ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

買いたたく2――モノの値段

2016年01月21日 | 聖書




       以前にも書いたのですが、
       若いころ、ある実業家の方が、
       モノの値段について、とても分かりやすく教えて下さったのです。

       その方は、ある同人誌を主宰している女性のご主人でした。
       まだ少年のころに、裸一貫で田舎から出てきて、
       いわゆる「丁稚奉公」から始め、
       知り合った頃は大阪で、アパレルメーカーを経営していました。
       私が関心がなかったので、その会社の名や、規模はよくわかりませんが、
       奥様にかなり自由にお金を使わせていたし、
       住まいのある街でも高額納税者だということですから、成功していたのでしょう。

       生意気な小娘であった私は、たまたまお宅で、ご主人に会ったとき、
       お茶をいただきながら、お尋ねしたものです。

       「セーター一枚の原価はいくらくらいですか」
        ご主人は、間髪を入れずに答えました。
       「ただです」
       「ただですって! でも、糸を仕入れなければならないでしょう」
       「糸も、ただなんです」
       「でも、羊の毛を買うんでしょう」
       「羊の毛もただです」
       「だって、ひつじの餌も水も要りますよ」
       「タダなんです。」
       「織機とか工場を立てるお金とか倉庫とか、敷地も買わなければいけないし」
        いっぱしの知ったかぶりをしていることにも気づかず、私は、
        議論を挑んでいるつもりだったようです。

       「みーんな最初は、ただなんです。」
        ご主人は楽しそうに答えました。
       「いいですか。羊も羊の餌も最初はただなんです。草も雨も日光も土地もただです。
        工場の機械の鉄も、織機の材料もただです。
        ただ、その一つ一つに、人手間(ひとてま)がかかって、
        それが値段になっていくんです。」


        目からウロコとはこのことでした。

        そういえば、関西では商人のもうけを
       「口銭(こうせん)」と言いました。
        子供の頃、商売とは無縁のサラリーマン家庭で育った私には、
        この言葉は、口先三寸で物を売るようなひびきがあって、感じが悪かったのですが、
        今、考えれば、これは「営業のこと」ですね。
       
        営業とは、「人が作った価値」を、お客様に知らせて物を売ることでしょうし、

        どんなに良いものを作っても、それを知らせなければ必要な人に渡らないのですから、
        「営業」は大切な仕事で、「口銭」は、少しも悪い言葉ではなかったんだ!
       

             ◎  ●  〇   ♪♬

        聖書を読むと、この世界のすべての物は神様がお造りになったのであり、それを、すべて
        神様は、ただで、私たちに与えて下さったのだということがわかります。

        いっぽう、聖書では、勤勉で堅実な労働が勧められ、怠慢が戒められています。

        神さまは、私たちに、タダで与えられたものに、手間をかけて、「価値」を生み出しなさいと
        勧められておられるのですね。
        手間――労働が利益であり、賃金なら、
        よく働く人が、「豊かになり」、その逆は「貧しさ」というのも、しぜんですね。

        品物の値段を判断するとき、
        それに「どれだけの労力」がかかっているかを見るのも、大切なのでしょうと、
        改めて気がつくのです。
        労力にはもちろん、手間の質――熟練や歴史まで考慮に入れなければいけないでしょう。

        いっぽうで、ただ単純労働をもくもくと続けた人の価値にも 気がつきました。

        きのうも、振り返ったように、極端にものを「買いたたく」ことは、
        けっきょく、人の労働を買いたたいていること
なのですね。

        労働しなければ生きていけないのは人間の宿命でしょうが、同時に神のご命令で、
        神のみこころに叶うことであるはずです。
        値段が下がって暮らしが楽になるのは事実ですが、

        「買いたたく」のが当たり前になったら、いずれ、自分も買いたたかれるのだと考えられないでしょうか。
        廃棄処分の食品を知らない間に食べていたなんてことは、
        「買いたたき」の裏返しかも知れないと思うのです。

        もとよりクリスチャンではなく、
        (奥様によれば)学があるとも言えない一人の商人が、
        とても大事な真理を知っておられたことに、いまでも、感心するのです。

        




        
        


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