ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

後藤健二さん

2016年02月03日 | 聖書


      一年前の記事です。
      フリーランスというきびしい世界で仕事をしていて、
      勇敢に問題に飛び込み、
      テロの犠牲になった、ひとりのジャーナリストに
      あらためて追悼の意を表したいと思います。





       書こうか書くまいか、迷うのです。
       話題の人について書くのは、体質に合わないのです。

       言わないではいられないのは、後藤さんがフリージャーナリストだからです。
       フリージャーナリストということばが、すっかり有名になったと思いますが、
       どれくらい理解されているでしょう。

       ジャーナリストという仕事をフリーでするのは、じつは大変過酷なことです。
       身近にフリージャーナリストを見てきたので、よくわかるのです。



       フリーの仕事は、たくさんあります。
       ミュージシャンや俳優、画家、作家など、本源的に個人の才能を生かす仕事は、
       おおむねフリーの状態で始まるのです。
       フリーというのは「一人でする仕事」という意味ではありません。
       職人さんやラーメン屋さん、農業のように一人ででもできる仕事はあります。
       ひとりでも開ける「代理店」や「相談所」関係の仕事もあります。

       世の中に「需要」がある仕事なら、覚悟をもって真面目に働けば
       商品が売れてお金が稼げる仕事。
       そのようなものは、フリーとは言いません。潜在的に顧客がいるからです。


       フリーの仕事は、需要そのものを創造するような仕事です。それによって、
       初めて、「顧客」も生み出されるような仕事です。
       クリエイティブであることが何よりの条件です。
       たとえば、お笑いタレントのばかばかしいほどの珍奇さに驚くことは多いのですが、
       でも、彼らが売れるということは、彼らが作り出した世界に「買い手」がついたことでしょう。
       そのお笑いが生まれなければ、それはそれで誰も不都合はないのです。
       バラエティ番組のひな壇に、
       別のタレントが座っているだけです。
       音楽の世界でも多分同じでしょうね。
       モーツアルトが生まれなかったら、ビートルズがいなかったら、
       といった仮定そのものがナンセンスですね。彼らは歴史を変えるほどの人たちで、
       音楽史に大きな足跡を残しているのです。

       それでも、もし、彼らが生まれなければ、私たちは彼らを知らないだけなのです。
       彼らがこの世に多くの価値を生み出したので、それで、私たちは彼ら(の仕事)を「買う」のです。



                 ★ ★ ★ ★ ★



        ジャーナリストは、「芸」を売る人たちとは、また違います。
        
        現実に起こっているニュース(社会現象)にコミットしていくのが、ジャーナリズムです。

        どのようにコミットするのか、何を掘り出して(あるいは切り出して)問題とするのかが
        問われる世界です。

        扱う対象が大きくて深刻、ダイナミックなものなので、ジャーナリストの世界は早くから
        組織化されているのです。
        新聞社、ニュース配信会社、テレビやラジオ局など、ある程度大きな組織でないとなかなか対応できません。
        また、取材資金も必要です。
        


        マスコミと言われるこれらミディアは、初めから組織されていて、むしろ、時代を経るにつれ、
        大きな組織に再編されているのです。
        グローバル社会では、どんな問題も世界中に広がっていて、取材費用も個人では賄えません。
        ジャーナリストと言われる人たちの大部分は、このような大きな組織にいる人たちです。
        ニュースの買い手である大衆もほとんどこのような大きなメディアから情報を得ています。

                 ★ ★ ★ ★ ★



        組織で取材する方が断然有利なマスコミの世界に、フリージャーナリストがいるのは
        なぜなのでしょう。
        志望する側からすれば、ジャーナリストはやりがいのある仕事です。自分で問題を掘り起し、
        提起し、人々に知らせ、問題について覚醒させることができるのです。
        組織で動くより、自由もあります。自分の視点や能力を生かすことができます。

        大会社なら、何を取材するかは、編集会議からはじまるかも知れません。
        どのような視点でとらえるかも、
        会社の方針に従わないといけません。
        新聞でも、朝日、読売、毎日、産経それぞれに、物の見方やとらえ方が異なります。

        しかし、一人ならば、自分の思う視点でニュースを書くことができます。
                

        
        この「自由さ」「鶏口(けいこう)」であることが、同時に、問題です。
        よほどの財力があって、ブレーンをかかえることができればよいのですが、
        そうでなければ、取材の手足に限りがあり、通訳や翻訳もし、カメラも自分で回さなければいけないのです。
        出版社、新聞社など、取材したものを買ってくれるところを見つけるのも仕事になります。

        せっかく良い仕事をしても、売ることができなければ、それは「道楽」になってしまいます。
        お金の問題だけでなく、
        本来、世に問題を提起するのがジャーナリズムなのですから、取材したものを、
        パソコンの中に入れたままでは、仕方がないのです。
        はっきり言って、ジャーナリストは、取材したものを世に出して、初めてジャーナリストです。
        ですから、ジャーナリストで世に出るのは、ある意味、「芸人」より厳しい活動です。


                 ★ ★ ★ ★ ★


        さて、後藤健二さんです。

        彼が、生まれたばかりの娘を置いて出かけたことや、
        テロ集団のいる危険地域に入って行ったことを批判するむきがあります。
        
        しかし、私たちは彼を「プロのフリージャーナリスト」であると、見なければなりません。
        仕事であれば、子どもが生まれた日に海外で働いているサラリーマンもいるでしょう。
        ある野球監督は、奥さんの危篤の時に、球場で指揮を執っていたと話していました。
        昔から役者は「親の死に目に会えない」仕事と言われたのです。

        危険地域に入るのは、もとよりリスクです。
        もとより、後藤さんも、取材したいものへの情熱と危険をはかりにかけたでしょう。
        個人としてできる限りの、警戒や準備もしていったものと思います。

        「自己責任」などと言うなら、後藤さん自身、「けがと弁当は自分持ち」と考えていたにちがいありません。

        あれほど危険地域ではなくても、フリーで仕事をすること自体、自己責任だからです。

        余力があり、方法があれば、だれであれ救出できればよいに決まっています。
        政府の高官が話していたように、日本政府は、
        日本国民ならだれであっても――たんに「冒険と娯楽気分」で出かけたような旅行者であっても、
        救出に全力を尽くすということです。

        
        救出できていれば、確かに、私たちも、後藤さんもご家族も、めでたしだったのです。
        しかし、いま、私たちは、

        後藤さんを、気概のあるフリージャーナリストとして、改めて認識し、
        「彼の仕事」を記憶して上げるべき
ではないでしょうか。


         それが、後藤さんへの、最高の献花になると信じます。





         人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる。
                                 (マタイの福音書4章4節)
  
       







               




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