韓国の大統領は、毎年、3月1日に演説をします。3月1日は、三一節という祝日で、1919年に植民地治下の朝鮮で日本からの「独立運動」が起きたことを記念した日です。
今年は、三一独立運動が始まったタプコル公園(旧パゴダ公園)で記念式典が行われ、文在寅大統領が演説をしました。
今、日韓関係は戦後最悪と言われ、文大統領が日本にどのようなメッセージを発信するかが注目を集めていました。
演説の全文は、こちらで読むことができます(リンク)。
懸案になっている、いわゆる元徴用工裁判や、元慰安婦裁判への直接的な言及はなく、
「過去にばかりとらわれているわけにはいかない」、
「過去の問題は過去の問題として解決していく一方で、未来志向的な発展に一層力を注がなければならない。韓国政府はいつでも日本政府と向き合い、対話する準備ができている」、
「韓国は東京オリンピック・パラリンピックの成功に向けて協力していく」
など、日本に対する融和的な内容が多かった、と評価されています。
一方、世界的な新型コロナ感染症の蔓延と関連付けて、1919年当時の感染症に言及したところが、今年の演説の特徴といえます。
三・一独立運動の前年、日帝による強制統治と収奪に苛まれた1918年にも、新種の感染症、スペイン毒感(インフルエンザ)がわれわれ民衆に襲い掛かりました。当時の人口の4割を超える755万人もの患者が発生し、14万人以上が命を落としました。
コレラもやはり「死」を意味していました。致死率は65%に達し、1920年だけでも1万3500人以上の人々の命が失われました。
日帝は、植民地の民衆を伝染病から守れませんでした。
このように、「融和的」な演説の中でも、日本の支配に対する批判を忘れてはいません。
一読すると、「三一運動前後の年に、朝鮮半島は感染症に見舞われたが、日本は植民地朝鮮の防疫・治療に熱心ではなかったため、スペイン風邪(インフルエンザ)とコレラで、多くの朝鮮人が死んだ」と読み取れます。
そして続く一節では、
●朝鮮の医学生たちは三・一独立運動に最も積極的に参加し、京城医学専門学校の学生たちが最も多くの逮捕者を出したこと、
●大韓民国臨時政府は、独立運動で弾圧を受けている民族の救護活動を行うべく、上海で大韓赤十字会を立ち上げたこと、
●コレラが流行し始めると、全国各地の青年や学生たちは青年防疫団を組織し、無料予防接種や消毒などの防疫活動を行ったこと、
などを挙げています。
ここには、いくつかの統計数字も挙げられていますが、これについて調べてみました。
まず、1918年のスペイン風邪。
1918年に世界的に大流行したスペイン風邪の犠牲者数については諸説あり、少ないもので1700万人、多いものは2500万人、5000万人、一億人などというものもあります。
2018年の米国の研究(American Journal of Epidemiology)は、もっとも控えめなもので、全世界で約5億人が感染、1700万人が死亡(うち、インドで600万人)となっています(リンク、英語)。ちなみに、1920年当時の世界の総人口は、約18億人。
日本の被害は、日本の内務省衛生局がまとめた『流行性感冒』(1922年刊)によれば、2380万人が感染、39万人が死亡。1920年の国勢調査による日本の人口は、5600万人。
朝鮮半島にける被害は、朝鮮総督府統計年報によれば、742万人が感染、14万人が死亡。1918年の朝鮮の人口は1678万人。
これらをまとめると、
地域 感染者 死亡者 感染率 致死率 死亡率
世界 5億人 1700万人 28% 3.4% 0.9%
日本 2380万人 39万人 43% 1.6% 0.7%
朝鮮 742万人 14万人 44% 1.8% 0.8%
※ 致死率は死亡者/感染者、死亡率は死亡者/総人口
演説にある、
「当時の人口の4割を超える755万人もの患者が発生し、14万人以上が命を落としました」
という内容は、感染者数について上の数字と少し違いがありますが、死亡者や感染率については、おおむね正しいと言えましょう。
しかし、この数字は、日本や世界の状況と比較して、とりわけ悪い数字とは言えません。日本も「人口の4割を超える2380万人」が感染し、「39万人」が命を落としました。死亡者の総人口に対する比率(死亡率)は、朝鮮半島の0.8%に対し日本は0.7%で、ほぼ同じです。
「日帝は、植民地の民衆をスペイン風邪から守れませんでした」が、同様に、「日本の国民も、スペイン風邪から守れませんでした」。さらに言えば、「当時、自国民をスペイン風邪から守れた国なんてなかった」のです。イギリスの植民地治下にあったインドでは、600万人が犠牲になりました。
次に、コレラ。
植民地朝鮮におけるコレラの流行については、韓国の金穎穂(キム・ヨンス)という学者の論文『植民地朝鮮におけるコレラの大流行と防疫対策の変化―1919年と1920年の流行を中心に―』(リンク)に詳しく記されています。
これによると、1919年と1920年の患者数、死亡者数は以下の通り。
朝鮮半島におけるコレラの流行
1919年、患者16,917人、死亡者11,339人、致死率67%
1920年、患者24,045人、死亡者13,453人、致死率56%
文大統領の演説には、「致死率は65%に達し、1920年だけでも1万3500人以上の人々の命が失われました」とありますが、「致死率は65%」は1919年の数字で、「死者1万3500人以上」というのは1920年の数字。2年間の流行の中で、「悪いとこどり」をしているわけです。
では、この「致死率65%」と「死者1万3500人」という数字をどう評価すべきか。
同時期の日本と比べてみましょう。
日本では、1919年には大流行の記録はなく、1920年に大きな流行がありました。
1920年、患者4,969人、死者3,417人、致死率69%
致死率は「69%」に達し、1919年朝鮮の67%(演説では65%)を上回っています。
一方、1920年の日本の死者数は、3417人で、同年の朝鮮の13,453人の4分の1程度。日本では、19世紀前半から何度も大流行に見舞われ、1822年の死者数は十数万人、58年は江戸で10万人、62年江戸で7万3千人、79年全国で10万5千人、90年3万5千人、95年4万人など。1920年の死者3417人というのは、コレラの歴史の中では小規模な流行です。
上記論文によれば、1919年の朝鮮での流行は、満州とロシアのウラジオストクから朝鮮に入って感染が拡がったもので、日本では流行しませんでした。1920年は、日本から朝鮮半島に流入したとのことです。
朝鮮半島における、1919年の11,339人、1920年の13,453人という死亡者数は、10万人以上の死亡者を出した過去の日本での流行や、同時期の朝鮮半島におけるスペイン風邪の流行に比べれは規模の小さいものでしたが、韓国併合後、コレラの流行としては最大のものだったので、朝鮮総督府は深刻に受け止め、さまざまな防疫対策をとりました。
大統領演説では、
コレラが流行し始めると、全国各地の青年や学生たちは青年防疫団を組織し、無料予防接種や消毒などの防疫活動を行い、多大な評価を受けました。ソウルでは計13洞、3000以上の世帯が連合自衛団を結成し、コレラに立ち向かいました。孝子洞(ヒョジャドン)をはじめとする市内8洞の住民は、伝染病院設立に向けた組合を立ち上げ、1920年9月4日、ついに初の私立伝染病隔離病院、「孝子洞避病院」が設立されました。
朝鮮人が創設した病院で、朝鮮人医師と看護師、漢方医が全力を尽くして患者の治療にあたったのです。
と、あたかも日本は何もしてくれなかったが、朝鮮人が自ら「防疫団・自衛団」を作って防疫活動を行い、伝染病院を設立して治療活動にあたったかのように説明されています。
実際には、朝鮮総督府も精力的に防疫活動を行いました。以下、さきほどご紹介した論文の中から紹介します。
感染症の防疫において最も重要なのは、病原菌の侵入ルートの特定です1919年、20年の流行では、どちらも総督府によって迅速な検疫が行われ、伝播経路が把握されました。
対策としては、交通機関の検疫があります。船からの流入を防ぐため、海港で検疫が行われました。また、流行地域から来る汽車の乗客も検疫所、隔離所、旅館などに収容して検便を実施。
また、流行初期から医師に胃腸病の届け出を義務付けました。19年9月以降は、全国主要都市に医師、看護婦、検疫委員、警官などからなる臨時防疫班を派遣して検査や予防注射を実施、また地域ごとに防疫自衛団が設置されました。
防疫においてもっとも力を入れたのは患者の発見で、19年までは戸口調査、家人・医師届け出などによって行っていたが、20年には密告や自衛団による発見も加えられました。効果が高かったのは、戸口調査と20年以降の「防疫自衛団」による戸別訪問でした。
防疫措置としては、予防注射の無償化、予防の心得を記したパンフレット配布、交通遮断、井戸の水質検査、人々の移動制限など。
コレラは1883年にコッホによってコレラ菌が発見されて以降、予防注射が行われるようになっていました。予防注射を受けた人数は、1919年に144万人、1920年に687万人。朝鮮の総人口が約1700万人であることを考えると、相当な数です。
医師と病院の数は不足していて、京城医学専門学校の卒業生もわずかであり、病院も1919年6月に施行された「私立病院に関する取締規則」に定める基準を満たすものはほとんどなく、伝染病患者用の施設基準を満たす病院は、大統領の演説にも出てきた孝子洞避病院が初めてで、それも1920年9月4日のことでした。1920年のコレラの流行は、6月26日に始まり12月8日に収束しましたから、病院の完成は流行期の後半にやっと間に合ったというところでしょう。
また、防疫には朝鮮人の衛生観念の向上も大切で、衛生に関する講話や活動写真の上映が行われました。
コレラ患者が出た場合、迅速に患者を隔離する必要がありますが、朝鮮では死者が出たときに葬式で人々が集まり飲食する習慣があること、「隔離治療」はそれまで朝鮮にはない治療法でなじみがなかったこと、実際に隔離病棟での致死率が高かったこと、病舎がオンドルではなかったこと、死んだ場合の火葬に対する忌避などのため、患者や死者が出ても届け出をしなかったり、隠蔽することが頻繁にありました。そのため、総督府は、1920年、「投書や密告」を奨励し報奨金を支払いました。
これは、今回のコロナ禍で、韓国政府が、多人数の会食の盗撮と密告を奨励し、報奨金を出したことを想起させます。
文大統領が言及した「青年防疫団・連合自衛団」というのは、1919年の流行時に登場した、コレラ防疫のための組織で、各地方の官民の発起によって作られました。コレラに対する恐怖心から生じた人々の自発的な動きが、政務総監からの官通牒により促された結果、組織されたものです。この組織は、医学の専門知識のある実務者が不足する中で、大いに活躍し、防疫に貢献しました。また、総督府による財政負担もその活動を後押ししました。
以上、ご紹介した論文は、1919年と1920年のコレラの流行において、衛生制度上の改編があり、朝鮮総督府―各道―地域の防疫自衛団という体制が整い、朝鮮総督府の防疫事業は大きな成果を上げた、と結論づけています。
文大統領の演説から受ける印象とは、ずいぶん違います。
文大統領の演説では、
「朝鮮の医学生(京城医学専門学校、セブランス医学専門学校)たちは三・一独立運動に最も積極的に参加し、京城医学専門学校の学生たちが最も多くの逮捕者を出した」
とのことですが、1919年3月1日と言えば、前年秋から流行が始まっていたスペイン風邪が猛威を振るっている最中です。人々の命を守るべき医学生が、医療活動そっちのけで、独立運動に精を出していた、などということが、本当にあったのでしょうか。にわかには信じられません。
このような内容は、これまでの歴史書(たとえば姜在彦『朝鮮近代史』)などには書かれていません。文在寅大統領が発見した新資料なんでしょうか。
ところで、1919年の三一運動での犠牲者に関しては、朴殷植の『韓国独立運動之血史』に出てくる7,509人という数字がよく引用されます。これは、1919年4月に上海で結成された大韓民国臨時政府が、朝鮮半島内からの情報を収集して集計したものです。
正確には、3月1日から5月末日までの集会参加者202万3,098人、死亡者7,509人、負傷者1万5,961人、逮捕者4万6,948人。
一方、日本の警察側が集計した「朝鮮騒擾事件道別統計表」によれば、3月1日から4月11日までの騒擾回数768回、騒擾人員49万4,900人、死者357人、負傷者802人となっています。
死者数が、朴著の7,509人、日本側資料の357人と、20倍の隔たりがある理由は、集計期間が朴著は3~5月の3か月であるのに対し、日本の資料はその半分以下であること、朴著の数字が伝聞情報であり、重複して数えられているものがかなりあること、などが考えられます。
しかし、それだけでは20倍という隔たりを説明できません。
ここで考えてみたいのが、感染症の影響です。コレラの場合、1919年の朝鮮半島における流行は8月に始まりましたから、3月から5月の死者数に影響はありません。
スペイン風邪のほうは、1918年から1919年の流行の期間が18年12月から19年3月ということですから、部分的に重複します。
第一次世界大戦の犠牲者は、約1600万人とされています。そのうち3分の1、すなわち500万人以上が、スペイン風邪などの疾病による死亡なのだそうです。
もしかしたら、朴著にある7,509人の一定部分(たとえば3分の1の2,500人)が、スペイン風邪の犠牲者(デモ参加中に感染し、病死)ではないかと思ったりするのです。
当時は、マスクもなかっただろうし、密の状態で行進し、口角泡を飛ばしながら独立を叫んだとすれば、飛沫も飛びまくりだったでしょう。
今の文在寅大統領は、「コロナの感染防止」を口実に、反政府デモを禁止してます。
少なくとも、3・1独立運動時に全国で行われたデモ行進は、スペイン風邪の感染拡大に一役買っていたことは間違いありません。
今年は、三一独立運動が始まったタプコル公園(旧パゴダ公園)で記念式典が行われ、文在寅大統領が演説をしました。
今、日韓関係は戦後最悪と言われ、文大統領が日本にどのようなメッセージを発信するかが注目を集めていました。
演説の全文は、こちらで読むことができます(リンク)。
懸案になっている、いわゆる元徴用工裁判や、元慰安婦裁判への直接的な言及はなく、
「過去にばかりとらわれているわけにはいかない」、
「過去の問題は過去の問題として解決していく一方で、未来志向的な発展に一層力を注がなければならない。韓国政府はいつでも日本政府と向き合い、対話する準備ができている」、
「韓国は東京オリンピック・パラリンピックの成功に向けて協力していく」
など、日本に対する融和的な内容が多かった、と評価されています。
一方、世界的な新型コロナ感染症の蔓延と関連付けて、1919年当時の感染症に言及したところが、今年の演説の特徴といえます。
三・一独立運動の前年、日帝による強制統治と収奪に苛まれた1918年にも、新種の感染症、スペイン毒感(インフルエンザ)がわれわれ民衆に襲い掛かりました。当時の人口の4割を超える755万人もの患者が発生し、14万人以上が命を落としました。
コレラもやはり「死」を意味していました。致死率は65%に達し、1920年だけでも1万3500人以上の人々の命が失われました。
日帝は、植民地の民衆を伝染病から守れませんでした。
このように、「融和的」な演説の中でも、日本の支配に対する批判を忘れてはいません。
一読すると、「三一運動前後の年に、朝鮮半島は感染症に見舞われたが、日本は植民地朝鮮の防疫・治療に熱心ではなかったため、スペイン風邪(インフルエンザ)とコレラで、多くの朝鮮人が死んだ」と読み取れます。
そして続く一節では、
●朝鮮の医学生たちは三・一独立運動に最も積極的に参加し、京城医学専門学校の学生たちが最も多くの逮捕者を出したこと、
●大韓民国臨時政府は、独立運動で弾圧を受けている民族の救護活動を行うべく、上海で大韓赤十字会を立ち上げたこと、
●コレラが流行し始めると、全国各地の青年や学生たちは青年防疫団を組織し、無料予防接種や消毒などの防疫活動を行ったこと、
などを挙げています。
ここには、いくつかの統計数字も挙げられていますが、これについて調べてみました。
まず、1918年のスペイン風邪。
1918年に世界的に大流行したスペイン風邪の犠牲者数については諸説あり、少ないもので1700万人、多いものは2500万人、5000万人、一億人などというものもあります。
2018年の米国の研究(American Journal of Epidemiology)は、もっとも控えめなもので、全世界で約5億人が感染、1700万人が死亡(うち、インドで600万人)となっています(リンク、英語)。ちなみに、1920年当時の世界の総人口は、約18億人。
日本の被害は、日本の内務省衛生局がまとめた『流行性感冒』(1922年刊)によれば、2380万人が感染、39万人が死亡。1920年の国勢調査による日本の人口は、5600万人。
朝鮮半島にける被害は、朝鮮総督府統計年報によれば、742万人が感染、14万人が死亡。1918年の朝鮮の人口は1678万人。
これらをまとめると、
地域 感染者 死亡者 感染率 致死率 死亡率
世界 5億人 1700万人 28% 3.4% 0.9%
日本 2380万人 39万人 43% 1.6% 0.7%
朝鮮 742万人 14万人 44% 1.8% 0.8%
※ 致死率は死亡者/感染者、死亡率は死亡者/総人口
演説にある、
「当時の人口の4割を超える755万人もの患者が発生し、14万人以上が命を落としました」
という内容は、感染者数について上の数字と少し違いがありますが、死亡者や感染率については、おおむね正しいと言えましょう。
しかし、この数字は、日本や世界の状況と比較して、とりわけ悪い数字とは言えません。日本も「人口の4割を超える2380万人」が感染し、「39万人」が命を落としました。死亡者の総人口に対する比率(死亡率)は、朝鮮半島の0.8%に対し日本は0.7%で、ほぼ同じです。
「日帝は、植民地の民衆をスペイン風邪から守れませんでした」が、同様に、「日本の国民も、スペイン風邪から守れませんでした」。さらに言えば、「当時、自国民をスペイン風邪から守れた国なんてなかった」のです。イギリスの植民地治下にあったインドでは、600万人が犠牲になりました。
次に、コレラ。
植民地朝鮮におけるコレラの流行については、韓国の金穎穂(キム・ヨンス)という学者の論文『植民地朝鮮におけるコレラの大流行と防疫対策の変化―1919年と1920年の流行を中心に―』(リンク)に詳しく記されています。
これによると、1919年と1920年の患者数、死亡者数は以下の通り。
朝鮮半島におけるコレラの流行
1919年、患者16,917人、死亡者11,339人、致死率67%
1920年、患者24,045人、死亡者13,453人、致死率56%
文大統領の演説には、「致死率は65%に達し、1920年だけでも1万3500人以上の人々の命が失われました」とありますが、「致死率は65%」は1919年の数字で、「死者1万3500人以上」というのは1920年の数字。2年間の流行の中で、「悪いとこどり」をしているわけです。
では、この「致死率65%」と「死者1万3500人」という数字をどう評価すべきか。
同時期の日本と比べてみましょう。
日本では、1919年には大流行の記録はなく、1920年に大きな流行がありました。
1920年、患者4,969人、死者3,417人、致死率69%
致死率は「69%」に達し、1919年朝鮮の67%(演説では65%)を上回っています。
一方、1920年の日本の死者数は、3417人で、同年の朝鮮の13,453人の4分の1程度。日本では、19世紀前半から何度も大流行に見舞われ、1822年の死者数は十数万人、58年は江戸で10万人、62年江戸で7万3千人、79年全国で10万5千人、90年3万5千人、95年4万人など。1920年の死者3417人というのは、コレラの歴史の中では小規模な流行です。
上記論文によれば、1919年の朝鮮での流行は、満州とロシアのウラジオストクから朝鮮に入って感染が拡がったもので、日本では流行しませんでした。1920年は、日本から朝鮮半島に流入したとのことです。
朝鮮半島における、1919年の11,339人、1920年の13,453人という死亡者数は、10万人以上の死亡者を出した過去の日本での流行や、同時期の朝鮮半島におけるスペイン風邪の流行に比べれは規模の小さいものでしたが、韓国併合後、コレラの流行としては最大のものだったので、朝鮮総督府は深刻に受け止め、さまざまな防疫対策をとりました。
大統領演説では、
コレラが流行し始めると、全国各地の青年や学生たちは青年防疫団を組織し、無料予防接種や消毒などの防疫活動を行い、多大な評価を受けました。ソウルでは計13洞、3000以上の世帯が連合自衛団を結成し、コレラに立ち向かいました。孝子洞(ヒョジャドン)をはじめとする市内8洞の住民は、伝染病院設立に向けた組合を立ち上げ、1920年9月4日、ついに初の私立伝染病隔離病院、「孝子洞避病院」が設立されました。
朝鮮人が創設した病院で、朝鮮人医師と看護師、漢方医が全力を尽くして患者の治療にあたったのです。
と、あたかも日本は何もしてくれなかったが、朝鮮人が自ら「防疫団・自衛団」を作って防疫活動を行い、伝染病院を設立して治療活動にあたったかのように説明されています。
実際には、朝鮮総督府も精力的に防疫活動を行いました。以下、さきほどご紹介した論文の中から紹介します。
感染症の防疫において最も重要なのは、病原菌の侵入ルートの特定です1919年、20年の流行では、どちらも総督府によって迅速な検疫が行われ、伝播経路が把握されました。
対策としては、交通機関の検疫があります。船からの流入を防ぐため、海港で検疫が行われました。また、流行地域から来る汽車の乗客も検疫所、隔離所、旅館などに収容して検便を実施。
また、流行初期から医師に胃腸病の届け出を義務付けました。19年9月以降は、全国主要都市に医師、看護婦、検疫委員、警官などからなる臨時防疫班を派遣して検査や予防注射を実施、また地域ごとに防疫自衛団が設置されました。
防疫においてもっとも力を入れたのは患者の発見で、19年までは戸口調査、家人・医師届け出などによって行っていたが、20年には密告や自衛団による発見も加えられました。効果が高かったのは、戸口調査と20年以降の「防疫自衛団」による戸別訪問でした。
防疫措置としては、予防注射の無償化、予防の心得を記したパンフレット配布、交通遮断、井戸の水質検査、人々の移動制限など。
コレラは1883年にコッホによってコレラ菌が発見されて以降、予防注射が行われるようになっていました。予防注射を受けた人数は、1919年に144万人、1920年に687万人。朝鮮の総人口が約1700万人であることを考えると、相当な数です。
医師と病院の数は不足していて、京城医学専門学校の卒業生もわずかであり、病院も1919年6月に施行された「私立病院に関する取締規則」に定める基準を満たすものはほとんどなく、伝染病患者用の施設基準を満たす病院は、大統領の演説にも出てきた孝子洞避病院が初めてで、それも1920年9月4日のことでした。1920年のコレラの流行は、6月26日に始まり12月8日に収束しましたから、病院の完成は流行期の後半にやっと間に合ったというところでしょう。
また、防疫には朝鮮人の衛生観念の向上も大切で、衛生に関する講話や活動写真の上映が行われました。
コレラ患者が出た場合、迅速に患者を隔離する必要がありますが、朝鮮では死者が出たときに葬式で人々が集まり飲食する習慣があること、「隔離治療」はそれまで朝鮮にはない治療法でなじみがなかったこと、実際に隔離病棟での致死率が高かったこと、病舎がオンドルではなかったこと、死んだ場合の火葬に対する忌避などのため、患者や死者が出ても届け出をしなかったり、隠蔽することが頻繁にありました。そのため、総督府は、1920年、「投書や密告」を奨励し報奨金を支払いました。
これは、今回のコロナ禍で、韓国政府が、多人数の会食の盗撮と密告を奨励し、報奨金を出したことを想起させます。
文大統領が言及した「青年防疫団・連合自衛団」というのは、1919年の流行時に登場した、コレラ防疫のための組織で、各地方の官民の発起によって作られました。コレラに対する恐怖心から生じた人々の自発的な動きが、政務総監からの官通牒により促された結果、組織されたものです。この組織は、医学の専門知識のある実務者が不足する中で、大いに活躍し、防疫に貢献しました。また、総督府による財政負担もその活動を後押ししました。
以上、ご紹介した論文は、1919年と1920年のコレラの流行において、衛生制度上の改編があり、朝鮮総督府―各道―地域の防疫自衛団という体制が整い、朝鮮総督府の防疫事業は大きな成果を上げた、と結論づけています。
文大統領の演説から受ける印象とは、ずいぶん違います。
文大統領の演説では、
「朝鮮の医学生(京城医学専門学校、セブランス医学専門学校)たちは三・一独立運動に最も積極的に参加し、京城医学専門学校の学生たちが最も多くの逮捕者を出した」
とのことですが、1919年3月1日と言えば、前年秋から流行が始まっていたスペイン風邪が猛威を振るっている最中です。人々の命を守るべき医学生が、医療活動そっちのけで、独立運動に精を出していた、などということが、本当にあったのでしょうか。にわかには信じられません。
このような内容は、これまでの歴史書(たとえば姜在彦『朝鮮近代史』)などには書かれていません。文在寅大統領が発見した新資料なんでしょうか。
ところで、1919年の三一運動での犠牲者に関しては、朴殷植の『韓国独立運動之血史』に出てくる7,509人という数字がよく引用されます。これは、1919年4月に上海で結成された大韓民国臨時政府が、朝鮮半島内からの情報を収集して集計したものです。
正確には、3月1日から5月末日までの集会参加者202万3,098人、死亡者7,509人、負傷者1万5,961人、逮捕者4万6,948人。
一方、日本の警察側が集計した「朝鮮騒擾事件道別統計表」によれば、3月1日から4月11日までの騒擾回数768回、騒擾人員49万4,900人、死者357人、負傷者802人となっています。
死者数が、朴著の7,509人、日本側資料の357人と、20倍の隔たりがある理由は、集計期間が朴著は3~5月の3か月であるのに対し、日本の資料はその半分以下であること、朴著の数字が伝聞情報であり、重複して数えられているものがかなりあること、などが考えられます。
しかし、それだけでは20倍という隔たりを説明できません。
ここで考えてみたいのが、感染症の影響です。コレラの場合、1919年の朝鮮半島における流行は8月に始まりましたから、3月から5月の死者数に影響はありません。
スペイン風邪のほうは、1918年から1919年の流行の期間が18年12月から19年3月ということですから、部分的に重複します。
第一次世界大戦の犠牲者は、約1600万人とされています。そのうち3分の1、すなわち500万人以上が、スペイン風邪などの疾病による死亡なのだそうです。
もしかしたら、朴著にある7,509人の一定部分(たとえば3分の1の2,500人)が、スペイン風邪の犠牲者(デモ参加中に感染し、病死)ではないかと思ったりするのです。
当時は、マスクもなかっただろうし、密の状態で行進し、口角泡を飛ばしながら独立を叫んだとすれば、飛沫も飛びまくりだったでしょう。
今の文在寅大統領は、「コロナの感染防止」を口実に、反政府デモを禁止してます。
少なくとも、3・1独立運動時に全国で行われたデモ行進は、スペイン風邪の感染拡大に一役買っていたことは間違いありません。