(ハンストも2日目に入った。上原さん(左)、小橋川さん(右))
8月16日(木)、オスプレイ配備反対の無期限ハンストに入られた上原さん(85歳)、小橋川さん(69歳)たちのことが心配で、今日も、午後、石平(いしんだ)の座り込み現場に行った。幸い、お2人ともまだ元気そうなので一安心だ。
午後の3時間ほどだけだが、一緒に座らせてもらった。支援の人たちが次々にやってきて賑やかだ。皆で、前の国道を走る車に手を振る。2台に1台ほどの車は、座り込みテントに向かって手を振ってくれる。オスプレイ配備に反対する県民の熱い思いが感じられてうれしい。
私は、この日、午後4時過ぎに現場を離れたのだが、夜、Tさんからの知らせが入った。上原成信さんが、午後9時、ドクターストップのために、ハンストを中止されたとのこと。85歳というご高齢にもかかわらず、この猛暑の中、2日間のハンストを頑張られたことに、本当に頭が下がる。後は、無事、体調が回復されることを願うばかりだ。
以下、お2人の声明文を紹介しよう。
<上原成信さん>
1.決心の動機
普天間飛行場を取り返す時期に来ていると考え、皆さんと協力してそれを実現しようと沖縄に来たら、小橋川さんがハンストでオスプレイ配備反対の意思表示をしたいと言ったのでそれに同調することにした。
2.ハンストの意義
沖縄にいる人の気持ちを励まし、ヤマトの日本国民と世界中の心ある人々に沖縄住民の反軍事基地の気持ちを訴えることにいくらかでも役に立つことを期待する。
3.今回の行動の背景
・私は那覇市住吉町(現・那覇軍港)の出身で、日本復帰前後に日米政府は那覇軍港の土地の返還を約束したのに40年後の今に至るも実行されていないのは不当なことである。
・私の父は60歳に近い歳で沖縄戦に巻き込まれ戦死の場所も遺骨も不明である。
・東京住まいながら新崎盛輝氏などが訴えた一坪反戦地主会の一員として加盟し、普天間飛行場の一坪地主となっているので、その土地の返還を求める権利がある。
<小橋川共行さん>
私は沖縄県うるま市石川に住んでいます。そこは嘉手納飛行場の飛行ルートになっていて、軍用機のごう音、耳も痛くなるほどのすさまじい音に悩まされ、怯えている毎日です。
私たちの石川では、小学校にジェット機が突っ込んだことがあります。この事故で18名の子ども、市民の命が奪われました。私の妻の叔父もこの時亡くなりました。そして200名余の子ども・市民が傷を負い、後遺症に苦しみました。1959年6月30日のことです。
また隣の川崎区ではジェット戦闘機が墜落、2人の青年が命を奪われました。母親の一人はそれ以後、精神に異常をきたしたそうです。1961年12月7日のことです。
その他、読谷村デパラシュート降下物に押し殺された小学校の女の子、私たちの住まいの前を通って行ったサリン等の毒ガス、嘉手納飛行場でのB52炎上事故---等々。恐怖の記憶は積み重なっているのです。
オスプレイの恐怖から逃れ、なんとかして、家族の命、生活と暮らしを守りたいという思いを一人でも多くの人に分かって欲しいのです。