くいただろう。当然だ。しかし案外、さほど抵抗なく受け止める女子も少なくなかったかも知れない。

身体の構造を始め、男子と女子に本質的な差異があるように、そもそもとして男子は女子の上位、女子は男子の下位なのではないだろうか?そのような気もする。でなければ、女子教育との名目における女子高、女子大の現存が考えにくい。しかしこの上位下位は優劣を指すのではなく、そこがお互いに求める場所なのではないかとも思える。つまり、表舞台で男子が活躍しているように見えて、実は女子がその舞台を支えているような。(実際、女子にそっぽを向かれたら、男子は身動きできなくなる場合が多い)

一方、ここで話は元に戻るが、男子社会における男子の論理に基づく結果であることも明らかだ。例の彼女を連れてきた旧友は、いみじくもこう言った。

『女子教育』という観念、封建遺制として現代に残る「女子高・女子大」の存在基盤は、どの国家体制でも秩序維持と国家主義、人の営みとしての権力構造と階級分化の志向の具現には必要と考えていると思う。本来、神聖?と言われる(生き物としての当たり前の行為)『種の生産』を勘違いした「女は生む機械」発言はバッシングを受けるだろう。がしかし、「女子教育を充実させる」類の発想は『性と生殖』を女に押しつけている男=男社会という社会構造=世界の殆どの国が持っているだろうね。

同感である。しかしながら
「女子力」へ続く)
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刹那に生きる

2010-03-18 00:23:14 | 思索
朝起きて朝飯を食べて、仕事場に行って仕事して、昼休みに弁当を食べて、
その後また仕事をし、家に帰って晩飯を食べて、風呂に入って、
後は、わずかな時間好きなことをして、屁をこいて寝る。

週に1回の休みには、農場公園にいって遊ぼうか、繁華街をブラブラしようか、
たまの大型連休には、少し遠くまで旅行するのもいい。

あえて言うなら、これが人生の目的、生きる意味。

やりたいことは、音楽を聴く、映画を見る、テレビドラマを観る、本を読む、
ΔΣの勉強をする、チャットをして掲示板に書き込む、ドライブ、釣り、山登り、
まだまだ色々あるが、これらのことはどれも同時に複数はできない。
つまり、この中から一つを選べば他のすべては諦めることになる。

さて人生50年、これらをどのように選んで、どれに一番多くの時間を使おうか?

-------☆-------☆-------☆-------

「健康が一番」
この世に生を得て50年以上も過ぎると、人が一生でやるだろうことは、だいたいやった。
当面の目標もそれほどはない。あとは食って、考えて、屁をこいて寝るだけか。

大勢で見た場合、人の一生は大きく3つに分割できると思う。
20代半ばくらいまでは能力の蓄積期。
それ以降50代半ばまでは蓄積した能力を発揮する活躍期。
それ以降、人生を終えるまでは多くの拘束や制約から解放されて、やりたいようにやる期。

その生涯を通じて必要なものは健康。健康がすべての前提。
人生、健康があれば他に何もいらないとも言えるな。

永遠の生?そんなものはいらないさ。
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女と男と男と女

2010-03-13 22:32:25 | 思索
君、曰く
「女は種としての存続というより、個としての現在の自分の生への執着が強く、その目的のためには非常に狡猾であり、あらゆる知力、労力を費やすことをいとわない。伴侶としての男も、その手段の一つとして捉えている。」端的にこう解釈してもおおむね当たっているだろうか?当たっていれば「ピンポーン」、外れていれば「ブー」と応えてくれればありがたい。

さて、「女は特攻隊の隊員に成り得るか?」についてだけれど、もし人数10人の集団が2つあるとして、1つは男が1人で女が9人、もう1つは女が1人で男が9人とした場合、この2つの集団のどちらが優勢か?集団の強さを頭数としてのみ計るものとすれば、これは考えることもなく、前者が優勢であるとすぐに分かるね。つまり極論すれば、集団の中に男は一人でいいんだよ。これがオットセイやアザラシに見られるハーレムだね。ということは、特攻隊員に男ばかりを選んで、女を温存するというのは集団の論理として、しごく妥当であると言えそうだ。

と同時に、ここに「女の敵は女である」という論理が現れる。女も男も、個としての自分を将来に存続させたいのだ。よってハーレムの中では、たった一匹の雄に自分を選ばせなければならないことになる。そのために女は、あらゆる手立てを尽くして他の女を蹴落とそうとするだろう。もしハーレムではなく、男女比が均等の集団であってもこれは成り立つので、「女の敵は女である」と同時に「男の敵は男である」とも言えるだろう。女を取り合って男が戦うシーンは、多くの生物界で平凡に見られる。

次に「後尾の後、雌が雄を食ってしまう蜘蛛」の話だけれど、カマキリの雌も交尾に関連して雄を食うのもよく聞く話だね。カマキリの場合はもっと凄惨でシステマチックだ。どうも交尾中に雄を食うらしい。

というのも、生殖を司る神経系が雄の食堂の下辺りにあって雌がそれを捕食しなければ生殖が成り立たないらしい。だから雌は雄の胸と頭を最初に食うが、雄は下半身だけになってもまだ生き続けて、最後は生殖器だけになってもなお生き続け交尾を継続して生殖を成立させようとするらしい。何たるおぞましい話かと思ってしまうし、雄が健気で可哀相にも感じるけど、進化は彼らをそのように仕組んだということだね。
(これは後で嘘だと分かった。雌が食らいつこうとするのをブロックして、生殖の後うまく逃げおおせる雄もいるらしい)

話はまた変わって、こんどは人間。(NHKの番組から)
男は女が好きで、女は男が好きだ。これは性別の所以でもあるね。ほんで、男は女をまず体型から見るらしい。もちろん無意識にね。丈夫な子供を産んでくれるか、乳はたくさん出るか。この評価判断の基準に沿った理想的な女性の体型が、古代ローマの彫刻などに見られる女性像らしい。対して、女が男をどう見るかだが、自分および子供を守ってくれる力があるか、ということらしい。もちろん無意識にね。男は短時間的判断、女は長時間的判断、男は形的、女は中身的、男は女を守り、女は男に守られる、となるだろうか。これもやはり、進化が人間に仕組んだ仕掛けなんだろうね。

「弱きものよ、汝の名は女なり」
出典は、シェイクスピアの悲劇「ハムレット」だけど、その由来はともかく、僕はこの言葉に真理を見、納得し、甘美と切なさを覚えた青春時代があった。今も名言だとは思うんだけど、当時ほどの感性は無くしてしまったな。
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記号の精神的変換

2010-01-30 02:42:22 | 思索
当然ながら、作曲は人間の精神的行為であり、作曲家の精神は楽譜という記号配列に置き変わる。その記号をルールに従って音という物理現象に変換すると、そこに音楽が現れる。記号を音に変換すること自体は、人はもとより機械にもできるが、生み出される音楽は当然にも歴然と異なる。機械による変換には精神が不在であるが、人による変換は作曲同様、精神的行為であるということだ。機械に精神を読み取ることはできない。よってその音楽は無機的であり表情の乏しいものになる。これに対して、人は楽譜の中に作曲家の精神を読み取り解釈する。解釈とは作曲家の精神と演奏家の精神の融合と言えるだろう。

演奏家が指揮者の場合、オーケストラを使って記号を音に変換し、その解釈を具現化する。しかしオーケストラは楽器ではなく人であるから、ここにもまた精神のせめぎ合いが生じる。作曲家の精神と指揮者の精神と楽団員の精神、困難を伴うこれらの相関が音楽に命と魂が吹き込むことによって、交響楽はまるで生きているかのような表情豊かな音楽に創り出されるのだ。

世の中には多くの指揮者、多くのソリストがおり、多くのオーケストラがある。よって、たった一つの楽譜から創造される音楽は無数に異なる。名演奏と賞されるものにもなり、凡庸なものにもなり、機械による演奏にも劣るような低級なものにもなる。名演奏のファクタとは何なのだろう?これは恐らく、作曲家の精神と演奏家の精神が激しい衝突を経て、調和、融合し、一体化することではないだろうか。精神の一体化による結実。このロストロポーヴィチの「ショスタコーヴィチ交響曲第5番」は、その代表的事例としての揺るぎない名演奏と言えるだろう。
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行儀、礼儀、作法

2010-01-11 20:05:33 | 思索
行儀、礼儀、作法とは何か?何故そのようなものが存在するのか?それらは本当に必要なものなのか?と、あれこれ思い巡らせているうちに、それはたぶん「快感と不快感」に関係するものであり、またそれは「美的感覚」に起因し、根本にあるものは「感性」だろうと思うに至った。

「感性」、これは非常に難しい概念であり、いまなお心理学や哲学の研究対象となっているようであるが、Wikipediaは「感性」について次のように概説している。

【感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力と言える。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、例えば何らかの音楽に違和感を覚えるように人間に作用することもある。】

やはり。以降、「感性」の意味はこの記述を基準として考えてみる。
一般に人は感性として美的感覚を持つ。絵画や音楽が成り立つのもそれ故のことだろう。この感性は人であること故の普遍性と、地域や時代の文化、風土が大きく反映する流動性を併せ持ち、本質的に個々人が別々であることにより、個人固有のものである。つまり美的感覚は全体性が占める割合があるものの、個人によって異なる。

行儀、礼儀、作法における評価判断は、個々人の異なる美的感覚に基づくものと考えられる。例えば、肘をついてご飯を食べるという行為を、多くの人は美しくない、つまり行儀が悪いと感じるだろうが、そう思わない人もいる。よってその行為を美しくないと感じる人にとっては悪であり、そう感じない人にとっては悪ではない。ということは、行儀を絶対的に決めつけることはできないということであり、礼儀、作法についても同様である。ただし集団において、美的感覚の是非が圧倒している場合、少数派は悪として決めつけられることになる。ここで注意しておきたいのは、少数派は本質的な悪ではなく圧倒的多数決に過ぎないということだ。これは地域性や時代の変遷によって逆転する場合もあり得る。

食事の本来的目的は空腹を満たすことである。その時、手でつかんで食べようが、箸を使おうが、フォークとナイフを使おうが、肘をついて食べようが、寝転んで食べようが、本来的目的に対してまったく関係がない。あえて言えば、自分がもっとも食べやすい方法や動作で食べるのが快適であり合理的である。

しかしながら、人の美的感覚は如何なる場合も働くもので、それは動作に対しても同様であり、何故かはともかくとして、ここに行儀、礼儀、作法が生まれたものと考えられる。私個人としては、たぶん徹底した唯物論者であることもあり、行儀、礼儀、作法に反する行為を見ても特に美しくないとは感じない。とはいえ私も集団の中の一員であり、その集団には行儀、礼儀、作法というものが実際にあるのだからそれに背くつもりはない。バカバカしいとは思いながらも、できるだけその集団が決めた行儀、礼儀、作法の通りにしようと思う。

しかしながら、この行儀、礼儀、作法というものは、にわかにやろうとしてもできるものではない。ここが大きな問題なのである。行儀、礼儀、作法は無意識な自然な立ち振る舞いなのだ。これには訓練が必要であり、とりわけ幼少であるほど効果が高いため、「しつけ」「教育」なる用語も含めて、大人は子供に行儀、礼儀、作法を教えようとする。大人向けの教室なども商売として成り立ち、けっこう繁盛していることは驚きでもあるが、ではお前は子供に行儀、礼儀、作法を教えないのか?と聞かれると、う~ん、と考え込んでしまう。結果としては、家庭ではまったく教えてこなかった。(自分が行儀、礼儀、作法をさして知らなかったこともあるかも知れない)。その子供も今や大学生。けっこう友達と楽しくやっているようではあるが。

蛇足ながら、行儀、礼儀、作法はとどのつまりとして「品格」とか「品位」という、これまた不可思議で胡散臭い言葉へと至ることになる。後日また、品格、品位、上品・下品について考えてみよう。

関連記事:
倫理と道徳 2009-12-14
挨拶とは何か 2010-01-04
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挨拶とは何か

2010-01-04 20:04:37 | 思索
挨拶という行為には必ず相手が存在し、おおむね相手に対する好意を示すものである。これは社会的動物である人間において自然発生的に現れる現象であり、強要されたり教えられたりするものではない。挨拶は義務でも責任でもマナーでもなく自然な心の発動である。

挨拶の示す意味はおおむね次の3つである。
① 俺たちゃ仲間だ~!
② ありがと~。
③ よろしく~。

一般的には見ず知らずの人に対して挨拶はしない。また知人であっても嫌いな奴には挨拶しない。もししたとしても、すれ違った後で「ケッ」と、はき捨てるだろう。挨拶が好意を示すものである所以である。こんな挨拶ならしないほうがましだ。

登山道で別のパーティに出会ったときの挨拶、バイクツーリングで対向車線から来るバイクと交わすピースサイン、これらは挨拶の意味①に相当する。職場や学校の教室、隣組の集会など至る所で、この意味①の挨拶は交わされる。車の運転中に道を譲ってくれた相手に送るハザードやクラクション、これは意味②に相当する挨拶である。それから、引越し先で粗品片手にご近所さんを回る挨拶は意味③、および意味①が含まれる。

さて、二昔前の学校の教師に対する生徒の挨拶や、現在でも会社の上司に対する挨拶は意味が少し異なる。「あなた様は私の上位におわすお方でございます。よきにお計らいのほどを」という意味が含まれ、しばしば頭を下げる動作が伴う。「いまどきの生徒や学生はろくに挨拶もできない」と、超時代錯誤的発言をする教師や大人は、このことを言っているのであろう。(ちょいと小耳にはさんだのだが、日本中の小学校でオアシス運動なるものが行われているらしい:オはよう、アりがとう、シつれいします、スみません)なんとバカバカしいことか。

しかしまあ、世の中は広いもので、「挨拶ができない奴に仕事ができるはずがない」とか、「多少仕事ができるよりも挨拶ができることの方が重要だ」と、まことしやかな決まり文句が長年の風土を形成している会社なども実際にある。

余談ながら、初めての人に声をかけるのは勇気が要る。多少なりとも怖い。何が怖いのかと言うと、無反応(無視)が怖いのだ。中学や高校の入学式で初めて隣り合った学友。いずれ親友になるかも知れない二人も、最初に声をかけたときには少なからず勇気が要っただろう。

関連記事:行儀、礼儀、作法 2010-01-11
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神仏と萌えキャラ

2009-12-28 23:24:52 | 思索
神仏の像とは一体何だ?

ただの銅板や粘土の塊である像を、人はなぜ崇めたり祈ったりするのか。それらはすべて人の造りしもの。この問いに対し、ある信仰者はこう答えるだろう。神仏の御霊がその像に宿っているのだと。しかしまた、ある信者はこうも答えるだろう。無意味、そこに神仏は居ない。偶像崇拝についての論争は宗教界において延々と続けられている。至極もっともなことだ。

そもそも神仏は観念である。古の画家や彫刻家はその観念を人に似せて形にした。素朴な人たちにとっては、観念を観念として理解するより、(見本となる)形として理解する方がずっとわかりやすいからだ。布教を目的とする時、神像や仏像は大いなる効果を発揮したことだろう。しかしもし今、現代の画家が神仏の像を「萌えキャラ」として描いたとしたら、人々はそれを神体として受け入れるだろうか。

少し前の話だが、「お寺が萌えキャラで大ブレーク」という記事が夕刊フジに掲載された。

「了法寺は先月、同寺の案内看板などに、アキバオタクに人気の歌手兼漫画家、とろ美さんが描くキャラクターを採用。これがネットの掲示板などを通じ一気に広まり、記念撮影目的のオタクファンが連日訪れるようになった。とはいえ、場所柄ワイワイはしゃぎまわることもなく、一様に礼儀正しくお参りして引き上げているという。」
(2009年8月1日17時00分)

写真に見るように、住職は袈裟をまとい鏡のように光沢のある頭の手入れにも余念がない。しかるに順路の案内人は萌えキャラ。数千年に渡り引き継がれた頭と、瞬間に現れたキャラ。別にこのことの是非どうこうをいうわけではない。しかし多くの人が驚くだろうことも疑いない。「らしい」とか「ふさわしい」とか「普遍性」という言葉にどういう役割があるのだろう。

関連記事:消滅する文化 2009-05-08
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兵隊さん

2009-12-18 23:13:35 | 思索
兵隊さんは世界各国に必ずいるが、日本で兵隊さんと言えば自衛隊員をおいて他にない。

兵隊さんのお仕事は、その良し悪しはともかく人殺し。また兵隊さんは自らの考えや意志を持たず、鉄人28号のようにリモコンの操作(上官の命令)によってのみ動かなければ兵隊さんにはなり得ない。

とはいっても兵隊さんもやはり人なのである。武器を置き、ヘルメットを外し、制服を脱げば、意志や感情の多くの部分が蘇る。

人は誰しも、今の在り方、今やっていること、これからやろうとしていることが個人として「良きこと」「正しいこと」と思いながら生きている。逆に言えば、そう思わなければ生きていけない。自分の考えや認識や判断や行動が「間違っていて、悪である」と思いながら、それをやり続けることはまず無理だろう。

ということは、兵隊さんにとっては、相手が人であってもそれが敵兵であれば射殺することが正しいのは疑いの余地がない。さらに、相手が一般市民でも上官の命令であれば引き金を引くことが正しい。ただし、これは蛇足ではあるが、どのような場合にも兵隊さんに一切の責任はなく、命令者にすべての責任が有る。

さて、軍隊は強くなければ意味がない。軍隊は兵隊の集まりだから個々の兵隊が強くなければ成り立たない。さて、ではどんな兵隊が強いのか?これは、腕力や格闘術などよりも、「正義と確信する精神」を有すること。これに勝るものはないだろう。

自衛隊。日本国を守る軍隊。その存在の是非はともかく、実際に存在し莫大な税金を食ってるのだから強くあることは必然。ということは、自衛隊にとって守るべき「お国」は、無条件に絶対正義ということになる。これは現在のみならず、過去においても絶対正義でなければ筋が通らない。過去に間違ったことのある絶対正義などどこにあろう。

よってかの元幕僚長、田母神氏の投稿したトンデモ論文の内容については、彼は至ってクソ真面目に本心を語っているのだ。到底世間一般に受け入れられない非常識な内容ではあるが、これが彼の本心でなければ自衛官としての立場に矛盾する。

よって、自衛官や自衛隊員に人権はない。これが軍隊の定義なのだ。
兵隊さんが訓練を終え、家庭で人に戻った時の思いや苦悩はいかばかりだろう?これは察するに余りある。
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倫理と道徳

2009-12-14 18:21:01 | 思索
倫理と道徳、これらは用法を間違えると極めて危険な言葉である。下に、倫理と道徳の辞書による意味を示す。

【倫理】人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。(大辞泉)

【道徳】人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。(大辞林)

大辞泉が倫理の説明として、道徳の二文字を用いているように、倫理と道徳は言葉の意味として密接している。これは大辞林による道徳の意味を見てもわかる。よってここでは、倫理と道徳を共に「倫理」という一つの言葉で表すことにする。

さて、「人として守り行うべき道」「善悪・正邪の判断において規準となるもの」このようなものが普遍的に存在し得るのかどうか。日本においては、戦前の倫理と戦後の倫理は明らかに異なる。また西欧諸国の倫理とアラブ諸国の倫理は明らかに異なる。さらに私の倫理と隣のおばちゃんの倫理が明らかに異なることを私は知っている。このように倫理に普遍性はない。倫理に普遍性がない以上、倫理そのものが存在し得ないことになるが、実際には倫理はそれぞれに存在しているわけで、これは言葉の曖昧さによる矛盾であろう。辞書の示す意味を表し、実際に使用可能かつ正確(安全)な言葉は「倫理観」あるいは「道徳観」である。「-観」が付くことで、倫理も道徳も人それぞれに異なる主観であることが明確になり、集団による統一思想となる危険性は減少する。

倫理と道徳がなぜ危険な言葉であるのかは、大日本帝国、ナチス・ドイツ等の国家主義、民族主義が犯した犯罪や歴史上の多数の宗教犯罪などが証明している。演繹的には、大辞林が説明している「自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く」、これが要点であり重要。自由や平和なども同様であるが、倫理と道徳に比べれば、現時点では危険性は小さい。(自由と平和の名の下にであれば、アメリカを始め地球上のほぼすべての国が犯罪国家であるが、冗長になるので割愛)

とりわけ昨今において、倫理や道徳の文字が記述されている文書等には十分注意すべし。それが、もし文書内に多用され、奨励されていればなおさらである。子供の倫理観や道徳観は、心配せずとも、家庭や集団の中での成長過程において彼らは自然に学んでいく。そもそも倫理や道徳は教え教えられるものではなく(ここが重要!)、自然に「知って」いくものである。その時、彼ら一人一人の倫理観、道徳観が微妙に異なっていれば、その集団や社会は健全であるといえよう。

関連記事:
「正義」2007-09-11
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しつけ

2009-12-01 22:47:47 | 思索
しつけ(躾)。この言葉ほど嫌いなものはない。字も気持ちが悪い。子供は育てるのではなく、育つのだ。「親はなくとも子は育つ」。自分はどうしたいのか?この局面で自分はどうすべきか?周囲を観察しながら、あるいは自ら体験しながら、子供は自分の基準を作り判断力をつけていく。そして大人へと観念を固めていくのだ。親、あるいは大人が子供に自分の価値観を押し付けるのは極めて馬鹿げている。子供の可能性を奪うな!子供の人権を踏みにじるな!と声を大にして言いたい。

しかるに、いい歳をした大人に対してまで「しつけ」を声高に、また誇らしげに謳う大バカ者の会社や職場がある。役所や時代遅れの大企業に多く見られるが、5Sはもはや「しつけ」を外して、世間では4Sなのだ。もし5Sと言っても、しつけではなく「習慣化」に言い換えられている。「しつけ」、言い換えれば「洗脳」。ゾッとするよ。

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行儀、礼儀、作法 2010-01-11
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あなたな~らどうする~♪

2009-11-15 23:27:58 | 思索
もし明日、近隣のとある国から発射されたミサイルが日本に着弾したら。そしてもし、あなたが内閣総理大臣なら、さ~てどう対応しますか?あまり考えている時間はありません。2発目が飛んできます。

核兵器は別として、通常兵器では圧倒的に日本が上回っているとするなら、日本の保有する軍事力の総力をあげて一気に殲滅しますか?これはもちろん、相手国の国民を皆殺しにすることになります。中途半端な反撃は、泥沼化することが目に見えています。イスラエルとパレスチナのようにね。

何もせず、2発目3発目以降をあまんじて受けるという手もありますね。つまり徹底的に「やる」か、まったく「やらない」かのどちらかです。

さて、いずれの場合にしても、国際社会はいったいどのように動くのでしょうか?これもなかなか読みづらいですね。

この、とても素朴でシンプルな問いに対して、誰も明確な正解を出すことはできません。ダム建設の続行や中止を決めることさえできないのですから。そしてこの事態(ミサイル着弾)はあり得ない話ではありません。

会社の、隣の席の部長は「近いうちに十中八九、勃発する」と確信しておられ、家族会議を開いて、その時もし家族が離ればなれになったら、京都の知恩院で落ち合おうと申し合わせているそうです。

とはいえ、こうやって我ら凡人が思い巡らすことくらい、とうの昔に政府はシミュレーションしているのでしょうね。裏世界の力学まで想定すれば、それがどの様なものであるのかは知る由もありませんが。
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