韓国の初等学校教科書(5年生)には、金玉均について次のように簡略に触れられています。
壬午軍乱のあと、清の干渉がひどくなり、金玉均をはじめとする開化派たちはなかなか思いを実現することができなかった。このため開化派は日本の力を借りて自分たちの主張を実現しようとした。
郵政局開局祝いのパーティーの隙をねらって、開化派たちはクーデターを起こした。開化派たちは清の勢力を追い出し、社会制度を改善するための政策を発表するなど改革を急いだ。これが甲申政変(1884)だ。
甲申政変は成功するかにみえたが、清軍の反撃を受け、日本が約束をやぶって撤収したため、三日で失敗に終わった。甲申政変の失敗で清の干渉はもっとひどくなった。
金玉均について詳しく記している姜在彦『朝鮮近代史』と韓国の民族大百科辞典の記述に沿って、その生涯を略述すると…
金玉均(1851~1894)
両班の家柄に生まれ、1872年に科挙文科に壮元及第(首席合格)。実学思想の大家珪寿の私塾で朴趾源の『燕岩集』を読みながら開化思想に触れる。政治結社、開化党創設に関わり同志を集めて指導者となる。
79年、僧の李東仁を日本に送り、彼が持ち帰った明治期の日本の書籍を通じて、朝鮮の近代化改革が急務であることを痛感する。
81年には自ら日本に渡り、日本の諸政治家に会って明治維新の過程を研究し、政治動向をつかんだ。日本滞在中に壬午軍乱の報せを受け急遽帰国、軍乱後には外交関係の要職を歴任し、政権内での開化派勢力の拡大に努めた。
82年に修信使として再び渡日。日本の近代的施設を視察、後藤象三郎、福沢諭吉の斡旋で横浜正金銀行より融資を受け、技術書、機器を購入、留学生派遣費に充て、留学生の選抜、留学を見届けて翌年帰国。金玉均は人材養成を重視し、84年までに50人の青年を日本に留学させた。彼は留学生たちに「日本がアジアのイギリスとなるのなら、朝鮮はアジアのフランスにならなければならない」と激励したという(ソ・ジェピルの回想)。
金玉均は政権内部において近代化の諸施策を実践、近代的新聞を発行し、郵便制度を作り、都市改造を進め、日本の陸軍に留学して帰国した士官を中心に近代的な軍隊を創設した。これらはすべて清と閔妃の忌み嫌うところとなり、開化派は左遷され、金玉均も83年東南諸島開拓使兼捕鯨使に左遷された。
83年、金玉均は国家財政の困難を打開するため、東南諸島開拓と捕鯨事業を担保に日本で国債を募ることを企図、三回目の渡日を図ったが果たせず帰国。閔妃派の報復により改革活動は頓挫した。さらに貨幣鋳造を巡って閔妃との対立は決定的となり、閔妃一派の清の干渉を取り除くことなしには近代的改革運動が進められない状況に陥った。ここにいたって金玉均は、国を救うにはクーデターという非常手段に訴えるしかないとの思いを固める。
ときあたかも清がベトナムをめぐってフランスと対立し、ソウルの兵力を半減させたのを機に、クーデターを敢行(1984年)。日本公使竹添は150人の兵力を出して、清軍がどんなに多くても撃退すると豪語した。
クーデターは成功し国王と閔妃を隔離、矢継ぎ早に新政策を発表した。その内容は、清に対する事代外交の廃止、人材登用における封建的門閥制度の打破、国民生活の救済、綱紀粛正、内政簡素化、戸曹による国家財政の一元化、軍事警察制度改革、国王親政の廃止と責任内閣制の創設など、ブルジョア民権思想を反映した近代的改革案であった。
ところが1500の兵力をもつ清軍が反撃すると、日本の150人の兵は約束を反故にして撤退を開始。開化派直系の100人の兵が抗戦したがあえなく敗退。クーデターは三日天下に終わった。
開化派は二手にわかれ、国王に随行した者は全員死亡。金玉均ら9人は日本に渡る船に乗った。しかし、あろうことか竹添公使は閔妃らの要請を受けて金玉均らに下船を命令、艦長辻勝三郎の義侠により、辛くも日本に亡命した。
帰国後の金玉均に日本は冷たく、86年には小笠原諸島に流配、88年には北海道に軟禁した。
その後東京に戻った金玉均は、94年、上海に渡り、守旧派の後ろ楯になっている李鴻章の説得を試みるが閔妃が送った刺客、洪鐘宇によって東和洋行の客間で射殺された。清は閔妃の要請を受けて遺骸をソウルに運ばせ、漢江河口、楊花津で凌遲處斬の刑に処した。
凌遲處斬とは大逆罪や悖倫に対する極刑で、一気には殺さす少しずつ五体を切り取り苦痛を与える八つ裂きの刑。閔妃は、すでに10年も前に起こったクーデターの恨みを持ち続け、金玉均の遺骸をも凌辱し、金玉均の頭部は長く漢江河畔に曝されたという。
彼ら開化派の祖国近代化に掛けた純粋な思いは、幕末から明治維新にかけての日本の志士たちに通じます。
近代化の先達としての日本に学び、日本に留学生を送って人材育成を試み、日本の援助を当てにして無謀ともいえるクーデターを企て、失敗。失意の中で政敵により暗殺されました。
肝心なところで受けた日本の背信と晩年の冷たい仕打ちに対する無念さはいかばかりであったでしょうか。
姜在彦は1986年に執筆した『朝鮮近代史』(平凡社)の中で、
「甲申政変当時、金玉均は最年長で34歳、洪英植は30歳、徐光範は26歳、朴泳孝は24歳であった。有為の青春を祖国の近代的変革に捧げた彼らは、長いあいだ「逆賊」「親日走狗」とののしられ、むくわれることがなかった。いまわれわれは、彼らが果たした役割を朝鮮の歴史の流れのなかで正しく位置づけ、評価しなければならない」
と書いています。
もし韓国に司馬遼太郎のような優れた歴史作家がいたならば、開化期の不遇の英雄として脚光を浴びていたことでしょう。
ただ、1980年代までの韓国における評価がどうであれ、現在の韓国において教科書や百科事典の記述を見るかぎり、金玉均は「親日走狗」ではなく、韓国の近代化の第一歩を踏み出すきっかけを作った政治家として評価されているらしいことが、唯一の救いです。
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若手エリート官僚のクーデターだったわけで
タラレバですが成功していれば東アジアの
歴史も変わったのかもしれませんね。
それにしても、墓を暴いてもというのは
日本人にはない感覚ですが、火葬の習慣が
日本にあるせいかもしれないな、などと
思いました。
処刑の写真は既に人体とは判別できない
状態でしたが、ショッキングなものでした。
現在は名誉回復されているようで少しホッとしました。
オサラルノム(五殺されるべき奴)というのは、韓国の最大級の辱説(罵り言葉)であるというのを、昔何かの本で読んだことがあります。
ただ、韓国の若者は「そんなの聞いたことない」と言っていました。
日本に頼って改革を推進した者=親日派、
と解釈されているからです。
姜在彦氏は再評価を訴えたのですが、それは彼が日本で活動しているから可能な話です。
実際、金玉均について肯定的な評価をした本が出版されたことがありますが、左派系のマスコミに叩かれました。
(金玉均を高く評価する人=日本の帝国主義者、という設定になっています)
http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=50110624143846
その本を読んでみたくなりました。
私がもっている90年代の学校教科書(特に96年発行の高校教科書、放送大学の歴史教科書)は、金玉均を高く評価しています。
書評をしている学者の言が正しいならば、その後になって改革が日本の主導である点が強調され、金玉均の評価にも変化があるということなのでしょう。
現在でも、このような本が出るということは、さまざまな評価があるということなのかもしれません。