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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

平和と平和維持軍

2009-11-03 17:34:10 | 思索
とある右派系テレビ番組「そこまで○って委員会」で、かの元(トンでも)幕僚長、田母神氏があたかも英雄であるかのように祭り上げられていた。国際問題について彼いわく、「話し合い話し合いというが、ならば相手が言うことを聞かなければ、話し合うぞ!というのか。お話にならん!」と憤慨しておられた。では「相手が言うことを聞かなければ、殴るのか?」と突っ込みたくなる。

まあ、それはともかくとして、国連平和維持軍(PKF)というものがあるが、これは言葉自体に矛盾がある。平和を実現維持するための軍隊。何か変ではないか?つまり平和は戦争の前提にあるということであり、自らを否定している「平和」の理念だ。しかし理念として確かに矛盾があるものの、実際はこの言葉の通りなのだ。過去のすべての戦争は、それが事実であれ口実であれ、「平和」や「正義」の名の下に行われてきたのである。

国際社会の一員として、国連平和維持軍に加わるのは当然であり、憲法を改正して自衛隊を軍隊にするという民主党や自民党。戦争および武力を放棄しなければ理屈上、世界から戦争を消滅させることはできない。だから憲法を守るとする社民党や共産党。どちらの言い分にも一理ある。実に難しい。

しかし個人的には後者の立場に賛成したい。旧ソ連のゴルバチョフと、当時のアメリカ大統領レーガンは身を削る思いで核軍縮を実現したではないか。これは冷戦を終結に至らしめたし、古くはガンジーが非暴力でインドを独立させた。奇跡的に思えることでも、実際に起こり得るのだ。

兄弟喧嘩をするお兄ちゃんと弟。叩かれては叩き返し、また叩かれては叩き返す。これではいつまで経っても喧嘩は終わらない。しかし兄弟喧嘩はいつの間にか終わっている。叩かれても我慢して、最後には叩き返さないのはいつもお兄ちゃんだ。

いつの日か、すべての兵器が地球上から消滅することを信じたい。
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iモードフルブラウザの料金

2009-11-03 14:46:54 | 思索
(2009/10/30付「docomo フルブラウザの注!」の再記です)

まず結論からお話します。
近頃のdocomの携帯電話には「iモードフルブラウザ」なる機能がおまけ?として付いてきます。これはPC専用サイトも詳細に表示できる高機能なものですが、料金システムについては明確に示されていないのが実情のようです。はっきり示されているのはiモード同様パケット数に連動することと、上限額が5,985円であることのみ。

とあるショップの店員さんは次のように説明してくれました。
「iモードフルブラウザで一度でも閲覧すれば、上限額(5,985円)に達すると考えてください」

これが結論です。

添付図に、パケホーダイダブル(iモード、およびフルブラウザ)の料金システムを示しました。iモードの上限である52,500パケットと、フルブラウザによる上限の71,250パケットとの差は18,750パケットです。18,750パケットをデータサイズに換算すると、18750×128=2400,000byte(2.4Mbite)になります。例えばPC向けYahooサイトのトップページは約200Kbite(らしい?)なので、10ページ程度の閲覧で上限に達することになります。

もう少し簡潔にお話しましょう。
iモードであれフルブラウザであれ「1パケット=0.084円」、これが基本です。そして使用したパケット数の合計が支払い額になるということです。これはiモードのみを使用しても、フルブラウザのみを使用しても、iモードとフルブラウザを併用しても同じことです。

ただし、いずれにせよパケホーダイなのですから「上限パケット数:上限額」が定めてあるということですね。iモードは52,500パケット:4,410円が上限で、単独で使用しようがフルブラウザと併用しようが、とにかく52,500パケット:4,410円です。同様にフルブラウザの上限は71,250パケット:5,985円ということです。単独で使用しようがiモードと併用しようが、とにかく71,250パケット:5,985円です。言い方を変えれば、iモードのみの使用の場合、上限は4,410円、フルブラウザを併用した場合は、上限は5,985円です。

図の例1はiモードをの上限を超えて使用し、フルブラウザもある程度使用した場合の支払額です。例2はiモードを30,000パケット:2,520円、フルブラウザを20,000パケット使用して、計50,000パケット:4,200円の支払い額になる例です。このような場合も理屈上ありえないことはありませんが、実際はどうかというと極めて非現実的と言わざるを得ません。

実際としては、iモードのみを使用しても月に52,500パケット(上限)以内に収まることは非常に希だと思われます。個人的な話で恐縮ですが、私の2009年8月の通信パケット数は207,604パケットでした。ということは1日あたり6,697パケットということです。感覚としては、1日平均10~20分程度、googleやWikipedia等を閲覧しているだけなのですが、結果はこうなります。

iモードのみでも、ライトユーズに使っていて楽勝で上限を超えるということは、まさに正直な店員さんのいう、
「iモードフルブラウザで一度でも閲覧すれば、上限額(5,985円)に達すると考えてください」

ということです。
中には上限を超えない方もいらっしゃるでしょう。しかしそれはケータイでは「インターネットを利用していない」に等しいと言えると思います。今のケータイは「電話機能の付いたパソコン」なのです。そう捉えなければケータイを持ち歩く意味は希薄になります。

docomoのパンフレットやカタログには、iモードフルブラウザの上限パケット数等、ここに記述したようなことはまったく明記されていません。よって私はdocomoは非常にけしからんと思います(他社も似たようなものかもしれませんが)。例えば我が家の家族が使用している機種F02Aはワンクリックでフルブラウザが立上ります。私が使用している機種もメニューの中に「フルブラウザ」があります。

確かにフルブラウザの「初回立ち上げ時」には、注意書きらしき文言がズラズラとでてきますが、これもPCにアプリケーションをインストールするときに、「同意する」「同意しない」を選ばされるのと同じこと。使いたいアプリをインストールするのに「同意しない」を選ぶ人はまずいないでしょう。長ったらしい注意書きやことわり事を全部読む人もたぶんいません。

分かりやすいハッキリとした説明がなく、「上限でとまるから安心」という雰囲気を漂わせながら、容易にフルブラウザが立上ってしまうような設計。これって、ほとんどワンクリック何チャラのようなものじゃない?

関連記事:パケホーダイダブルの実際 2009-11-08
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人生に無駄はあるか?

2009-11-02 00:29:53 | 思索
「無駄」を国語辞典で引けば

「しただけの効果や効用のないこと。役に立たないこと。また、そのさま。無益。」(大辞林)

とあります。本来「効果や効用」「役に立つ」「無益」という言葉は必ず目的語を伴います。英文法で言えば”自動詞”ではなく”他動詞”ということですね。つまり「何に対してか?」ということです。独立して「効果がある」とか「役に立つ」というのはナンセンスですね。ワクチンは「ウィルスに対して」効果があるわけで、メリケン粉を溶かして飲んでも「ウィルスに対して」無駄ということです。

ということは、「人生に無駄はあるか?」という問いは「人生に目的はあるか?」という問いに等しいといえます。目的があるから無駄もあるわけですからね。

さて、そもそも「人生」に「目的」はあるのでしょうか?「こんな風に生きたい」とか「こんな仕事がしたい」というのは人生の中での一つの目的になり得ます。しかしそれは「人生そのもの」の目的ではありませんね。人生そのものの目的を探してみても、まず見つかりません。何故なら、人生に目的などないからです。
(テイルズ・オブジ・アビスはこのことを雄弁に語っている秀作です。)

ということは、「人生に無駄はあるか?」という問いに対して、「無駄はない」という回答が得られます。先にあげた、こんな風に生きたいとか、こんな仕事がしたいという目的に対して、もし無駄なことをしていても、それがその人の人生において無駄であるとはいえません。多かれ少なかれ、必ずこの先の人生に関連しているのです。

人生に目的など無い。つまり
人生に無駄など無い。
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獅子へ

2009-07-26 20:56:11 | 思索
「幸せ」の定義を、短い文章の中に言い表してるね。虫歯が痛いとき、これは明らかに「不幸せ」だね。これはすべての人に言えるだろう。歯医者さんに駆け込んで治療して、歯が痛くなくなれば、これは明らかに「幸せ」だね。これもすべての人に言えるだろう。でも、べつに歯が痛くない常日頃、人は「あ~幸せだ」と思い続けているわけではない。たぶんまったく思ってないだろうね。つまり幸せ(感)というのは常に不幸の裏返しとして起きるもので継続し続けるわけではない。また、幸せ(感)が継続し続けるのも、これまた困ったもので、常人ではないといえる。つまり「幸せ」とは、幸せとも不幸せとも感じていない、まさに今この時間ということになるね。でも、常々このことを「ありがたい」と思う必要もなく、時折ふと振り返ればそれで十分。とにかくポジティブにアクティブにワークすること。その過程には汗あり涙あり笑いあり感動あり、そして満足を経て、次のワークにとりかかる。いま人生のどの時点にいても、常にワークは待ってくれているからね。


「夢」なくとも

「夢」のない年寄を許してくれ。僕は今の自分を「夢」のない年寄だと思うな。というか、年寄は僕も含めて、すでに「夢」を達成しているんだよ。別に本気で大富豪になろうとも思わなかったし、ノーベル賞をもらおうとも思わずにここまで来たけれど、振り返ってみれば、たくさんの「小さな夢」を達成してきたんだとも思う。そんな「小さな夢」ならこの先にもきっとあるだろうね。年寄の僕にもね。君がいるからできる、君と一緒にやったから実現できた、そんな夢もたくさんあると思うよお。それは決して大きな夢ではないけどね。いいじゃないか、ちっぽけだって夢は夢だ。
(^^)
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練習しよう

2009-06-10 14:33:39 | 思索
練習というのは非常に大きな意味があります。脳の中にはCPUに相当するプロッセッシングユニットがありますが、すべての思考をCPUがやってるわけではありません。CPUの周囲には、論理ブロック、計算ブロック、運動ブロックなど、非常に多くのサブルーチンが存在します。ある計算をするとき、CPUは必要な計算ブロックを呼び出すだけなので、非常に速く回答が得られるのです。だから何度も経験したことのある計算(思考)および運動はスムーズに運ぶわけです。10年以上の自動車運転歴をお持ちの皆様、一度「運転サブルーチン」を呼び出さずにCPUを使って運転してみてください。とてもギクシャクすると思いますよ。「自意識過剰のムカデの苦悩」もこれと同じ話です。練習する、あるいは稽古するという行為は、頭の中に必要なサブルーチンを作るということなのですね。
だから、じゃんじゃん練習しましょう。(^^)
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種としての存続

2009-06-02 21:45:58 | 思索
生は死の裏返しである。もし不死であれば人の生に意味はない。それは死んでいるに等しい。最期に死があるが故に人は人生を生きることができる。よって個人に死が定められているのは必然であるが、種としては存続し続けるように仕組まれている。

人は地球上で20万年生きてきたと言って、論理に間違いはない。何故なのかは分からないが、原生物を除き地球上のすべての生物は子孫を残すことにより、種として生き続けようとする。そしてその種の継続手法は、またすべて同じであり、雄と雌との生殖による。よって、同一種の生物個体は雄か雌かのどちらかであり、これ以外の形態はない。この点において、人は犬や猫あるいは昆虫などと何ら変わらない。

一対の雄雌が子を成し命を新生することにより、自らは朽ち果てても、種を未来へと繋いでいく。これは、生物が永遠に生き続けようとする具体的メカニズムとして大変合理的であり、納得できるものではある。とはいえこの一点が、昆虫から野性動物、そして人に至るまですべて同じ構造というのは、不思議にも思えるし、何やら割り切れなくもある。あるいはビッグバン宇宙のように、生態系も1点の生命からすべて派生した(進化論)ことの演繹的な証なのだろうか?であれば同義として神の不在の証とも言えよう。
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やるかやらぬか

2009-05-15 00:21:25 | 思索
世の多くのことは、できるできないではなく、やるかやらないかだ。

親切を優しさに置き換えてみるね。優しさという言葉の響きには柔らかい微笑みがある。優しさは結果ではない。基本はたぶん自己否定(犠牲)なんだろう。見返りを期待した優しさなんてあり得ないからね。優しくあることが自分の求めであり、人の喜ぶ顔を見るのが一番嬉しいんだよね。時には優しさが必ずしも相手に通じるとは限らない。でもそれは単なる結果。その時、優しくありたいと思った。だからそうした。それでいいんだ。それがすべてだ。
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起源の物語

2009-05-13 21:14:54 | 思索
多くの動物が群れを成すように、人も群れを成す。ここから物語を考えよう。

人が地球上に現れた当時、人は小規模な群れを作り集団で暮していた。群れは家族単位で構成されており、最も力の強い家族の長が群れの長でもあった。群れの経済は狩猟・採集で、獲物や果実を求めて緩やかに移動していた。このような群れが各地にたくさん点在していた。群れの内部では時折いさかいが発生したが、猿の喧嘩のようなもので短時間に収束した。しかし自然現象として群れが吸収・合併し規模が大きくなると、もめ事や争い事はグループで敵対するようになり、もはや群れの長の力では収拾がつかなくなった(これが内紛の起源である)。

そこで群れの秩序を保つためにルールが作られた。ここに初めて「国」の概念が誕生する。群れは国になったのだ。群れ(国)を治めるルールは、各群れそれぞれに異なっていたが大きく2つに分類される。個人主義と全体主義である。個人主義のルールでは、自分が捕った獲物や果実はすべて自分のものにすることが認められた。また様々な決め事は、グループの代表が話し合って決めた。全体主義のルールでは、誰が捕った食料であってもすべて群れの中央に一旦集められ、その後全員にまんべんなく配られた。また、すべての決め事は最も経験豊富な賢者である年寄り一人が決めた。(前者は市場経済の基本であり、後者は計画経済の基本であるが、理念として前後者共に良否がある)。

ここまではまだ小さな群れに限定される。群れの規模がある程度以上に拡大すると、群れの長は強大な力を持ち、絶対君主制が国のルールとなっていった。こうした国が多数生まれ、拡大に伴いいずれ他国と接触する。そして土地や地域の所有権をめぐり、激しい戦いが起こった。これが最初の戦争である。以上、起源としての物語はここまで。

その後1万5千年という時が流れ、一気に現代に飛ぶ。何やかやと偉そうなことを言ってはみても、所詮人間は、猿の喧嘩に毛のはえたようなことを、いつまでも飽きずに続けているではないか。
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訂正不可能

2009-05-12 22:22:45 | 思索
サリン事件を引き起こしたオウムにしても、学会さんにしても、共産党にしても、何故これほどまで内部が統率されているのか。上層部から末端にいたるまで、見事なものである。これらの集団に共通するものは、「宗教的」あるいは「信仰的」である。つまり、そこに絶対(者)が存在するということだ。戦後、日本の民主化に大きく貢献した昭和天皇の話しは前にも触れた。これも昭和天皇が真に絶対者であったからに他ならない。集団を構成する個々がすべて同じ思想(崇拝の対象が唯一絶対の善であるとする)を持つ時、集団のパワーは最大となる。また集団の規模に比例してパワーは増大する。そして被崇拝者である集団のトップの意のままに、そのパワーは使われる。だからこそトップは自分の所有物である集団を際限なく拡大したいと望むし、それを最大の善行と位置付け、実際に信者達によって実行されている。しかしそれだけ巨大なパワーを手にしていったい何をしようというのか。古来より集団のパワーは不幸以外の何物も生み出した例しがない。つまり思想統一された集団のパワーは、「悪いこと以外には使えないと」歴史が繰返し訴えている。信仰は妄想と同義と言える。「妄想」の定義は、論理で訂正不可能な思いや考え、である。この意味においては、統合失調症により出現する妄想(パラノイア)と何ら変わらない。人の行動特性として、集団の一員でありたいと思うのは確かにある。しかし、他者からの影響を受けず、自分自身であることの自由を求めるのも人の本能のはずだ。思想統一によって視野を極端に狭めてしまうのは、もういい加減やめようではないか。広く正確に物事を見渡すために、思想の拘束から解放されようではないか。これは映画「マトリックス」で描かれた、赤と青の錠剤の選択と同じだ。青い錠剤を飲むことで初めて世界は現実となり自由と未来への扉が開かれるのだ。と、信者達にいくら言っても意味がない。なにせ論理による訂正が不可能なのだから。
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消滅する文化

2009-05-08 01:58:01 | 思索
地域固有の風土や文化、伝統や風習といったものは、いずれ消滅しすべてが均一化されるだろう。正に「世界は一つ、人類皆兄弟」である。(TVでこう言ってたお方はあまり好きではないが。)

遠い昔、東京のとある会社で一年ほどアルバイトをしたことがあったが、僕が入社して数ヶ月もすると、僕の席の周囲は関西弁で溢れるようになった。また僕自身にも、言葉の端々に関東弁が現れるようになった。考えてもみよ、今から高々140年前まで、日本人は、ちょんまげをし腰に刀を差していたのだ。それが現在ではどうだ。どこの世界のビジネスマンも皆一様にスーツにネクタイである。この世界の均一化は、著しいメディアの発達(とりわけインターネット)とグローバリズムによって急激に加速している。もしこの先数百年後において、奇跡的に人が生き残っていれば、世界法の元で国は消滅し、みな同じ言語を話し顔形や肌の色まで似通った人々となっていることだろう。これは不可避である未来の結論だ(もし人が生きていればね)。

さて、そして失われていく文化や伝統である。これらを残しておくことに意味があるのだろうか?そもそも文化は時代に適合して生まれたものである。それが時代の変化と共に適合しなくなれば独自で存在する意味はない。もちろん古き時代の良きものを失なうことによる現在という側面もあるだろう。しかし現在に適合しない古き物はモニュメントとして僅かに残るであろうが、実生活ではすべて忘れ去られていくだろう。もし、生きた状態で残す意味があるのであれば教えて欲しい。

あと50年もすれば世界の人々はみな英語で会話していることだろう。このことが最も特徴的であるが、その他の地域、文化もすべて互いに融合し合う。この均一化は少なからぬ良き面を持っている。相互理解が得やすくなるのである。誤解が少なくなれば争い事も少なくなる。

まあ、極論を言ってしまえば「人類補完計画」の発動ととてもよく似ているけどね。

関連記事:神仏と萌えキャラ 2009-12-28
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2009-05-05 01:11:08 | 思索
年寄と若者

まあ、持ちつ持たれつだね。
(^^)
年寄は若者に知識と視野を提供し、若者は年寄にエネルギーや活力、純粋を提供する。この広い世代間の付き合いやコミュニケーションはホントに大事だね。僕も日々大切にしたいと思ってるよ。年寄と若者は互いには無い異なる力を持っている。両者が力を合わせれば一人では到底できないこともできるようになる。会社もね、本来はこうやって成り立ってるんだよ。年寄ならではの眼力で、目的が何か、それは何処かを見つける。若者はそこに集中的にパワーを投入する。そして仕事が完結する。多くの場合ね。というのも、年寄の眼力と言っても、それは経験則に基づいた、いわば誰もが知っていることに過ぎない。年寄にはもうその枠をはみ出す力はない。ここで、常に新たな世界を切り開くのは、実は若者の恐れを知らない力(純粋故の自由)だ。時に若者は驚くような発想をする。伸びる組織、力のある集団は、この奇想天外な発想をとても大事にしているということだね。

また洗車

スタンドの、ガラス張りの待合室から景色を眺めてくつろいでるが、休日に洗車して、車を使わない平日に雨で汚れて、また休日に洗車するというのは何やらフに落ちないような。ぶつぶつ・・・。
しかしまあ、洗車しようにもそれどころではなかった2月3月に比べれば、いまはずいぶん穏やかではあるな。さてこの凪ぎ波がいつまで続いてくれるのか、刹那にまかせて行く所まで行ってみよう。
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双子星

2009-04-28 23:20:43 | 思索
多くの場合、世界は自分を中心に回ってるのだろう。これが、結局は人が孤独である所以だ。結局は、というのは、つまりは「祭のあとの寂しさ」(吉田拓郎)ということだ。祭が最高潮に達しているとき、その渦の中にあるすべての人の心は外に放出されている。その祭もいつしか終わり、人気もまばらになった暗がりに一人佇むとき、放たれていた心が自分に帰る。そしてふと寂しさが訪れる。帰ってきたのは自分の心一つ。

そんな時、誰かが傍らにいてくれれば、心を通わせ合える誰かと言葉を交わすことができれば、ふと寂しさを忘れる。心は外と自分を行きつ戻りつ、いつまでも相手の心と戯れる。このとき二人の、あるいは三人の世界は自分を中心にではなく、互いに互いを回り合っている。双子星のように。

自分一人の中に心をしまい込んでしまわなくてもいい。ほら僕はここにいるよ、と君は声をかけたいんだよね。
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倫理による証明

2009-04-27 23:10:15 | 思索
神が存在するか否かを論理で証明することはできない(神の定義は難しいが、ここではキリスト教の理念による神とする)。しかし、ドストエフスキーは著書「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の不在を倫理で証明している。人の中には断じて覆せない倫理があり、そこに基づいて語られるものは証明と言える。とはいえ難しい話ではない。ドストエフスキーのように子供のを想えばいいのだ。親に虐待されて死ぬ子供、白血病であと数ヶ月の命の子供、地雷で吹き飛ばされる子供を想う時、そこに神の姿はまるで見えない。

しかし子供を身勝手に殺す親の倫理はどうなのだ。人の中には不動の倫理の反存在も確かに在る。そして時折現れる。それがモラルハザードだろう。しかしモラルハザード自体がまた神の姿を虚しく霞ませる。つまり倫理もその反存在も、同様に神の不在を証明しているのである。
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アマテラス

2009-04-24 00:19:03 | 思索
お袋が脳梗塞で倒れ帰らぬ人となった時、淡々と思いを巡らせたのは、遠い記憶を遡りながら、あの時は嬉しそうだったな、またあの時は楽しそうだったな、きっと幸せだっただろうな、と、お袋の幸福を数え、その時間を足算することだった。というも、辛いこと、悲しいこと、苦しいことの積み重ねを必死に耐えて生きたお袋の人生を、どうしても幸せなものとしたかったのだ。幸せな人生とは何か、不幸な人生とは何か。辛い人生を生きたお袋の最期は最も痛ましく悲惨だった。生きることを終えたその人の人生が幸せであったか否かは、どう考えればいいのだろう。死ぬ直前がどうであったかで決まるのか?いや違う。

「地上に悲しみが尽きる日は無くても、地上に憎しみが尽きる日は無くても、それに優る笑顔が、ひとつ多くあればいい」(泣かないでアマテラス)

そう。僕は中島みゆき、に賛成だ。幸せな人生とは幸せの積分(足算)なのだ。僕は今、たぶん苦しい中にあるのだと思う。少なくとも5年前よりも間違いなく苦しい。このまま終わるのかも知れない。しかし既に、僕の人生は幸福な人生だったのだ。
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なるほど

2009-04-22 22:45:48 | 思索
学会さんは世界中すべての人々を皆、信者にしたいとのこと。ずいぶん前ではあるが、テレビの討論会で学会幹部(or公明党議員)が言っていた。司会者が「何故?」と尋ねると、「宗教なんだから当然でしょ。」との返答。なるほど。もともと好きでもなかったが、この時、決定的に世俗的宗教が嫌いになった。別に難しい話しではない。彼らは、世界中の価値観、倫理観を統一し、善悪正誤の判断や、人生の意味や目的を唯一に定めると言っているのだ。こんなこと、とうてい尋常とは思えないし、実現するはずもないことではあるが「それが宗教の本質であり、存在することの所以だ」と言われれば、なるほどと納得させられてしまう。数ある宗教はどれも、世のすべてを包括した絶対的解を有している(だから人を幸福にし、また不幸にもする)。逆説的に、それぞれの解が異なる故にそれらすべてが解ではないとも言えるが、彼らにとっては絶対であることが「信仰」という極めて特殊な精神現象につながるのだろう。しかしそんなことより、個別の集団に異なる絶対解が実在することの方が重要だ。これが何を意味するのか。つまり、それこそ絶対にお互い相容れず、話し合いや議論はまったく成立しないということだ。信者であるが故にこれほどまでに視野が狭くなり、人が個々異なることを受け入れられず、相手を全否定し、時には凄惨な争いにも至る。いったい何のための宗教か。宗教が信仰によって成り立ち、信仰を「ある特定のものを絶対と信じて疑わない」と定義するなら、宗教(団体)の存在そのものが間違いであると言わざるを得ない。
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