犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(3) 著者と日記の紹介

2014-05-21 23:26:00 | 慰安婦問題

 韓国出張で、「慰安所日記」の原本を購入することができました。

 題して『日本軍慰安所管理人の日記』(安秉直翻訳・解題、イスプ刊、2013年8月20日)

 韓国語の本なのになぜ「翻訳」かというと、原文は国漢混用文で書かれているため、そのままでは現代韓国人には読めないので、ソウル大学名誉教授の安秉直(アンビョンジク)氏が、現代韓国語に「翻訳」したものなのです。

 全体は422ページ。前半は現代韓国語訳、後半は原文の国漢混用文がそのまま掲載されています。また冒頭には28ページにおよぶ安秉直教授の解題が、巻末には二つの付録(付録1 米国戦時情報局心理作戦班、『日本人捕虜尋問報告』第49号。付録2 連合国最高司令部連合翻訳通訳局調査報告、『日本軍慰安施設』第2節慰安施設9慰安所bビルマ(1))がついています。

 安教授は、刊行された2年分以外の日記にも目を通しているらしく、「解題」の中には、2年間の日記からは読み取れない情報が紹介されています。

 私は、少し前のこのブログで、日記の日本語訳のみから著者について推測しましたが、安教授の解題のほうが正確なので、以下に訳出、ご紹介します。


1.筆者の日記の紹介

1)筆者(1905~1979)

 日記の筆者は、1905年慶尚南道金海郡に生まれ、1979年に亡くなった。彼は1922年に金海(キメ)公立普通学校(5年制)を卒業し、翌年から現在の金海市所在の某登記所の職員として勤務した。登記所に勤務中、ある土地所有権紛争に巻き込まれ、それ以上勤め続けられなくなり、1929年からは、現在の金海郡進永(ジニョン)邑(=村)にあった、ある代書屋に勤めたが、時期不明ながらある時点から進永邑で自らの代書屋を開設したそうだ。筆者は、代書屋の経営がうまくいったのか、日本製の山崎自動車に乗るほど生活にゆとりができ、進永では旅館に長期投宿するかたわら、大邱には妾をおいて旅館の経営も行った。これらのことから推測すると、日記の筆者は植民地の知識人として、ある程度の蓄財に成功したものとみえる。

 しかし、1940年代の統制経済時代に入り、筆者の代書屋事業は不況に見舞われたようだ。そのため、1941年には大邱にいる妾の家で暮らすようになり、そのときに慶尚南道ハプチョンで酌婦9人を募集して満洲で料理屋を経営する計画がある、というヒロカワという人物に、四千円を貸して詐欺に遭ってから、経済的に窮地に陥った。当時の四千円という額は、下級労働者の十年分の収入を上回る財産だ。著者が、大邱で慰安婦を募集して南方へ出発する義弟(妻の兄弟)に合流することにした動機は、上のような彼の経済的事情と、旅館業を通じて酌婦たちの人身売買の事情を知っていたという、家族的背景ではないかと推測される。日記の筆者の義弟である慰安所経営者山本○宅は慰安婦19人(仲居1人を含む)を募集し、日本軍によって組織された第4次慰安団に、筆者とともに加わった。

 日記の筆者がビルマとシンガポールに滞留していた期間は、1942年8月20日から1944年末までの2年5か月だ。彼は1943年10月20日から1944年1月末まで、シンガポールで旧日本陸軍将校の親睦・共済団体である偕行社のタクシー部に少しの間勤務したこともあるが、南方にいた間はもっぱら日本軍慰安所の帳場係として勤務したといえる。1942年8月から1943年1月16日までは勘八倶楽部、1943年5月1日から9月初めまでは一富士楼、1944年2月1日から12月中旬までは菊水倶楽部で、それぞれ帳場係として働いた。帳場というのは商店や旅館、料理屋などで帳簿をつけたり会計を管理したりするところで、今日のカウンターのようなところだ。彼が菊水倶楽部で帳場係として勤務していた間、慰安所の実務は主に彼が担当した。それゆえ彼の日記には軍慰安所の重要な経営内容が必然的に含まれることになった。

2)日記

 筆者は普通学校を卒業した1922年から1957年までの36年間に渡り、ほぼ欠かさず日記をつけた。日記帳は第1号から第36号まであり、第1~3号が一冊になっていることを例外として、1年に1号・1冊ずつだ。現在残っている日記は26冊で、1928年、1942年、1945~1950年の8年分が欠落している。それぞれのノートの冒頭には日本の紀元と年号が書かれており、年度の表示は正確だ。また表紙には、日記の号数、干支、檀紀、西暦、日本の年号が書かれた帯が貼り付けられているものもあり、これらは後で整理したときにつけられたものと見られる。現在、この日記は、京畿道坡州市にある博物館のタイムカプセルに所蔵されている。博物館のタイムカプセルは、10年前に慶州のある古本屋からこの日記を入手したそうだ。

 日記はだいたい、翌日の朝に書かれたものとみえる。日記に出てくる事柄はそのときそのときの記録なので、事実そのままだろう。そして日記に使われた文字は主にハングルと漢字で、ときどき日本語の仮名も混じっている。文章は基本的に韓国語体だが、多くの箇所で漢文体として読まなければ意味が通じないところがある。それゆえ日記を正確に読むためには、文章を文法的に整えなければならない。書体は基本的に行書、ときには草書が混じっている。韓国語の文体があまり発達していなかった当時の事情を勘案すると、原文そのものは大変にすぐれた韓国語の文体だが、今日の一般読者が読むにはいろいろ難しいところがあるので、現代文に翻訳した。

 日記の中で、日本軍慰安婦に関する調査・研究にとって有益な情報を提供してくれるのは、1942年~1944年のものだろう。なぜならば、この期間に著者がいかなる形態であれ、軍慰安婦の募集と慰安所の経営に関与したからだ。しかし、実に惜しいことに、現時点で1942年の日記が欠落している。1942年の日記には、朝鮮での慰安婦の募集と、ビルマでの慰安婦の慰安所への配置過程に関する情報が記録されている蓋然性が高い。しかし、現在残っている1943年と1944年の日記だけでも、日本軍慰安所と日本軍慰安婦たちに関する、多方面の情報が含まれている。ただ、先に指摘したように、この日記は筆者の個人的生活に関する記録であって、慰安所の経営に関する日誌ではないという点で、慰安所の経営に関する体系的な情報を提供していないという限界がある。


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2 コメント

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Unknown (belbo)
2014-05-22 14:04:57
私も日本語仮訳版読みましたが、貴重な原本の訳出、ありがとうございます。
短くも欠かさず付けられる日記を見ると、自分には真似できないと思いつつ、慰安所に関連しないもっと前の分を読んでみたくなります。

慰安婦女性の検査だとか、衛生サックだとか、友達と喧嘩して服毒(しかも過マンガン酸カリウム)した女性とか、映画を見に行く慰安婦とか、やたら虫歯に悩んだりとか。他の記述より詳細な皇軍の状況や、「皇威を四海輝かせなけばならない」、40歳を迎えて無為な日々を有意義に変えたいという元旦の計。日記だからの淡々とした記述で当時の日常が見えるのは、読み物としても面白いです。

慰安婦に関する記述は、どうこう言えるほど詳しくないのですが、検査や許可や遊興があって、現代のポン引きよりはるかに後ろ暗さが無いと感じました。

慰安婦問題、日本人慰安婦も含めて辛い体験をした人が無数にいたのは事実でしょうし、そこに軍の関与が全く無かった事はあり得ないのだから、全否定は狂ってます。ただ、無かった事まで積み上げるのも無茶苦茶です。
客観的な事実を受け入れるには、肯定否定いずれの方であっても、頼むから嘘を混ぜてくれるな、という前提しか解決しようは無いと思いますが、日帝は絶対悪とする韓国と、過剰反駁する日本人の間では、下手すれば永久に成立しないんでしょうねえ。

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犬鍋さんの酔い潰れ話や日常を綴った記事、大好きです。自分に無いものだからか、ご家族の話題もほっとします。つまらないなんてとんでもない。是非、無理のない範囲でこれからも。
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読み物として面白い (犬鍋)
2014-05-25 17:50:54
まったく同感です。

筆者は、韓国人特有の激しく感情を吐露する場面が少ないのですが、たまにそのような記述があると、筆者の人間性が垣間見えます。

慰安婦の資料としてではない読み方ができますね。
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