昨年末、義弟にたのんで梅の木を切ってもらいました。
枝が伸び過ぎたのでちょっと切ってちょと言ったつもりが、何を間違えたか、彼は太い幹からゴシゴシとぶった切ってしまいました。なので、残った幹はこの厳冬で、枯れてしまうだろうと思っていました。
ところがここ1週間ほどで、タキソール時に脱毛したような非常にみっともなく残った毛のようなみずぼらしい残り枝から、なんと紅い梅のつぼみが。今朝みたら、花が咲いたじゃないですか!
梅の木のたくましさに脱帽です。そして、調子いいですが、耐えがたきを耐えた紅の花の美しさに、うっとりです。やはり、花を眺めるのは豊かな気持ちになりますね。←うん、本当に勝手だよね。
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ある医師のブログより、インフォームドコンセントに対する考え方がおもしろかったので、抜粋します。
【もはやヒポクラテスではいられない(もはヒポ) 21世紀新医師宣言プロジェクト】
「今のインフォームド・コンセントはおかしすぎる!」。皆さんも、おかしいと思っていますよね?
私はよく、うちの病院の研修医たちに「インフォームド・コンセントの目的とは何か?」と聞いています。すると、研修医は「患者にとって最適と考えられる診療方針を立てること」と返答します。なんだ、ちゃんと分かってるじゃないですか。でも、実際の診療場面におけるインフォームド・コンセントでは、上記のような目的で行われているとは言い難いと私は思っています。
医師の治療方針を患者が拒否したときの受け止め方に違和感
これは、別に医療者が患者に対して説明を怠っているということではありません。むしろ、現代の医師は、患者に懇切丁寧に説明することに必死であるように私には見えます。全身麻酔の手術などの説明に至っては、内科医である私も知らないようなことまで丁寧に、何度も何度も説明しています。みんなあんなに毎日忙しいのに。私はその努力に敬服する一方で、一体これはどこに向かっているのだろうかと疑問も感じます。
誤解を恐れず、さらに付け加えます。しっかりとしたインフォームド・コンセントが行われた場合、“医学的には最も適切と考えられる選択肢を選ばない頻度”が増えると私は考えています。例えば、つい先日Hbが4.7g/dL(ちなみに鉄欠乏性です)しかない患者に対して、入院もさせず、それどころか内視鏡検査も行わないということで私と患者は合意してしまいました。もちろん、その後も私はその患者に対して内視鏡検査を受けることを勧め続けるのですが。なぜ私は医学的には愚かと考えられる選択に合意してしまったのでしょうか?
それは、たぶん私が患者の言い分に納得してしまったからだと思います。「自分の具合が特に悪くないうちは、できれば病気と関わりたくない。知ってしまうと病気になるから。そしてもし癌があるとわかっても手術をする気はない。癌があると知りながら生きるよりも、元気に今を生きていたい」と。
医師が提案する治療に対して患者がそれを拒否したとき、医師はしばしば「インフォームド・コンセントを取得することができなかった」と感じてしまいます。この感覚に私は強烈な違和感を覚えるのです。なぜ「治療(もしくは検査)を行わず経過を見ていくことで合意した」という感覚を、医療者が持つことができないのでしょうか? それは、「医師としての自分が正しいと思っていることこそが、患者にとって正しい」という考えに、我々が縛られすぎているからではないか、私はそう考えます。
医療者、患者の両方が読める手引書が完成
そういった思いから、この手引書は「こんなインフォームド・コンセントはおかしい」という違和感をベースに、また生命倫理学の専門家の方々や医療におけるコミュニケーションに詳しい方、実際に患者と医療者をつなぐ懸け橋として毎日仕事をされている方など合計15人の方々に手伝っていただき作成しました。私はこの手引書で、以下のことを強調しました。
・全部理解する、全部理解させるということを放棄し、お互いにほんの少ししか理解できないことを、前提として受け入れた上でのインフォームド・コンセントであること
・医療者の患者への説明よりも、医療者が患者の事情を理解することがインフォームド・コンセントにはより大切であること
・「人は迷うものである」ということ。すなわち、決断を保留したり、いったん行った決断を覆したりすることが大切であること
・何よりも、対話あっての決断であること
この手引書はユニークな構造をとっています。見開きページの中で、左は医療を受ける人が見るページ、そして、右ページは医療を提供する人が見るページになっています。インフォームド・コンセントの進行過程それぞれにおいて、医療を受ける側は何をすればよいか、提供する側は何をすればよいかが分けて書いてあります。そうすることで、医療を受ける立場の人は、自分が何をすればよいか知ることができると同時に、医療提供者がするべきことを知ることができます。是非一度現物を見ていただきたいです。以下のサイトからpdfをダウンロードできます。
●患者と医療者で「ともに考える」インフォームド・コンセントの手引き
http://www.ishisengen.net/information04.html
さて、このようなことを書きますと、決まって出てくる反対意見は、「今のままでもインフォームド・コンセントは大変なのに、患者と医療者で一緒に考えて進めるなんて、そんなに時間と手間をかけていたら、いくら時間があっても足りないじゃないか?全く現実的じゃない!」というものです。
21世紀に目指すインフォームド・コンセントは「相談しよう、そうしよう」
そうですね。現実的に変化しなければ意味がありません。それでは、まず説明するのをやめてみてはどうでしょうか? ちょっとラジカルすぎますかね。説明する時間を短くしてみてはどうでしょうか? たとえば、ある特定の病気を持った患者に対して毎回同じ内容を説明しているのであれば、事前にビデオに撮ってDVDやYouTubeなどで見てもらうなどの工夫をすることで、時間を短縮できるかもしれません。そして、その分直接対話するときに、自分からの話をぐっとこらえて患者の事情や言い分を聴く。そのような対話スタイルが今のインフォームド・コンセントには必要だと私は思うのです。
西欧では、インフォームド・コンセントのプロセスについて、もっと患者側の選択する権利を強調すべきだという立場から「インフォームド・チョイス」という言葉の方が適当ではないかという話があります。また逆に、医療を提供する立場と受ける立場が、それぞれ情報や責任をシェアするべきだという主張から「Shared Decision Making」という言葉が適切ではないかという議論もありました。
実は、日本語にはインフォームド・コンセントの本来の意味をより的確に表す言葉があります。それは「相談して決める」ということです。私は「相談」という言葉がとても好きです。相談という言葉には、主体とか立場の存在が希薄です。その分、「話されていること」に目を向けている感じがします。医療の良いところは、立場の駆け引きをする必要が(本来は)ないサービスだということです。だから、しっかり相手の話を聞きながら、患者にとって良いことについて自分の言葉で話し、相談を繰り返すことが現代の医療におけるインフォームド・コンセントのエッセンスなのだと私は考えます。
“相談しよう、そうしよう。相談しよう、そうしよう”(by ハイロウズ “相談天国”)
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以前、糖尿病の市民講座で、長年患っていると思われる患者らしき人が、何度も説明を受けていたであろう病気の説明を理解できず、講座の場で大立ち回りをしてしまった話を書きました。
私は、医師などの専門家が言うことを、一言一句理解することは不可能だと考えています。相手は専門家、こっちはタダの人です。“6歳の子供に教えるようにわかりやすく説明する”ことができるのは、アウトラインに過ぎないと思うのです。根本から理解するには、診察室での数十分では非常にむずかしいのではないでしょうか。
治療は、専門家だって迷う。タダの人はもっと迷うでしょう?
以上のように考える私は、この治療を選択した時のメリット・ディメリット、奏功率、奏功しなかった場合はどうなるか、、などの方に関心を持ちます。一生懸命病気を学んで治療を選択したとしても、治療が奏功しない場合もある。癌治療なんて、その確率の方がはるかに高いのです。
その時、自分をどうやって保つのか、を考えておいたほうがいいような気もするのです。
専門性の高い治療の話はアウトラインの理解に留めてよしとする、じゃ、だめ(・∀・)???
患者としては、まともな病院、誠実な医療スタッフを探すことに労力をかけることも大切かと思います。患者力が問われるのは、医療スタッフに「治してあげたい」と思われる患者になれるか、かなあ。
あ、私はギャンギャン言うほうなので、全く自信がありませんが( `▽)ゞ。
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This blog “The salon of breast cancer women authored by Noe:l” is able to read in Japanese:-)
枝が伸び過ぎたのでちょっと切ってちょと言ったつもりが、何を間違えたか、彼は太い幹からゴシゴシとぶった切ってしまいました。なので、残った幹はこの厳冬で、枯れてしまうだろうと思っていました。
ところがここ1週間ほどで、タキソール時に脱毛したような非常にみっともなく残った毛のようなみずぼらしい残り枝から、なんと紅い梅のつぼみが。今朝みたら、花が咲いたじゃないですか!
梅の木のたくましさに脱帽です。そして、調子いいですが、耐えがたきを耐えた紅の花の美しさに、うっとりです。やはり、花を眺めるのは豊かな気持ちになりますね。←うん、本当に勝手だよね。
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ある医師のブログより、インフォームドコンセントに対する考え方がおもしろかったので、抜粋します。
【もはやヒポクラテスではいられない(もはヒポ) 21世紀新医師宣言プロジェクト】
「今のインフォームド・コンセントはおかしすぎる!」。皆さんも、おかしいと思っていますよね?
私はよく、うちの病院の研修医たちに「インフォームド・コンセントの目的とは何か?」と聞いています。すると、研修医は「患者にとって最適と考えられる診療方針を立てること」と返答します。なんだ、ちゃんと分かってるじゃないですか。でも、実際の診療場面におけるインフォームド・コンセントでは、上記のような目的で行われているとは言い難いと私は思っています。
医師の治療方針を患者が拒否したときの受け止め方に違和感
これは、別に医療者が患者に対して説明を怠っているということではありません。むしろ、現代の医師は、患者に懇切丁寧に説明することに必死であるように私には見えます。全身麻酔の手術などの説明に至っては、内科医である私も知らないようなことまで丁寧に、何度も何度も説明しています。みんなあんなに毎日忙しいのに。私はその努力に敬服する一方で、一体これはどこに向かっているのだろうかと疑問も感じます。
誤解を恐れず、さらに付け加えます。しっかりとしたインフォームド・コンセントが行われた場合、“医学的には最も適切と考えられる選択肢を選ばない頻度”が増えると私は考えています。例えば、つい先日Hbが4.7g/dL(ちなみに鉄欠乏性です)しかない患者に対して、入院もさせず、それどころか内視鏡検査も行わないということで私と患者は合意してしまいました。もちろん、その後も私はその患者に対して内視鏡検査を受けることを勧め続けるのですが。なぜ私は医学的には愚かと考えられる選択に合意してしまったのでしょうか?
それは、たぶん私が患者の言い分に納得してしまったからだと思います。「自分の具合が特に悪くないうちは、できれば病気と関わりたくない。知ってしまうと病気になるから。そしてもし癌があるとわかっても手術をする気はない。癌があると知りながら生きるよりも、元気に今を生きていたい」と。
医師が提案する治療に対して患者がそれを拒否したとき、医師はしばしば「インフォームド・コンセントを取得することができなかった」と感じてしまいます。この感覚に私は強烈な違和感を覚えるのです。なぜ「治療(もしくは検査)を行わず経過を見ていくことで合意した」という感覚を、医療者が持つことができないのでしょうか? それは、「医師としての自分が正しいと思っていることこそが、患者にとって正しい」という考えに、我々が縛られすぎているからではないか、私はそう考えます。
医療者、患者の両方が読める手引書が完成
そういった思いから、この手引書は「こんなインフォームド・コンセントはおかしい」という違和感をベースに、また生命倫理学の専門家の方々や医療におけるコミュニケーションに詳しい方、実際に患者と医療者をつなぐ懸け橋として毎日仕事をされている方など合計15人の方々に手伝っていただき作成しました。私はこの手引書で、以下のことを強調しました。
・全部理解する、全部理解させるということを放棄し、お互いにほんの少ししか理解できないことを、前提として受け入れた上でのインフォームド・コンセントであること
・医療者の患者への説明よりも、医療者が患者の事情を理解することがインフォームド・コンセントにはより大切であること
・「人は迷うものである」ということ。すなわち、決断を保留したり、いったん行った決断を覆したりすることが大切であること
・何よりも、対話あっての決断であること
この手引書はユニークな構造をとっています。見開きページの中で、左は医療を受ける人が見るページ、そして、右ページは医療を提供する人が見るページになっています。インフォームド・コンセントの進行過程それぞれにおいて、医療を受ける側は何をすればよいか、提供する側は何をすればよいかが分けて書いてあります。そうすることで、医療を受ける立場の人は、自分が何をすればよいか知ることができると同時に、医療提供者がするべきことを知ることができます。是非一度現物を見ていただきたいです。以下のサイトからpdfをダウンロードできます。
●患者と医療者で「ともに考える」インフォームド・コンセントの手引き
http://www.ishisengen.net/information04.html
さて、このようなことを書きますと、決まって出てくる反対意見は、「今のままでもインフォームド・コンセントは大変なのに、患者と医療者で一緒に考えて進めるなんて、そんなに時間と手間をかけていたら、いくら時間があっても足りないじゃないか?全く現実的じゃない!」というものです。
21世紀に目指すインフォームド・コンセントは「相談しよう、そうしよう」
そうですね。現実的に変化しなければ意味がありません。それでは、まず説明するのをやめてみてはどうでしょうか? ちょっとラジカルすぎますかね。説明する時間を短くしてみてはどうでしょうか? たとえば、ある特定の病気を持った患者に対して毎回同じ内容を説明しているのであれば、事前にビデオに撮ってDVDやYouTubeなどで見てもらうなどの工夫をすることで、時間を短縮できるかもしれません。そして、その分直接対話するときに、自分からの話をぐっとこらえて患者の事情や言い分を聴く。そのような対話スタイルが今のインフォームド・コンセントには必要だと私は思うのです。
西欧では、インフォームド・コンセントのプロセスについて、もっと患者側の選択する権利を強調すべきだという立場から「インフォームド・チョイス」という言葉の方が適当ではないかという話があります。また逆に、医療を提供する立場と受ける立場が、それぞれ情報や責任をシェアするべきだという主張から「Shared Decision Making」という言葉が適切ではないかという議論もありました。
実は、日本語にはインフォームド・コンセントの本来の意味をより的確に表す言葉があります。それは「相談して決める」ということです。私は「相談」という言葉がとても好きです。相談という言葉には、主体とか立場の存在が希薄です。その分、「話されていること」に目を向けている感じがします。医療の良いところは、立場の駆け引きをする必要が(本来は)ないサービスだということです。だから、しっかり相手の話を聞きながら、患者にとって良いことについて自分の言葉で話し、相談を繰り返すことが現代の医療におけるインフォームド・コンセントのエッセンスなのだと私は考えます。
“相談しよう、そうしよう。相談しよう、そうしよう”(by ハイロウズ “相談天国”)
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以前、糖尿病の市民講座で、長年患っていると思われる患者らしき人が、何度も説明を受けていたであろう病気の説明を理解できず、講座の場で大立ち回りをしてしまった話を書きました。
私は、医師などの専門家が言うことを、一言一句理解することは不可能だと考えています。相手は専門家、こっちはタダの人です。“6歳の子供に教えるようにわかりやすく説明する”ことができるのは、アウトラインに過ぎないと思うのです。根本から理解するには、診察室での数十分では非常にむずかしいのではないでしょうか。
治療は、専門家だって迷う。タダの人はもっと迷うでしょう?
以上のように考える私は、この治療を選択した時のメリット・ディメリット、奏功率、奏功しなかった場合はどうなるか、、などの方に関心を持ちます。一生懸命病気を学んで治療を選択したとしても、治療が奏功しない場合もある。癌治療なんて、その確率の方がはるかに高いのです。
その時、自分をどうやって保つのか、を考えておいたほうがいいような気もするのです。
専門性の高い治療の話はアウトラインの理解に留めてよしとする、じゃ、だめ(・∀・)???
患者としては、まともな病院、誠実な医療スタッフを探すことに労力をかけることも大切かと思います。患者力が問われるのは、医療スタッフに「治してあげたい」と思われる患者になれるか、かなあ。
あ、私はギャンギャン言うほうなので、全く自信がありませんが( `▽)ゞ。
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This blog “The salon of breast cancer women authored by Noe:l” is able to read in Japanese:-)
話通じない人には、何を話しても、通じませんしね~。
難しいです。
ところで、AIJの件、どんなマネーゲームがあったのでしょう??
AIJのトレーダーは、「投資は、ハイリスク・ハイリターンでーす。今回は失敗しちゃったというだけでーす」とでも、言ったのかな。
となると、ネズミ講体感的には変わりませんね(爆)。
「未来は僕らの手の中 禁パチ禁スロ鬱病ブログ」管理人のえっくすと申します。
私は現在鬱病でネット収入だけを頼りに生活している情けない男です。
ブログを拝見させて頂き、世の中には鬱病だけでなく色んな病の方もいるのだと深く考えさせられました。
それと同時に自分ももっと強く生きていかなければいけないと気付かせて頂けました。
もしよろしければ相互リンクのお願いをさせて頂けないでしょうか?
気が向いたらで構いませんので一度ブログを見に来て頂けたらなと思います。
http://miraiwabokuranote.blog.fc2.com/
アクセス数は平均1500~2000位です。
突然のコメント大変失礼致しました。
応援ポチして帰らせて頂きます。
読んで頂きありがとうございました。
失礼致しますm(__)m
ほんと、世の中、いろんな病気と戦う人がいますよね。病気は異なっても、病気になってから考えることは、にたようなことも多いかと。
病気と戦って辛いのは、自分一人じゃないなあと思えると、ちょっとは元気になれるんじゃないかと、そんな気持ちでブログを書いています。よろしくお願いいたします。