以下は、さとうまさこのもう一つのブログ(SeeSaa)に掲載したエッセイCoffee Break11月11日の記事の再録です。案外反響があったので、こちらでも、掲載させてください。
Coffee Break、http://joshuacanan.seesaa.net/
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わたしは言った。
聞け。ヤコブのかしらたち、
イスラエルの家の首領たち。
あなたがたは公義を知っているはずではないか。(旧約聖書・ミカ書3章1節)
あなたがたは善を憎み、悪を愛し、
人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、(2節)
わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、
その骨を粉々に砕き、
鉢の中にあるように、
また大がまの中の肉切れのように
切れ切れに裂く。(3節)
聖書(神のことば)の表現は、ときに、たじたじとさせられるほど、どぎついのです。もちろんこれは、表現上のたとえです。この大がかりな肉料理の解体描写のような箇所に、思わず、引いてしまう人も多いのではないでしょうか。聖書やキリスト教への理解と共感は、しかし、美しい言葉、ためになる言葉だけで成っているのではないと知らされているかのようです。
このようなどぎつい表現が使われているのは、ミカ書のこの箇所が、神への背信のために崩壊していくイスラエル王国への警告になっているからです。BC730年ごろのことです。
ここ一か月ほど、じっさいに人肉を解体した犯罪が話題をさらっています。
一見、どこにでもいる青年が、体力や経歴からも取り立てて残虐さを推測できない青年が、「自殺サイト」を使って女性をつぎつぎと自分の部屋に連れ込み、殺して、解体していたのです。その後に、犯罪を隠ぺいしようとしていたことは確実であり、ということは、彼自身、それが「社会が許すはずもない悪いこと」だと知っていたはずなのです。
にもかかわらず、彼は、同じ「解体」を重ねていました。処理するためには、文字通り、骨から肉をそぎ取り、皮をはぎ取り、骨を粉々に砕き、肉を切れ切れに裂いていたのです。
実際に、食料として口に入れたかどうかはとにかく、「肉を食らうような」所業を行ったのは事実です。
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キリストは、「罪のない者から、まず、最初に石を投げよ」(ヨハネの福音書8章1節~11節)と仰せになりました。そうすると、姦淫の女に石を投げようと集まっていた人たちは、一人、また一人といなくなったのです。その中には、確信をもって「自分は姦淫をしたこともないし、死ぬまで、姦淫を犯さない」と言い切れる人もいたことでしょう。そして、事実、その人が模範的な神のしもべとして生きたとしても、その人も、「石を投げる」資格はないというのが、キリストの示しておられる「神の基準」だと思います。
カインに悪魔が働いて弟アベルを殺させたように、悪魔は、常に人を誘惑しているのです。
人間社会の制裁としては、「殺すだけ」と、「死体処理までする」のは違うわけです。社会的な制裁(刑法の規定)では、罰にはいろいろな量刑があります。「死体の損壊」が、「殺人プラスの非道な罪」であるのは事実です。
あるいは、「誰かの死を心で願うだけ」と「実際に殺す行為」との間には、決定的な差があります。「殺すな」と十戒が命じているのは、神が禁止されている基本的な戒めだからでしょう。人は、絶対にいのちを造ることはできないし、いのちだけは、一度失われたら、同じものは生まれないのです。
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昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺すものはさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって、「能無し」と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイの福音書5章21節22節)
これは、イエスキリストの有名な「山上の説教」の中のことばです。能無し、ばか者と言うだけでも、裁判を受け、死刑(ゲヘナに投げ込まれる)に値する罪なのです。
このような、「悪い思いに」は、すぐに、悪魔がつけ込むのです。
悪魔はいつでも戸口で待ち伏せしていて(創世記4章7節)、殺した後は、犯罪隠ぺいや、解体や、死体遺棄なども次々と指示してくるでしょう。
本当に、神のみ前に頭を垂れて、胸を叩きたいような箇所です。