kohが発熱。
急遽店をお昼で閉めて大阪へ。
耳の下が大きく腫れているので耳下腺炎。今朝、かかりつけの医院で一応診てもらったのだが
すでにおたふく風邪には罹ったことがあるので細菌性だろうと。
基本的に人には感染しないということか?
しかし午後からあまりにもしんどそうにして、嘔吐も繰り返し、飲食が出来ない状況が続き病院へ連れて行くことに。
家内はsatoとfumiの守り。
でわたしが車でkohと娘を病院へ。
自分で歩くこともできず、病院に着いて車いすで院内へ。
ここでわたしは一旦帰り、待機。あとは娘が付き添い。
血液検査や点滴などをしてもらい、長時間かかった。
結果、詳細は省くが、大きな心配はないでしょうと。
ちょと安心して帰ってきました。
昨日は朝からよくないことが続いた。
先ず、朝8時ごろから頻繁ないたずら電話。
あまりにしつこいので電源を切った。
最近、人に恨まれることした覚えがないけどなあ。
次に重い話。
知人がやって来て、「孫がすべり台から落ちて頭蓋骨骨折で意識不明」と。
よく知っている子だ。kohと同じ二年生。なんということ。
次に、常連さんの一人が、連れを呼ぼうとケータイ。
すると急に深刻な声になり…。
これから先は書かずにおきます。
わたしは店の周りに清めの塩をまいた。
そして午後、先の意識不明の子どもは意識が戻ったと電話を下さった。
生死も危ぶまれ、助かっても脳に損傷がと心配されていたが、「お腹が空いた」と言ったという。やれやれ少しホッとする。
昼ご飯を済ませて、一人約束の人と会って、一件決着つけて。
菅原洸人小品展にサッと行ってきました。
今日が初日です。
洸人さんはただ今ご入院中で、ギャラリーには奥様とその妹さんがおられました。
三人で昔話などしてる所にお孫さんが学校からの帰りに来られました。
かわいい女子大生になっておられました。
またもう一度お元気になって頂いて、来廊する人たちとお元気に交流なさってほしいものです。
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↓ ここの横長の絵、わたしは初めて見るような気がします。わたし忘れっぽいから失念しているのかも。
そして油彩には力がみなぎっています。
小品ではありますがベテランの力量が発揮されています。
テレビの「八重の桜」を見ている時だった。ピンポンが鳴って「警察を呼んで下さい。誰か道に寝てはるんです」と女性が。開けてみると、ちょっと知っているXさんだった。指差す方を見るとすでに男性が立ち上がって西へ歩いて行く。よく聞いてみると実は男性はこのXさんのご主人だった。徘徊で困っていると。どうやら手には負えないらしい。家までついて行ってあげようとしたが、ご主人は西の通りに出た所で家とは反対方向へ。そこでまた奥さんから警察への通報を依頼され、奥さんはご主人を追って…。わたしは取って返し、110番に連絡。そしてまた取って返し、探したが奥さんともども見つからない。そんなところへ警官が二人、バイクで来てくれた。事情を話しているところに、息子さんらしい人がバイクで現れて、「一度帰って来たんですけど、また出て行って…」と言い残して探しに行った。奥さんが初め、うちのインターホーンで「知らぬ人が」というようなニュアンスで通報依頼をされたのは、事情をうちに知られたくなかったのでしょうね。でも仕方なしに…、というようなことで。その後、小一時間ほどして警察から電話があり「見つかりました」と。良かった。無事で良かった。しかし辛いな。ご主人も知っているが、しっかりした人だった。ここ数年前までは、お地蔵さんのお祭りにはご夫婦でお参りされていたのに。
門脇さんの個展を「北野坂」で観たあと、隣の坂、「ハンター坂」の「ギャラリー島田」で「林哲夫展」を観ました。
ここは12時オープンで、やはりわたしがトップ。
一緒に入って来られた人が林さんでした。京都からご苦労様です。
ここ「ギャラリー島田」さんには色々と思いでがあります。
以前、菅原洸人画伯も何度か個展をされました。
そして、今「喫茶・輪」に飾っている足立巻一(けんいち)先生の書をここで購入しました。
わたしの宝物になっています。
さて、林さんの個展を見せて頂くのはこれが二度目です。
前回はパリ書店を描かれた小品展でした。
今回はお若い頃の骨太の油彩画も出てました。
この案内状に使われていた絵、情緒があります。
小品ですが微かな哀しみを湛えた少女の目が印象的です。
帰りにポストカード、6枚セットを2種、買わせて頂きました。林さん、ご持参のお弁当を食べておられました。しみじみと、背を丸め。あのお姿、写真に撮りたかったなあ。
念のため申し添えますが、作品の撮影許可は頂きました。そしてブログアップのご許可も。
「お好きにどうぞ」と。
あ、そう言えば前ページの門脇さんにも同じく許可を得ています。
門脇さんの初個展を観ました。
彼女は、前にも書きましたが、詩誌「火曜日」の同人です。
透明感のあるいい詩を書く人です。
11時からでした。着いたら丁度。
ということで本日一番乗り。
彼女とたっぷり話ができました。
それがね、彼女の方が詩のことを質問してきて、こちらから絵のことは多く聞けませんでした。これはわたしがおしゃべりだからかな?
この絵、この春、西宮市展で最高賞を取った作品。その時、わたし彼女と知らずに写真に。といっても狙って撮った写真ではなくたまたま背景に写っていたのでした。
その時のブログです。
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20130705
「こんなまっとうな絵も描くんです」と彼女、恥ずかしそうに。でもいい絵ですよね。
これはまた、造形というのでしょうか、意欲作。空き缶で作られています。
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このさりげない展示ぶり。ちょっと面白い。
赤の入った作品、わたしは「ちょっとセクシー…」と言ってしまったが的外れかな?
ありがとうございました。
門脇さんは、わたしが想像していたよりはるかに力のある人でした。
御見それ致しました。
あ、因みに、詩を書く時のペンネームは岬美郷さんです。
ところが朝目が覚めると西宮では雨が降ってました。
だからきっと中止だろうと思って、もう一度寝ました。
しかし8時前になって娘から「運動会決行」のメールが。
行って昼ご飯を用意する予定をしていた家内は大慌て。
運動会は9時スタートです。...
もう間に合わないと思いながら、それでもお寿司の準備をして8時半に出発。
今日は高速道路を使いました。けど、これは高い。武庫川から海老江まで10分ほどを600円も。しかしまあ今日は仕方ありません。
着いたら9時前。家内はfumiの守りと昼ごはんの準備、入れ替わりに娘とわたしが幼稚園へ。
さてsatoの徒競争発走に間に合うか?
会場近くまで行くとアナウンスでsatoの競技が始まった様子。
二人で走る。やっと会場へ着くと入り口で娘の知り合いが「satoちゃんもうスタートよ」と。
またグランドを走って前へ行くと丁度スタートラインに立っていた。
間に合った。
写真は運動会終って、金メダルをもらったsatoです。
全員もらったんですけどね。
帰りに、「sato、その金メダル百円でジーチに売って」と言うと「イヤ!」と。
そこで、「なんぼやったら売ってくれる?」と聞くと
「一万円」と。
なんと現実的な奴だ。
一億円とかではなく、なんとなく商談まとまりそうな金額を言うとは!
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satoが通う幼稚園はN田幼稚園といいます。
大阪市福島区にあります。
周りには大きなビルが。
けど住民の数はそれほど多くはなく、園児の定員は140人とか。
運動会の様子を見ると、もっと少ないようでした。丁度あれぐらいの規模がいいですね。
kohの通う上F島小学校は全校生徒が120人程度と、これはまた学校としては極端に少ないのですが。
コピーをお送りしてさしあげたMさんが、ご自分のブログに丁寧な紹介文を書いて下さっている。
横着者のわたしに代わって書いて下さったような気がします。
それをまた横着にコピーさせて頂きます。
Mさん、ゴメンナサイ。
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時々『虹滅記』と『親友記』を覗きながら「非悪童物語」を読んでいる。自伝作品の最初の試みとして、後にどのように生かされたのか興味深い。最初の三回分は、『人の世やちまた』に「消えた少年たち」として収録されたが、その時もやはり手が加えられ、削られた行があったり、細かいことをいうと、「ぼく」が「わたし」にかわったりしている。第7回「光陰」から第11回「情譜」までは、『虹滅記』の第一章「敬亭」にそっくり生かされたようだ。また、神戸の小学校時代の多くのエピソードは『親友記』の中にリライトされて入っている。もちろん、初めて読むエピソードがいくつもある。
そして、足立ファンには嬉しい写真が何枚も載っていて、しかもそれに挿画を描いた津高和一さんが面白いキャプションを付けているのが楽しい。
最初は赤ちゃんの時。
次は、六歳ころ、≪なにもわからないぼくに大きな筆を持たせて写真をとったり、号(亭川)までつけたというのは、じいさんが父で満たされなかった思いのすべてをぼくにこめていたのだろうと思う。≫。
こちらは天才画家の作品。≪小学校にはいらぬうちから、赤穂四十七士の名は全部知っていたし、その名を漢字で書くこともできた。絵本のとおり墨でうつし、それに原色の水彩絵具で着色する。さらに説明文も書きうつす。もっとも、文字はじいさんが補筆してくれたが。≫。
気になることが一つある。それは、「非悪童物語」ではトオルさんとなっている米田透が、『親友記』ではなぜか川崎藤吉になっていることだ。吉田鶴夫(一鶴)は、吉田鶴夫だし、沢木は沢木として登場するのにである。
そのトオルさんの最初の詩集『色彩風琴』が最終回の題名だ。昭和四十三年の正月、広島から出てきた桑島玄二詩人と酒を飲んでいて、そのうち米田詩人を襲いたくなり、桑島詩人も「襲撃!」と号令を放って、米田邸へ行くことに。何もないので、冷蔵庫の隅にあったワサビづけの残りを包んで持って行く。≪四十年あまりむかしのトオルさんは、いまでは宣伝会社の「開発部門担当取締役」である。であるから、大橋六丁目の邸宅では当然特級酒が出た。ぼくと桑島詩人とはそれをガブ飲みした。与謝野晶子のような夫人は「結構なものを頂戴しまして」と、ぼくが持参したワサビづけを小皿にきれいに盛り付けて出した。≫ ところがそれは、一年以上前に貰ったもので、ピリッともなんともしない。それを詩人は「うまい、おれは大好物でな、こいつが」と口に運んでいる。≪そのとき、ぼくは夫人にむきなおっていったのである。「かれが詩集を出さんのは、おくさんが出ささんからやとみんないうてまっせ」そのとたん、夫人は「まあ――」と、美しい眉をフクチャンのようにかわいらしくくもらせた。夫人はいくらか涙声になってぼくにもらした。お金も用意してあるし、近く結婚することになっている娘さんまで貯金して一万円を供出しようといっているのに、本人が「お前らに詩のことがわかるか!」といって、どうしてもとりあわないのだそうである。それが、ほどなく出すことになった。「あのあと、女房と娘にヤラれてなあ」と、詩人はそののち出会った時に歎いた。≫ 『色彩風琴』の出版記念会で、≪竹中郁詩人が立ちあがった。「東洋には“はじらい”という美しい精神の独特の伝統があります。著者はその美しい“はじらい”を持ちつづける詩人であります。」 そのようなことを大声で、でも入れ歯が飛びださないかと案じるような口の動かせ方で述べた。適評と感謝した。すると、竹中詩人はコトバをついだ。「それをおくさんの尻を掻いて出させるのはどうかと思います。」 ぼくは思わず首をすくめた。≫
「非悪童物語」の結びは、≪トオルさんも、ぼくと出会わなかったら、おそらく詩集『色彩風琴』を出してはいないだろうと思う。短歌にさえ接近していないにちがいない。くされ縁というものであろう。それだけにぼくのようなトオルさんよりずっと詩のヘタクソな者が、二冊も詩集をだしているというのに、かれが“東洋のはにかみ”からかどうか知らないが、一冊も出さないというのは困るのである。
それで、竹中詩人のスピーチに首をカメのようにひっこめながら、四十年を越えるふたりの人生を内部で一瞬に通過させ、それから、満悦のひとり笑いを浮かべたのである。≫
久しぶりに足立文を堪能した。