ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

怪談1

2016年06月19日 | 聖書



      夏になると、怪談話が出てきます。
      先日はテレビで、稲川順二さんのインタビューがありました。

      もともとは、有能なデザイナーで、その世界での実績もある方だったのですが、その後タレント活動、
      さらに、とても評判の怪談話の講演で全国をまわっているとか。

      インタビューの中でも、上手に怪談話を織り交ぜて披露していた。

           

      怪談話を聞いたことのない人はいないのではないでしょうか。
      子供のときは、結構怖がるので、
      一度や二度は、聞かされるでしょう。

      私の子供の頃は、夏の定番の怪談話が映画館にかかっていたものです。
      たとえば、「四谷怪談」。
      その霊は強くて、芝居でも映画でもそれを興行するときは、
      かならず「霊のさわり」があるということでした。

      役者がけがをしたり、小屋が災難に会わないために、まず供養をしてから始めるとか。
      劇場の前には、確かに小さな祭壇が設けられていた記憶があります。
      それがまた、見る前から、「怪談」にリアリティを与えます。

           ★★

      一口話のような怪談は至る所にありました。誰でも、一つや二つ「怖い話を」知っていて、
      中には定番のような話もあるのです。

      たとえば、夜遅く「知り合いの奥さん」が訪ねてきて、何も言わずに帰って行った。
      後で聞くと、その時間に、その奥さんは亡くなっていた。

      タクシーの怪談も定番だった。
      さびしい通りや、お寺のそばでお客を乗せて、目的地に着いたので「お客さん。着きましたよ」
      と振り返ると、だれもいなかった。

      バリエーションはいろいろあって、バックミラーには写っているのに、じっさいにはいなかったとか、
      後ろで声は聞こえるのにバックミラーに何も映っていないとか、
      客が降りた場所も、後で、その家には、母を亡くした赤ん坊がいて、その母親は数日まえに
      亡くなっていた。

      私が祖母から聞いた話では、祖母の祖母に、ときどき蛇が憑いて、蛇憑きの状態になると、
      突然、太い柱を蛇のように、するすると上って、
      天井近くの大きな神棚に横になる。
      祈祷師に来てもらって祈ってもらうと、蛇が離れて、けろりとして降りてくる。

      まあ、これらの話に共通しているものは、たいてい伝聞で、バリエーションがたくさんあることです。
      それでも、思わず身を乗り出して聞きたいのですから、人は霊の存在を信じているように思えます。

              ★★★


      最近はあまり怪談を聞かないと思っていたのは、自分が聞かないだけだったようです。

      夏だけ特設の「お化け屋敷」は、東京の真中でもあるようですし、
      霊を透視するとか、霊を呼び出す、霊を無力化するとかいう「霊能師」は、結構盛況であるらしい。

      死んだらおしまいだ、何もないと豪語しているようなおじ様でも、
      自分の親や子供や奥さん、兄弟など、身近な人の死を見ると、
      幽霊でもいいから、もう一度会いたいと思うのではないでしょうか。

      亡くなった人が、どこかで、少なくとも霊の状態で生きていると信じるからです。

      雨月物語の世界は、いまでも、あり得ると、私は考えています。
      
             ★★★★

      
      聖書は、霊を信じない人には、読めないと思います。

      その書き出しは次のようになっています。

      初めに神が天と地を創造した。
      地は茫漠として何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊が水の上を歩いていた。
                                    (創世記1章1節2節)

      神が霊であると、その最初から、聖書は記しているのです。
      さらに人の創造と霊は不可分です。

      神である主はと地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
      そこで人は生きるものとなった。    (創世記2章7節)


      人間は、霊が入っていて生きるものであるのを、
      私たちはみんな、本能的に「知っている」のではないでしょうか。 

      死は、とりあえず体の見える成分である[地のちり]の崩壊で、
      じつは、その中にあったはずの霊は、どこかに存在している・・・?
      それは、どこかにあって、生きているはずだ・・・。

     
      それにしても、神からいただいたは、幽霊のと同じでしょうか。







      
        


 


潔白であるということ

2016年06月16日 | 聖書



        旧約聖書には、何人か特筆すべき指導者が記録されていますが、
        古代イスラエル王国のためにキングメーカーとなった預言者サムエルは、
        出エジプトを指導したモーセと並べうる大きな存在でした。

        彼は、幼い時から神に仕え、早くから神の言葉を取り次ぎました。
        預言者としての抜群の力にくわえて、
        指導力があり、いつも周辺国から侵略されていたイスラエルを
        守り抜き、また
        正しいさばきで、民の信頼を得ていました。

        しかし、彼の息子たちは不肖の息子でした。
        せっかく父のあとを継いで「さばきつかさ」になったのですが、
        不正が多く、利得を追い求め、
        わいろを取り、さばきを曲げていたと書かれています。
        民は、このことに不満をつのらせ、
        サムエルに、
        「どうか、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立てて下さい。」と、
        王制を要求するのです。

        それまでの、イスラエルは、祭司や預言者が神にお伺いを立てて、
        政策を選ぶ「神聖」政治国家だったのです。
                  

        サムエルは、民の要求を気に入らなかったのですが、
        意外なことに、神は「民の要求を入れるよう」仰せになり、
        神のお示しになるまま、サムエルはベニヤミン族のサウルという若者を王に選びました。

        以下の聖書の記述は、民の前で、サウルを任命し、政権を移譲するとき、
        サムエルが行った演説です。
                  


        サムエルはすべてのイスラエル人に言った。
        「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、
        あなたがたの上にひとりの王を立てた。

        今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年を取り、髪も白くなった。
        それに、私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。
        私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。

        さあ、今、主の前、油注がれた者の前で、私を訴えなさい。
        私がだれかの牛を取っただろうか。
        だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。
        だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。
        もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」

        彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、
        人の手から何かを取ったこともありません。」
                          (旧約聖書・Ⅰサムエル記12章1節~4節)



         サムエルが「さばきつかさ」としてまつりごと(政治)を行うときに、
         神の前に、
         いつも、公正と潔白を心がけていたことがわかります。
         自分の息子の地位も、民と同じにし、

         自分に不正があるなら、
        「油注がれた者(新しい王サウル)に訴えなさい」と言っているのです。

         地位のある人、権力のある人、人の上に立つ人はすべて、
         このサムエルのように、潔白であってほしいですね。

         

         


        

       

Pas de deux exam 2012 Bolshoi Ballet Academy

2016年06月15日 | 踊る


     ボリショイバレエアカデミーの学期末の公開試験です。
   パートナリングという部門です。
   クラシックバレエでは、男性と女性がパートナーとなって踊る場面があります。

   力づよい男性に対して、女性ダンサーの柔らかい美しさが際立って、
   観客を、夢の世界へ引き込みます。

   この生徒たちは、13,4歳かと、推測します。
   まだ、男の子たちが、ちょっとひ弱に見えます。けれども、
   事実は、たいへんな重さを支えて、顔色一つ変えず、揺るぐことなく踊っているのです。

   18歳で卒業するころには、見た目は立派な大人のバレーダンサーになります。
   プロに入ってから、
   いっそう厳しい習練が必要なのは、いうまでもありません。


Pas de deux exam 2012 Bolshoi Ballet Academy











バイリンガル・バイブルスタディ 神を信じるとは

2016年06月13日 | 聖書


     町田クリスチャンセンターでは、毎月第2、第4日曜日の午後2時、
     バイリンガル聖書スタディを開いています。
     昨日のテーマは、
     TRUSTING IN GOD (神を信じるとは)でした。


      


     神を信じるのは、信仰の第一歩です。究極の立ち位置でもあると思います。

     私たちは、多くのものを信じて生きています。
     およそ、人生は信頼(信仰)の上に拠って立っています。

     電車に乗るのも、椅子に座るのも、知らない建物に入って行けるのも、
     私たちは、それらが自分に害を及ぼさないと信頼しているからです。
     食べ物も、着るものも、勉強するのも、仕事をするのも、
     信頼関係がなければ始まりません。
     友人関係、夫婦関係、親子関係だって信頼の上に立っています。

     でも、人間世界のすべてのものは、ときにその信頼が裏切られます。
     壊れるはずがないビルが壊れます。椅子の脚だって折れることがあります。
     食べ物に賞味期限や成分が表示されているのは、
     何もないと「怪奇」で、口に入れられないからです。
     着る物もいろいろと選びます。アレルギーを起こすこともあるからです。

     信頼関係で立っているはずなので、
     会社がつぶれてしまったり、
     離婚しなければならなかったり、
     友人に裏切られたりすると、
     たいへんなショックを受けます。

     信頼できるのは、お金だけだという人もいます。
     権力を握れば大丈夫だと独裁者になった人は大勢います。
     「健康第一」というのは説得力がありそうです。
     でも、人は、必ず死にます。自分のからだも、自分を裏切る時がくるのです。

     神様だって「あてにならない」と言う人もいます。
     お守りを持っていたのに試験に落ちた。難産だった。結婚に失敗した。
     「どこに神がいるのだ」
     「神がいるなら見せてくれ」

          

      神様は小さなお守り袋に入れられるような方ではありません。
     大きな神殿や寺院にも入りきれるはずもありません。
     深山幽谷も広大な砂漠も、宇宙万物も,神様をお入れすることはできません。
     すべてのありとあらゆるものが、神様のなかにあるのです。
     とても、とても大きな方、天地万物をお造りになり、すべてを統べておられる方、
     全知全能で、私たちを造ってくださり、
     それゆえに、何よりも、私たちを愛して下さっている方が、聖書の神です。
          


       こころを尽くして主により頼め。
       自分の悟りに頼るな。

       あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
       そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
                        (箴言3章5節6節)
      
                ※主=神


      信仰は、信頼することです。信頼するに足りる方を信仰することです。
      ぜひ、学びにお出で下さい。