18日(金)、高江から那覇に戻り、テレビの高江関連ニュースを見て驚いた。ちょうど、朝、私たちが、共同売店の近くで、沖縄防衛局職員や作業員らの車を止めて抗議をしていた現場に、伊波敏男さんがおられたのだ。沖縄の市民運動のリーダーの一人・伊波義安さんのお兄さんだ。今は、長野県で「信州沖縄塾」の塾長を務めておられる。
伊波敏男さん(67歳)は、1942年南大東島生まれ。15歳のとき、ハンセン病を発病し、名護の愛楽園に入られた。敏男さんは、愛楽園の中にある中学を出ても勉強を続けたいと思われたのだが、当時、全国のハンセン病療養所で高校を併設しているのは、岡山の愛生園しかなかった。
やむなく、敏男さんは、愛楽園を脱走する。当時、アメリカ軍からは、「島を脱走する者は死刑」という恫喝が出ていた時代だった。苦労してパスポートを手に入れ、脱走の機会を伺う。そして、ある夜、暗闇の中、点滅する光を合図にサバニで島を抜け出す。鹿児島にしばらく身をひそめた後、敏男さんは、無事、愛生園に着いた。
そして、敏男さんは、学校を終え、社会福祉関係の仕事に就き、ハンセン病患者らの権利回復の運動に打ち込まれてきた。
(2月19日、沖縄タイムス)
沖縄タイムスによると、敏男さんは、高江を訪問した感想を次のように述べられている。
「故郷がどうなるのか胸が押しつぶされそうな思い。国家政策のため、多数のために少数者を常に犠牲にする。ヘリパッド問題はハンセン病問題とものすごく共通している。」
私が、伊波敏男さんのことを知ったのは、昨春、愛楽園に行った後、もっと勉強しようと、彼の著作『花に逢はん』を読んだからだ。偶然、インターネットで古本を探して入手した本には、敏男さんのサインがついていた。素晴らしい本で、一気に読み終えた。
名護の愛楽園については、私の昨春のブログを参照。