ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番“皇帝”
ベートーベン:ピアノソナタ第32番
ピアノ:エドウィン・フィッシャー
指揮:カール・ベーム
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
CD:DANTE PRODUCTION HPC 007
時々とんでもないCDに出くわすことがある。このCDもその1枚である。スイス出身でドイツで活躍したピアニストのエドウィン・フィッシャーが52~53歳の油の乗り切った時の録音のCDなのである。エドウィン・フィッシャーというと、これまで歳をとった時の写真しか見ていなかったが、このCDのジャケットの写真は若々しく、20~30歳のころの顔写真に見える。若い時と歳をとった時の印象が大分違うのにまずはびっくり。録音されたのが今から70年も前なので音質は期待はできないだろうと思うと大違い。今でも鑑賞に十分に堪えうる音質レベルを保っており、これにもびっくり。特に“皇帝”の方は、現在のあまりに鮮明すぎる録音よりむしろ聴きやすいほどである。そしてこの“皇帝”の指揮がベームで、管弦楽がシュターツカペレ・ドレスデンという豪華組み合わせにもびっくり。というわけで聴く前から期待感が自然に高まる。
その演奏内容であるが、期待にたがわぬ名演奏に仕上がっている。特に名だたる名演奏が多くある“皇帝”の中でも一、二を争う出来栄えだ。第1楽章は大変軽快に流れるように、ピアノをらくらくと弾きこなす。普通どんな名ピアニストでも“皇帝”の第1楽章ともなると力が入り、リスナーの方もどうしても緊張してしまう。ところがフィッシャーは軽々と軽快に演奏するので、気が抜けるほどだ。でもよく聴くと、ほかのCDの方が重々しすぎるのであって、フィッシャーの方が普通だと感じさせるのは、さすが大家だけのことはあると思う。この後の第2楽章はというと、これまた、通常の“皇帝”とは大分違う。正にドイツロマン主義の甘い香りを馥郁と漂わせたロマンチックそのものといった弾きっぷりなのである。ベートーベンがまるでシューマンになったようだ。そして、最後の第3楽章となると、待ちに待ったベートーベンらしい男性的な堂々とした“皇帝”そのものの演奏で締め括る。カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデンも好演。この“皇帝”のCDを聴き終えると、エドウィン・フィッシャーの思いが存分に込められた名盤という印象を受ける。
32番のピアノソナタの方は、残念ながら“皇帝”より録音状態は良くない。でも鑑賞には堪えられるのでこれでよしとしよう。この32番のピアノソナタはベートーベンが人生の最後に到達した心境を赤裸々に綴った至高のピアノソナタだ。第1、2楽章でフィッシャーの演奏は、ベートーベンの精神を淡々と表現しきった演奏を聴かせる。一方、第3楽章のフーガは壮大この上ない演奏を見せる。この演奏も32番の数ある録音の中でも特質されべきものだと思う。それにしても、とんでもないCDはほんとに存在するものだ。これがあるからクラシック音楽リスナー稼業から、なかなか足を抜け出させそうにもない。(蔵 志津久)